寂しい椅子ー岳が見た舞花と海斗の景色

鈴木 海斗

第1話

 ようこそ、僕の部屋へ。

 僕の名前は、がく。人間ではない。椅子だ。アームチェア、日本語で言うと肘掛椅子だ。


 生まれは、北欧、デンマークという国らしい。実は、その頃の記憶が全くない。日本に来て、中古家具としてとあるアンティーク家具の店に並んだ。そしてとあるカップルに出逢った。僕の記憶はそこから始まる。だから国籍を聞かれたら、日本と答えるだろう。


 日本には付喪神つくもがみ-九十九神とも書くらしいが-という伝承があるらしい。長い年月を経た道具に神や精霊が宿るとされる。そんな話を、いつか海斗が舞花にしていた。

「へえ、岳くんも人格があるのかな。北欧でも使い込まれてたみたいだし」

 僕が道具の立場として、当事者として思うに、それは使い手次第なんだ。僕は本当に、舞花と海斗には運命を感じている。

 海斗が僕を買って、舞花が僕に名前を付けてくれて、それで僕は自我に目覚めたんだ。そして目覚めると同時に、僕は舞花に恋をした。

 椅子の分際で?

 それはその通りだけど、椅子である前に僕も男の子だ。

 目の前にこんなに素敵な女性が現れて、あまつさえ僕に身体を預けてくれて、何も感じなければそれこそ、デクの棒というもんだ。


 舞花が、僕に座る。彼女はいい香りがする。小ぶりなお尻は弾力に富んでいて、重くはない。僕にもたれる舞花はいつもリラックスしている。時には眠ってしまうこともある。

 僕はこの時間が永遠であって欲しいと願う。海斗にとってもそうらしいが、僕にとっても、舞花は理想の女性だ。人間の女性は彼女一人しか知らないだろうって?いや、テレビを観て僕も色々と知識を蓄えている。確かに、リアルには舞花だけだけど。


 鈴木海斗。本来、この男性が僕のご主人様だ。舞花にせがまれて僕を買ってくれて、自分の部屋の一番いい場所に置いてくれた。でも、僕にとっては奴は恋敵だ。わかってるさ。椅子が人間の女性に恋してもどうにもならないことくらいは。だから、僕は憎むべき恋敵に、自分の想いを託しているようなところがある。こいつもいい奴なんだ。心から舞花を愛していることが、見ていてよくわかる。しかも、僕は自分では動けない。そもそも僕が海斗の部屋にいる限り、海斗が舞花と仲良くしてくれないと、いとしの彼女に会えないという、どうすることもできないジレンマを僕は抱えている。


 海斗は、自分では僕に座らない。概ね、向かい側の一人掛けのソファから、僕に座る舞花を見ている。これはつまり、僕を見ているに等しい。

 舞花と会話している時、海斗の表情は生き生きとしてよく変わるが、稀に舞花が海斗を怒らせた時を除いて、いつも舞花への思いやりに満ちている。慈しみに満ちている。椅子である僕にだってわかる。そして僕も、嫉妬するよりはどういうわけか幸せな気持ちになる。いや、二人がイチャついている時はさすがに勘弁しろよ、と思うけど。


 ともあれ、2007年秋、僕は舞花に見出され、『岳くん』という名前をもらって自我に目覚めた。そして海斗の部屋で、舞花専用のアームチェアとして、幸せな暮らしが始まった。


 いつでも僕は舞花を待っている。

 舞花は部屋に来ると、

「こんにちは、岳くん、元気だった?」と声を掛けてくれる。綺麗な声、優しい笑顔。

 この時、僕はまるで主人が帰ってきた時の仔犬の気分だ。舌があれば、出しているだろう。尻尾があれば、思いきり振り回しているに違いない。

 そして舞花は僕の隣の観葉植物にも声を掛ける。ドラセナ・マッサンガーナという種らしい。彼女の名は、『葉子』。海斗が命名したんだが、舞花に比べると命名にセンスがない。本当にコピーライターなのか。

 それはともかく、僕と隣の葉子が会話ができると思われがちだが、それはない。同じ木なんだから、とか言われそうだが、彼女は植物。生きている。僕はあくまで、すでに死んだ木で、本来命を持ち得ない道具族だ。

 だけど、彼女がどんな気分かは、彼女の呼吸でわかる。

「葉子ちゃんも元気だった?」

 そう声を掛けられる時、本当に嬉しそうに呼吸する。舞花は葉子のライバルのはずなんだが、まあ、よっぽどの恨みでもなければ、舞花を嫌いな奴なんていない。この部屋はとても居心地がいい。特に舞花がいる時には、部屋全体が日なたのお花畑のようだ。

 ある時、舞花は手作りしたクッションを僕に着けてくれた。まあ、自分のためなんだろうが、僕が舞花にプレゼントをもらったようで、とても嬉しかった。とても暖かくて、舞花が座っていない時でも、舞花と一緒にいるようだ。


 ところが冬が始まる頃、ぱったりと舞花は来なくなった。どうしたんだ海斗。何があったんだ。何とかしろよ。動けずにただ待っているこっちの身にもなってみろ。

 でも、海斗も苦しんでいた。海斗の独り言を総合すると、どうやら舞花の父親とぶつかったらしい。舞花のようなお嬢様育ちは、両親には逆らえない。僕だってテレビのドラマやニュースを見せられるうち、人間世界の有り様もわかってくる。何やってんだ、海斗。もうちょっと考えて、しっかりしてくれよ。


 今日は十二月二十日。海斗の誕生日のはずだ。夜、部屋に帰って来たが、なんだか様子がおかしい。電気をつけた海斗の顔には、殴られたとわかる痣があった。右手の拳も傷めている様子だった。そして、しばらく僕を見つめ、

「岳くん、舞花じゃないけど、ごめんな」

 そう言って初めて僕に腰掛けた。

(舞花はどんな気持ちでこの椅子に腰掛けていたんだろう)

 いつもよりゴツゴツしたお尻の感触。海斗の気持ちが僕に流れ込んでくる。

 その時、舞花の声が聞こえた気がした。

(海くん、聞こえてる?私はここにいるよ)

 それは、海斗を呼ぶ舞花だった。どこから聞こえるんだろう。

 海斗の舞花への想い、舞花の海斗への想いが重なり、僕を媒介装置として、奇跡的にシンクロしたのか。

 それは、海斗の誕生の時間。やがて、舞花のイメージが降りて来て、海斗と重なったように見えた。

 海斗もまた、感じている。驚きの表情の後、舞花の意識を受け入れたようだった。

(お誕生日おめでとう)

 舞花の意識を海斗が受け入れて、二人はお互いを完全に理解した。

 海斗は、舞花に会いたいと泣いた。まるで子供みたいだった。でも、僕には理解できる。涙を流すことが僕にできるなら、きっと僕も同じように泣いていただろう。

 僕と海斗は、一緒に舞花のために戦う戦友なんだと思った。


 結局、それから三ヶ月もの間、舞花はこの部屋に来なかった。座る者のない椅子ほど、惨めなものはない。ただ場所を取るだけの邪魔者だ。

 海斗は、スケッチブックを広げることが多くなった。誕生日のシンクロ事件から、より強くイメージする力が備わったのか、僕の上に舞花がいなくても、僕に座る舞花を見ている。本当はそこにいない舞花を見ながら、鉛筆を片手に懸命にデッサンしている。そのうちに僕まで、舞花が座っているように思えてくるから不思議だ。

 だから、僕も海斗がデッサンするこの時間が大好きだった。座る者がいなくても、僕の存在が海斗の世界にあり、海斗の創作に役立っているのだから。


 舞花を父親の軟禁から救い出したものの、舞花は食事を拒否し続けて衰弱してしまい、最後の一週間は入院していたらしい。僕は心配で仕方なかったけど、永遠に思える時間を経て、ようやく久し振りに舞花が部屋に来た。ガリガリに痩せてしまっている割に、努めてなのか、元気や明るさは変わらない。

「ごめんね、岳くん。私が来なくて寂しかった?」そう言って僕を撫でてくれた。愛する人に気に掛けてもらえることがこんなに幸せだなんて。生きててよかったと思った。いや、僕はただの物で、自我はあっても生きてはいないんだっけ。

 その時、「舞花、本格的に君を描くことにした」海斗が宣言するように言った。


 それからしばらくが、僕にとっては一番幸せな時期だった。

 海斗は舞花が部屋に戻ってくる直前、僕によく似た木製の、イーゼルとかいうやつを買ってきた。折り畳み式のスタンドみたいなもの。何に使うんだろう、と思っていたけど、しばらくして謎が解けた。油絵を描くキャンバスとやらのスタンドなんだ。そこに海斗は、舞花をモデルに絵を描き始めた。そう、僕に座った舞花だ。舞花の肖像画を描くために、海斗は長い時間、練習しつつ、構図を考えていたんだ。


 絵を描いている時の海斗は、とても情熱的に舞花を見つめている。おそらく、舞花でなくてもこんな瞳を向けられたら、海斗に惚れてしまうんじゃないか。もちろん、この瞳を向ける相手が舞花だけであることも、僕は知っているんだけど。


 描かれる舞花は、海斗の視線を身体中にくまなく感じて、体温や心拍数が上がっているように感じた。舞花の息遣いを、舞花の反応を、僕は全て受け止めた。それは舞花が感じる至上の愉悦であり、興奮であり、躍動する命そのものだった。

 これが人間の愛というものか。得難い経験だと思った。僕は幸せだった。


 一方、一つ言えることは、この二人の間にはもう誰も入れない。僕は登場人物ですらなく、椅子という物としてだからこそ関われることが、とても幸せだと初めて感じた。


 舞花の痩せていた体は、日に日に張りと艶やかさを取り戻した。体力をつけないといけないこともあってジムに通っているのと、恐らくモデルとして描かれることも大きいのだと思う、以前に増して痩せ型ではあるものの、理想的な体つきになっていくようだ。


 アルバイトにも復帰したらしく、舞花が出かけていることも多くなった。しかし海斗は、みんなが出掛けるゴールデンウィークとやらの休み期間中、舞花がいなくても一心不乱に絵を描いている。取り憑かれたかのように。出来上がった絵は舞花にプレゼントするらしい。


 そしてついに、絵は完成した。

 描いている間は、海斗は僕に正対しているから、僕には描いている絵は見えない。海斗の表情が見えるのみだ。完成して初めて、僕は絵を観た。


 何というか…言葉が見つからないほど、素晴らしい絵だった。

 この絵を観た全ての男性が、舞花に恋に落ちるような。いや、女性が観ても魂を揺さぶられるだろう。女性心理など経験不足で分からない僕にも、間違いなく分かる。

 絵には描き手の意図や意思など、かけらも見えない。それなのに、描き手の眼がどのようにモデルを捉え、どのような気持ちを込めて筆を動かしたか、絵の具を塗り重ねたか、圧倒的に伝わってくる絵だ。そしてモデルもそれに応え、描き手にしか見せない表情で、仕草で描かれている。命の絵、愛の絵。光に溢れ、あらゆる好意に溢れ、賞賛するかのように美しくも愛らしい女性を写し取っている。


 ああ、言葉では表現し尽くせない。自分のボキャブラリーの無さを恨む。


 描き手である海斗は冷静だった。舞花は、僕と違って制作途中でも観ていたようだが、最初吸い寄せられ、鳥肌を立ててフリーズしたかのようになり、その後感動で瞳をうるうるさせていた。

 それはそうだろう、モデルになり、さらにこれを贈られた女性。舞花は世界中で一番幸せだと思う。言わば、永遠の愛を贈られたんだ。たとえ海斗が、舞花が死んだとしても、この絵は現在の舞花の魅力を余すことなく伝え、永遠に輝きを放ち続ける。


 それから舞花はバイト先、いや社員になったんだっけ、とにかく仕事が忙しくなったらしく、なかなか来れなくなった。しかも、新しい店の店長に抜擢されたという会話も聞こえてきた。さすが舞花だが、僕は寂しい。だが、ここまではまだ序の口だった。


 じめじめとした梅雨時のこと、この部屋の主の海斗がいなくなった。

 ある朝、寝違えなのか首が痛いと苦しんでいた。数日の間に腫れか酷くなり、痛みに耐えきれず病院に行って、すぐに入院となったらしい。


 海斗が帰って来なくなって2週間も経った頃、呼び鈴が鳴った。しばらくして鍵が開いて、舞花が一人で部屋に入ってきた。久し振りに会えて、僕としてはすごく嬉しい。

「やっぱりいないわ…どうしたんだろう」そう呟いて、舞花はうなだれていた。

「ねえ、岳くん、あなた何か聞いてない?」

 聞いてはいるんだけど、残念ながら僕は言葉が発せられない。海斗は入院したんだと教えてあげたいんだけど。

 その後、舞花は僕に腰掛けて、海斗への書き置きを書いた。

「岳くん、葉子ちゃん、またね」忙しいのか、20分ほどで出て行った。


 二度目に来たのは、さらに5日ほど経ってから。書き置き含め、変わっていない、つまり海斗が帰っていない様子を確認すると、窓を開け、掃除をした。その後しばらく僕に座ってぼうっとしてから、出て行った。


 三度目は、舞花は途方にくれた様子で、「どうしてなの、私はどうすればいいの」と、泣いた。

 なぜ、海斗は舞花に連絡しないんだろう。こんなに心配させて、病気でも連絡くらいできるだろう。僕は無性に腹が立った。僕が動けたなら、僕が話せたなら、舞花を慰めてあげられるのに。


 そして、ようやく、海斗が帰って来た。前より痩せて、首に包帯を巻いている。一人だ。書き置きを読んで、頭を抱えている。舞花には連絡したんだろうか。何となく、まだしていない、という気がした。


 それから2日して、その夜海斗は帰って来なかった。翌朝帰ってきて、その次の日の夜、知らない女性が突然、部屋に来た。海斗は「夏希ちゃん」と呼んでいる。女性の態度を見ると、海斗への気持ちがわかった。


 海斗、何を考えているんだ。舞花という最高の彼女がいながら。夏希という女はその舞花の絵を見つけると、釘付けになっていた。だが、舞花や僕のように感動してという訳ではなく、これが誰かを考えている様子だった。その瞬間、ドアが開いた。夏希が今見ていた絵のモデル、舞花だった。


 海斗は「この人に話があるから」と、夏希の方を追い出した。当たり前だ。そして舞花とのやり取りが始まった。舞花はわからない、と言った。どうして知らされなかったのか。それはそうだ、会えなくなってもう1ヶ月か経つ。

 舞花がテレビに出て有名になり、時を同じくして、一方で海斗は病気になった。気を遣って、無理をして、そのせいで傷ついて、病気の苦しさも相まって。

 海斗の説明がわからないわけじゃない。でもなぜあんなにお互い愛し合っていながら、すれ違ってしまうんだろう。結局、話は物別れとなって舞花は出て行った。


 翌朝、舞花の求めで、海斗は舞花に絵を送った。これで大好きな舞花の絵にすら、僕は会えなくなってしまった。


 その夜、また夏希が来た。何事もなかったかのようにいそいそと。海斗と一緒に食事したが、その後海斗が舞花のことを話すと、夏希の攻撃が始まった。攻撃対象は海斗ではなく、舞花だった。あまり知らないはずなのにわざわざ調べたのか、夏希の舞花への罵詈雑言ときたら、とても聞くに耐えないものだった。でもだからこそ、海斗が許さなかった。逆上した夏希を部屋から追い出した。


 まったく、弱っていたのはわかるが、どうしてこんな女に。でも、毅然とした海斗に、何故か安心している僕がいた。ただ一方で、夏希の燃えるような眼に、一抹の不安を覚えた。


 夏本番。舞花は相変わらず部屋に来ない。テレビに取り上げられて有名人になり、九月末にオープンする、舞花自身が店長になる店の準備の多忙も相まって、二重の意味で来られる状況じゃないみたいだ。だが、その前に、海斗は舞花とちゃんと仲直りできているのか。


 ある時、郵便で立派な封書が届いた。それは舞花の店『サジタリアス』のプレオープンイベントの招待状らしい、

 その後、海斗は舞花にメッセージを送ったようだ。どうやら二人の仲直りを案じたのは杞憂らしい。八月三十日の花火大会で、海斗は舞花に会う。それが決まって、海斗はあからさまにウキウキしている。どうにかして、部屋に連れて帰って来ないものか。僕は舞花の尻が恋しくてしょうがない。いや、尻と言っても僕が椅子だから接点は尻なわけで、決してエロティックな意味ではない。


 しかし、舞花は部屋に来なかった。だが、花火大会の後は海斗はまた活き活きとして、会えないながらも舞花とうまくいっていることは分かった。そして、九月二十日のプレオープンイベントの日を迎えた。


 その夜、海斗は帰って来ず、朝方になってずぶ濡れでフラフラと帰って来た。シャワーだけ浴びて、ベッドに潜り込んだようだ。何かあったのは明白だった。まったく、どこまで気を揉ませてくれる。

 午後にようやくベッドから出て来て、その後電話で舞花の弟の賢太郎と話していた。とても信じられない言葉が聞こえた。「舞花が刺された」「犯人の女は海斗の知り合い」すぐに僕は思った。それはあの看護師、夏希という女ではないのか。

「記憶喪失になった」あの舞花が。どうして神様は、ここまで二人に試練を与えるのだろう。


 それからしばらくの海斗は、悲痛だった。

 マスコミが朝晩押しかける、海斗のまだ乾いていない傷口に塩を擦り込むような心ない言葉を、次から次に投げつける。何かを発言しても捻じ曲げられ、曲解されて書かれてしまう。黙っていると卑怯者呼ばわりだ。なんの権限があって、こんなことが許されるのか。人の心を傷つける、立派な暴力だ。


 舞花は入院している、でも入院している病院も海斗には知らされていない。聞いたところで行けないことが分かっている、動くと事態を悪化させるだけなので、どうすることもできない。当の舞花は記憶喪失で、海斗の存在すら忘れている。


 これは、海斗が入院した時に舞花に知らせず、彼女を苦しめた報いなのか。いや、それにしても、この仕打ちはあまりに過酷すぎないか。


 十月は休みにしたとのことで、珍しく海斗はずっと部屋にいた。大概は何をするでもなく、無表情でぼんやりと僕を見ていた。正確には僕を見ていることもあれば、僕に座っている舞花の残像を見ていることもある。


 そんな、やりきれない手持ち無沙汰の中で、海斗はギターを抱えた。フレーズを弾きながら言葉を繋いで、こんな歌を弾き語った。まさにこれは、僕の歌だ。

 僕が海斗の心を思いやるように、海斗も僕の孤独を分かっているのだろうか。


 寂しい椅子


 君のいないこの部屋は

 僕にはとても広すぎる

 そこここに君の幻 見つける夕暮れには


 窓際のアームチェアは

 とても君のお気に入りで

 いつもそこで上目遣いに僕を見つめてた


 ああ、泣いたり拗ねたり 笑い転げてみたり

 気まぐれな仔猫のよう

 ああ、そんな君が去った 居場所の大きさに

 まだ僕は戸惑い うろたえてる


 自嘲気味に笑ってみる

 全て僕が招いたこと

 所詮人は誰かの愛に 生かされてる存在さ


 ああ、言葉じゃ足りない 途方もない孤独を

 どう飼い慣らせばいいの

 ああ、君が去ったあとに居座った静寂

 この部屋は 時間さえ止まってる


 ふと気づけば 窓には闇が降りてる

 繰り返す日々に 痛みは癒えても


 ああ、僕の胸の奥 想い出の棲む場所に

 切ない椅子がある

 ああ、泣いたり拗ねたり 笑い転げてみたり

 あの頃の君がいる


 ああ、ここにあるものは 過去の亡骸ばかり

 明日への重荷ばかり

 ああ、僕の部屋の隅 もう座る者のない

 寂しい椅子がある


 賢太郎から待ちに待った連絡があった。舞花が、あの自分を描いた肖像画「陽溜まりの花」を見て、反応を示したらしい。明日の朝、舞花が部屋に来る。記憶を取り戻すために。そして海斗は強い味方がいると言った。「寂しい椅子」僕のことだ。「舞花の居場所という点で俺のライバルなんだ」

 恋敵に運命を委ねざるを得ない、永遠に勝ち目のないライバルではあるが。


 それにしても舞花に会うのは随分久し振りだ。待ちきれない夜を過ごし、翌朝。弟の賢太郎と、父親の奏太郎に伴われて現れた記憶を失くした舞花は、背負うものや拘りが抜けて、まるで少女のようだった。これまで見たことのない頼りない舞花を、僕は受け止めた。


 僕は僕のできることをやる。


 舞花の中にあるイメージが僕には分かる。バラバラの記憶のピース、それが、一部組み上がっている。それは紛れもなく、僕の上で、海斗が舞花を見つめ、舞花がそれに感応した、あの絵を描かれている時のイメージ。

 舞花にとって最も強烈で至福の体験だったのだろう。そこから拡げられるのか、それとも別のピースが鍵になるのか。

 舞花は頑張っている。この部屋の環境が、僕に座って正面から海斗に見つめられることが、記憶を取り戻すうえで、最高のシチュエーションなんだと思う。


 その時、雷が鳴った。


 その光と音に舞花が反応した。何かのイメージが組み上がった。花火だ。

「花火」舞花が呟いた。「綺麗ね」

 瞬間、海斗の頭に浮かんだ花火大会の夜の映像。それを舞花にシンクロさせる。凄まじい勢いで花火大会の記憶のピースが吸い寄せられ、組み上がるのが分かる。

「これが最後のピースだ」海斗が言った。


 ドーン!!ドシャーン!!


 強烈な稲光に特大の雷鳴が重なった。近くに落ちたらしい。ネガとポジを繰り返すシルエットは、座っている舞花に海斗がくちづける姿だった。

 花火大会の記憶から、恐るべき勢いで全てのパーツが組み上がり、舞花が本来いるべき世界を形づくった。


 海斗の愛が、舞花の愛が奇跡を起こした。まあ、少しだけ、僕も役に立った。舞花は記憶を取り戻した。


 海斗と賢太郎、奏太郎。疲れて少し眠っていた舞花がそこに加わった。4人の話し合いで、海斗と舞花は、2年間、離れて暮らすことが決まった。僕も2年、舞花に会えなくなるわけだ。でも2年経てば、それからはずっと長く、舞花のそばにいられる。そう思っていた。


 十一月二十五日の舞花の誕生日までに、海斗はもう一点、舞花の絵を仕上げた。花火の日の舞花らしい。これはこれで、『陽溜まりの花』とはまた違う舞花の魅力が切り取られていた。紺の花柄の浴衣姿は十分に女性らしい魅力をたたえながら、いたずら好きな少年ぽさというか、独特の舞花らしさがそこには表現されていた。それはそれで、誰もが恋してしまうような可憐な舞花だった。

 出来上がった時、海斗は腕組みしながらしきりと考えた挙句、『夢一夜・繚乱の花』と呟いた。

 僕には少し難しい名前だが、過ぎ行く夏への惜別の想いが込められていて、この絵には相応しいタイトルだと思った。


 十二月二十日、海斗の誕生日。舞花はなんと『サジタリアス』のディナーに海斗を招待したようだった。それを最後に、海斗は舞花に会わない。本当に会わなかった。


 そして、僕にとっては果てしなく長い年月が経ち、訪れた2011年春。ある時突然、僕は舞花が感じられなくなった。舞花が地方都市に越して、遠く離れていても、僕はずっと舞花の存在を感じていたのに。

 だからこそ、僕は奇跡的に手に入れた自我を保ってこれたんだ。これで、僕はもうすぐ意識を失うことになる。見た目には何も変わらないだろうけど。


 終わりはいつも突然に来る。もう、僕に残された時間はない。


 さよなら、海斗。さよなら、舞花。たぶん、永遠に。

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寂しい椅子ー岳が見た舞花と海斗の景色 鈴木 海斗 @taka-k

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