ラプンツェル・ロマンス
「旅に出たいのです」
少女は弱々しく告げる。
「なにかと思ったらまたであるか」
でっぷりと太った男は飽き飽きしたと言った風情で返す。
「望むものは何でも与えると言ったではないか。好きに申してみよ」
「いいえ、何も要りはしません。ただ、外の世界を見せてほしいのです」
悲痛に眉根を寄せ、うつむき喉の奥から声を絞り出す。
「外の世界であるか。それでは、窓を増やすか?」
「いいえ、この町の細部を、塀の向こうを、山の向こうを、見てみたいのです」
「それでは、画家を呼ぼう。旅人を寄せて物語を――」
「いいえ、いいえ。そうではないのです」
少女は組んだ指をぎゅっと握りしめる。
「この脚で、大地を踏んで、歩きまわりたいのです」
*
カーネーという宿場町がある。
アッシュバール王国領の最西端に位置するこの町は、かつて農業や牧畜、林業で営む小さな村だった。西に山を臨み、ときに越えるものを、ときに越えたものを、質素ながらも暖かく迎える小さな村だった。
山の向こうに帝国ができた。その時から、多くの行商人がこの村を通り道とした。帝国からの大使もここに泊まるようになった。ときに、使節団もここを利用するようになった。その時から、この村は町へと変わっていった。変わったと言っても規模ばかりで、住民たちの心は素朴でありながらよそ者にも暖かかった。
そのうちに、誰がいい始めたか、「境の宿」と呼ばれるようになった。
*
「カーネーの発展著しいことは、王もご存知のはずです」
まだ若さを残す男が王をまっすぐに見つめて話す。
「あぁ、あそこは良いところだ。私も后も、王子も良くしてもらった」
「ですから、あそこを王の目の届く場所にするべきなのです」
「ショーダンよ、それがわからないのだ。なぜ怯える必要がある」
若者の眉がビクリと動く。王の目にもそれは見えていたが、この若者は生来神経質なのだ。能力に免じて多少の無礼は許している。
「むしろ鷹揚に構えていては遅きに失するのです。まさか、山の向こうに共和国があることをお忘れか」
「口を慎め、ショーダン! 誰の恩寵でそこに立てていると思っている!」
「口を慎むのはお前だ、ガリル! 今は俺と王の時間だ」
横を振り向き、ガリルと呼ばれた初老の男よりも大きな声で反論する。
それを皮切りとして、にわかに議場が騒ぎ始める。そのほとんどはショーダンを糾す怒声である。
「ショーダンの言葉のとおりである」
王が手を上げて静かに告げると、議場はまた静けさを取り戻した。
「ショーダン、続けてくれ」
「始めから整理させていただきます」
議場の長机に広げられた地図を指差し、話し始める。
「カーネーは王国と共和国との境目です。カーネリオ山を挟んだとしても、この村がもっとも重要な地点であることは賛同いただけると思います」
王の頷くのを見届けてから、また話を始める。
「共和国は数十年前より周辺地域との戦争は一時休戦として、和平を保っています。ですが、またいつ、かの国が戦争を始めようと画策するかわかりません」
「それを陛下は臆病と言っている――」
ガリルの声は王の静かな手のひらに押し止められる。その手が垂直から水平に動く。
「また、元老院が望まなくとも、かの国が第二のガネール・ヴァッシュを産まないとも限りません。そのときに重要になってくるのが、このカーネーなのです」
ショーダンの指が地図のカーネーを指し示す。いくぶん正確性に欠けるとは言え、縮尺の小さな地図でもその町はまだ地図に記載されている。
「かつてであれば私もここまで重要視はしませんでした。かの共和国が未だなかった頃には。しかし、今やかの町は重視せざるを得ないほどに重要な拠点なのです。
王よ、考えてもみてください。共和国がプロパガンダによって味方につけるかも知れません。あなたの後の代によってあの町が圧政を受けるかも知れません。あの町が知らぬうちに滅んでいるかも知れません。北西のエルフたちにも注意を向ける必要があります。
ですから、賢明にして先見のある王よ。あの町を、今のうちに王の目と腕の届く場所にしておくべきなのです」
王は若者の話にじっと耳を傾けていた。が、不意に息を吐く。
「お前はさっき、私の後の代にあの町が圧政を受けるかも知れないと言ったな」
「申し上げました」
「では、お前の言うとおりに、今カーネーを統治するものを送ったとしよう。そのせいで私の、そしてのちの代で圧政を受けるとは考えなかったのか」
「ですので、派遣するものは繊細に決定する必要があります」
「そんな悠長な時間があるのか? 『またいつ、かの国が戦争を始めようと画策するか』わからないのだろう?」
青白い顔に白く長いひげを生やしたベンルーが揶揄するが、それを無視してショーダンはひと束の羊皮紙を取り出す。
「すでに候補者はリストアップしています。経歴から性格、能力、適正、動員できる兵、そして王への忠誠まで、一人ひとりと面談をして調べ上げています」
ベンルーが小さく舌を打つ。もう少し性根の良いものにならなかったのかと、王はすこし視線をそちらへ向けた。
「あとは王と、王のふさわしいと考える者たちでこの中から選び出すだけです。……王の、許しを得たならですが」
最後の言葉は少し低く固くなってしまう。王のしわがれた指先が羊皮紙をめくる音だけが聞こえる。やがて、ふむ、と王が息を吐き、告げる。
「では、お前の考えを試すとしよう。選出には私とショーダン、フッコ、ザンネルベルクで当たることとする。異論はないな」
見渡す議場では、名前を呼ばれたフッコ、ザンネルベルク以外の誰も、言葉を発さない。
「寛大なお心に感謝いたします。必ず、成功することを約束いたします」
*
「マレブリオ様、いかがいたしますか」
若い世話係がささやく。
「致し方ない。彼女を慰めてやらねば。作家を雇ってもっと冒険物語を書かせろ。なるべく面白いやつだ。衛兵には旅人や吟遊詩人などが来たときに連れてこさせるように言え。場合によっては私もなにか勉強せねばならんかもしれんな」
塔の螺旋階段を降りるたびに太った腹が揺れる。
「承知しました。手配させておきましょう」
「あぁ、頼む。まったく、お姫様には苦労をかけさせられる」
「やぁ、マリア」
そのでっぷりとした腹に似合わず、マレブリオは爽やかな笑顔と声で挨拶をした。
マリアと呼ばれた少女は、部屋の真ん中に椅子をおいて、その膝には本と小さな手を重ねている。
鉄格子の中は本棚にも入り切らないほどの本で溢れている。
「こんにちは、マレブリオ様。今日は天気が良いですね」
少女は憔悴しきった笑顔で彼を出迎えた。
「あぁ、ごきげんよう。窓からの日光も気持ちがいいだろう?」
「えぇ、小鳥の歌も爽やかなようです」
男は満足げにうなずく。
「今日はね、外からやってきた吟遊詩人を連れてきたんだ。かのヴァッシュ=オ・タール共和国の貴族たちの酒盛りでも人気でね」
「まぁ、それはすごいですね」
「あぁ、こいつの歌はすごくいいんだぞ。ほら、入れよ」
「失礼いたします」
そう言って静かに入ってきた青年は、粗末なようでいて、見るものが見れば上等な装備をしていた。頑丈で温かい服は、カーネリオ山の森を抜けるのに随分役立ったことだろう。その手に携えたリュートには、華美過ぎないが、しかし精巧な装飾が施されている。さぞ腕のたつ職人の手による作品だろう。
「コブンナのソガと言うんだ。おい、始めてもいいぞ」
マレブリオは自分とソガの分の椅子を引っ張ってくる。ソガは椅子に腰掛け、少し引いて語り始める。
その演奏は確かに素晴らしいものだった。リュートの音色はあくまで美しく、ピンと張られた弦は、いままでマリアの聞いたことのない音色を奏でた。また、ソガの語る内容は、よくある英雄譚であったが、しかしその表現や語り口の変化、演奏との兼ね合いはひどく心躍らせるものだった。書で何度も読んだはずの出来事が、先の展開を知っている物語が、どうしてこうも心躍らせるのか、マリアは心から彼の紡ぐ物語たちを楽しんだ。
「以上になります」
その言葉に、マリアは知らず手を打ってた。
「あなた、その……すごいわ。とても楽しい時間でした」
「あぁ、僕も楽しませてもらった。お前の歌は相変わらず面白いな」
「恐悦にございます」
ソガが深々と頭を下げる。
「ねぇ、マレブリオ様。この方をもてなしてあげて。望むだけいさせてあげてください」
「あぁ、そうしよう。君はいつも僕の心を見透かすね」
「ありがたき幸せです」
またも深々とソガが頭を下げる。マレブリオに肩を抱かれて帰っていく彼を、マリアは手を振って見送る。その後を世話係、そして二人の近衛兵が出ていき、彼女は一人取り残される。
壁際の机に向かって読書を再開する彼女の口には、さっき聞いた吟遊詩人の歌が乗っていた。
もうすぐ、夜が来る。
スケッチ・ブック 角角角 @eusy_rum
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