抜刀少女のしましま嗜好

畳縁(タタミベリ)

抜刀少女のしましま嗜好

 それはねじれた大木のようだった。

 盛り上がった筋肉が太い骨格の周りで螺旋を描く、見上げるような威容。その指のひと掻きで人の身など、容易に引き裂いてしまうだろう。

 人間ではない、鬼だ。飢えと渇きを凌ぎに来た、異界の化け物だ。


 だが、その顔は焦りに歪んでいた。

 角は欠け、右腕は根元から切り飛ばされ、既に勢いを無くした血がしたたり落ちる。木の幹のような足は切り傷だらけだ。


 鬼は夜霧の中に、小さな人間が佇むのを見る。

 巫女装束に甲冑を着込んだ出で立ち。肩を滑る黒髪、繊細な首。幼さの残る頬の稜線。口元は結ばれ、その瞳は怪物を静かに捉えたまま、動かない。


 ざっ、と草履が鳴った。白い足袋から、はだけた足首が覗く。

 人と鬼の絶望的な体格差を埋めるひと振りの太刀を鞘に収め、半身を引いている。

 姿勢を下げた、居合の構えだ。


 鬼が叫んだ。

 踏み潰す勢いで走り寄り、左腕を振り上げる、その瞬間。

 音さえ、聴かせずに。少女の手元が煌めいた。

 振りぬいたその細い手首で、止められた刀身は月を映す鏡のようだった。

 届いていないにも関わらず、鬼は胸から肩まで斜めに切り裂かれている。


 あたりに獣の絶叫がこだました。

「グゥアオオオオオッッ」

 そして、青い鮮血が噴き出して。

 それはもう凄まじい勢いで……。彼女はまた、浴びてしまうのだった。


「グゥオオオオ」

 白い巫女服が、どんどん染まる。

 どばどばとかけられた、生臭い鉄の味が終わらない。

「……うぅ」

 同じく血だらけの手で、無駄だと分かっていても、顔をぬぐう。

 芦原爾乃(あしはら じの)は本当に、本っっっ当に、最低な気分になった。



 端が苔むした長い階段を上がり、少女が寺を訪れる。濃緑色のブレザーとスカートに、襟の白いライン。花を象った校章はこの辺りの中学校のものだ。

 爾乃は、度が高そうな分厚い、瓶底みたいな眼鏡を両耳にかけて、普段の生活をしている。巫女服で戦っていた昨日の夜とはうって変わって、押し込めたような地味さがあった。肩の竹刀袋に、重い太刀が隠されていることだけは特殊であるが。


 階段を昇りきった爾乃は、一呼吸すると寺へ上がり、住職に挨拶してから離れの小屋へと向かった。貰った鍵で、がちゃりと扉を開けると、高めの天井に猫タワーやクッションが置かれ、そこかしこに猫が落ちていた。

 彼女の目元が、少しだけ緩んだ。お目当ては、寺に置かれた保護猫ハウスだ。


 そこで眠る白猫にしゃがみ込む爾乃だったが、手を近づけた途端、猫はぎょっとした顔をして立ち上がり、彼女の脇をすり抜けていった。

「・・・・・・ちゃんと流したのに」

 自分の手の甲を確かめる。甘く微かなハンドクリームの香りだった。柑橘系は避けている。昨晩浴びた、血の妖気が抜けないのだ。これがあるから、ほとんどの猫に嫌われる。分かっていたけれど、石鹸を変えたら良くなるかもと思って、試したのだ。


 よく知る相手にしか分からない微妙な悲しみを瞳に宿して、爾乃は引っ掻き傷だらけのソファに竹刀袋をかけて、座った。

 横髪をかき分け、目を瞑って待ち続ける。


 学校でも、彼女は迫害こそされていないものの、影のように暮らしている。

 規定通りのスカートを思い切って詰めたら、健全な男子なら目線が振れて定まらないだろう。分厚い眼鏡を外せば、女子は彼女に憧れ、きっと学校一の美少女に祭り上げてもらえる。だが、その座は人当たりの良い二番目、三番目以降に譲っていた。


 怪異の血を浴びた爾乃は、怖がられるのだ。

 血のにおいが抜けないその身からは、人を払いのける力が働いているとしか思えなかった。芦原の一族は、元々怪異に狙われやすい体質だったと言われているが、遂にキレた先祖が専守防衛から先制攻撃を掲げて、血肉を書き変えてしまうような修行の末、文字通り"身につけた"異能を使い、寄り憑かんとする怪異を積極的に討ち滅ぼしていったとされる。結果的に、彼らはこの地の安寧に貢献してきた。


 その系譜に連なる者が、爾乃なのだ。

 もっと幼い頃は、世のため人のためと使命感を持って戦えた。だけど、思春期を迎えてからは、自分の身にだけ降りかかる災厄に理不尽を感じるようになってきた。

 "視えすぎる"ために、こんな分厚い眼鏡をかけて生活する。

 吐き気のする血の味を我慢して、あげく人や猫に避けられる。

 何故、自分だけが?

 この身が世界のために捧げられた生け贄のような気がして、爾乃はときどき叫びたかった。いま叫ぶと、猫がみんな逃げてしまうが。


 目を開くと、傍らに使い古したタオルのような、一匹の猫が座っていた。

 片目に傷が入った、隻眼のやつだ。茶色の縞々は、所々毛が抜けている。

「ゴローッ」

 爾乃は見るなり縞々タオルに抱きついた。ゴローは驚いた様子を見せたが、されるがままである。ひとしきり頬ずりすると、両前足を捕まえて、膝に乗せる。


 そして、ひげが生えた口の膨らみを柔らかく揉み始めた。

「しゃべって」

 揉み続ける。ゴローは迷惑そうに悶えた。

「しゃべってっ」

 なおも揉み続ける爾乃の指を逃れて、首を振り回した。

「ぷはっ、止めろ!」


 爾乃が僅かに喜んだ顔を見せる。たまらず腕を抜けてソファ前のテーブルに移ったゴローは、舌を出し入れしながら、くしゃくしゃにされた顔を洗う。そして、鳴くでもなく、流暢な調子で言った。

「猫は普段喋らないんだ、常識を覆すな」

 頭と体を振るう。その長い尾が揺らめいて、二本に分かれる。

 四本脚と二本の尾で抗議する猫に向かい、膝に手を置いて爾乃は言った。


「だって、学校でも仕事でもほとんど話せないんだもの」

 ゴローは爾乃が見つけた、化け猫だ。寺の保護猫ハウスを隠れ蓑にちゃっかり暮らしているのを、見破った。

 以来、彼女が唯一触れる猫であると共に、話し相手でもある。


「だからって俺と話そうとするな。同級生でいないのか」

「いない」

 ゴローがぺぺっと頭を掻く。

「嘆かわしい。分かった、聞いてやるよ・・・・・・」

 そうしてぐるぐると回り、眠るように座り込んだ。

「あのね」


 昨日はこんな風に戦ったとか、学校でこんな事があったとか。

 彼女は慌てたように次々と喋り続ける。父や母は厳しいのであろうか、話し相手にはならないということか。いま、ようやく固まりきった口が回りだした爾乃は、他の場所ではまるで別人のようであろう。

 数ヶ月で親離れする猫の身に実感は無いが、ある程度推し量ることはできた。

 ただし、好きな音楽だのテレビやら配信だのは、大抵よく分からず流すのだが。


「それでね、天然の比良野君がメンバーに・・・・・・」

「うんうん。で、月にどれくらい斬るんだ、お前」

 自身の毛皮に埋まりながら、ゴローは会話をぶった切って尋ねた。

「いきなり? ええっと」

 先月、先々月を数えているのか、指が閉じたり開いたりする度に爾乃は頷く。


 ゴローが首を伸ばした。

「数学苦手か」

「・・・・・・月、二~三くらい」

「そのペースじゃ、相手から近づいてくるのは無理だぞ」

 浴びた血はすぐに消える。しかし、妖気の痕跡は長く残る。

 人を遠ざける雰囲気は、爾乃が戦う限り消えそうにない。


「俺みたいに繰り返せば慣れることもあるから、自分からいけよ。友達が居ないの、悩みなんだろ」

「今はいいからっ。お話、聞いて」

 爾乃が膝を叩く。ソファーから身を乗り出した。

 ゴローの首が退く。

「やめろ、あんまり見るな。俺、猫なんだから」

「嫌なことばかり言わないで」

 泣きそうな目で、正面から見つめられると、ゴローはつらい。


「なんで甘えられてんのか・・・・・・、それと、外だ」

「え?」

 隻眼が細められた。爾乃は背中の窓の方を向く。

 寺の広々とした敷地に、シルバーカラーの車が一台だけ停まっていた。アイドリング状態で、運転手が乗っている。

 その老人のドライバーと目を合わせて、爾乃は背筋が粟立つ感触を覚えた。

 非現実的な赤い眼球で、こちらを見ていたからだ。


「その眼鏡をつけている間は、感覚が鈍ってるんだったな」

「ここに居たら突っ込まれる」

 保護猫ハウスが破壊されたら、生き甲斐をひとつ無くしてしまう。

 竹刀袋から太刀を出した爾乃は、縞々の毛皮を突然拾い上げ、ドアを開けた。



「おいっ、なんで俺を巻き込むんだよ」

 小脇に抱えたゴローが抗議する。

「ゴローだって妖怪でしょ、狙われるよ!」

 長い髪を乱しながら、アスファルトの境内を駆けてゆく。

 赤目の老人は様子を変えずに、アクセルをゆっくりと踏んだ。


「はぁっ、はぁっ」

 緑色のスカートが前後に揺れ、硬いローファーが足に食い込むのも構わず、走った。スピードの乗った車は、すぐ後ろまで追いついてくる。

「先に逃げてっ」

 屈んでゴローを降ろすと、背中に向き直った。


 飛び出してゆく二本の尾を見届けて、視線を移せばすぐそこに車が迫っていた。

 爾乃は落ち着いて片膝を立て、両手で支えた太刀の柄頭を突き出す。

 眼前にシルバーの車体が広がった。衝突。

「・・・・・・っ!」

 結果は分かっていても、少し怖い。

 背中のすぐ後ろのアスファルトが、耕したように捲れ上がった。太刀が衝撃を後方に逃したのだ。静止した車は、タイヤが空転し、なおも前進を続けようとする。


 ウウゥと怒ったように唸りを立てる、その車の窓が下がっていった。

「化け猫も一緒に轢き殺して、追加ボーナスと思ったが。血のにおいがする小娘、妙な技を使ってくれる」

 運転席の老人らしき何かが言う。


 爾乃が応じた。前方からの圧力に、びりびりと太刀が振るえる。

「そう。ここの所の轢き逃げは、お前の仕業か」

「ハイブリッド車はいいぞお。背中まで寄っても気付かれん・・・・・・」

 足立、横浜・・・・・・車のナンバープレートが、壊れた液晶のように組み変わって。

「牛車で轢いていた頃に比べれば、便利になったものよ。人間のシステムに乗って、我等は存在を続ける。小娘、お前はどうだ」

「お陰様で、不自由してるっ」

「滅びるべくして滅べ。ウハハ、ハハハ!」

 タイヤが更に激しく回る。ギアをチェンジして、老人の化け物は右足に加え、左足を踏み込んだ。


「車輪は偉大なり。堕武流・亜句世流ダブル・アクセル!!」

 このままタイヤが地面を噛めば、何百キロ出るのであろうか。

 前からの重みが倍加では済まないものになった。踵の先の地面がシャベルの如く掘り起こされ、爾乃の腕が強引に曲げられてゆく。

「うっ・・・・・・」

 歯を食いしばるが、もう何秒も保たない。


 爾乃は太刀を掴みながら、片手でするすると鞘を引いていった。鏡のような刃が、露わになってゆく。

「もう一押し! 逝けえぇ」

 赤目の怪物が両足のペダルをベタ踏みする。突然、押さえていた力が失われ、シルバーの車は前方に吹っ飛んだ。捲れ上がった地面でジャンプし、激しく着地すると、人間ならばフロントガラスを割って飛び出してしまう程の急ブレーキで減速し、アスファルトに爪痕を残しながら横滑りをして、停まった。


「おお? 速すぎたかな」

 運転席から開いた窓に首を出して、老人は辺りを見回した。

 新幹線のような高速・大質量の物体に轢かれた人間は、血の霧となってしまうという。彼は、少しやりすぎたかもしれないと思った。

 路上に転がる肉の塊を眺めるのも、楽しみのひとつだったからだ。


「・・・・・・」

 その乗り出した首に、冷たいものがあたる。太刀だ。

 妖気と、微かな石鹸のにおいがした。

 分厚い瓶底の眼鏡が、カランとボンネットを叩いて跳ねていった。

 黒髪を流して、荒い息を吐く少女が、車の上に膝立ちしている。


「ちょっと、死ぬかと思った」

 濃緑色の制服は太刀を抜いた刹那、緑の巫女服と黒の甲冑に変化していた。

 引き抜いた鞘はいつの間にか腰の横に吊され、正しく佩かれている。

「ま、待て。わかった、ワシが運転を教えてやる、それで」

「乞われても、聞けない」

 再び振り上げるでもなく、両手首の動作で太刀をずらす。

 それだけで、簡単に首が落ちた。

 肩が平らになった老人の骸は、そのまま痙攣しながら血を吐き出す。

 爾乃は、目を背けた。こういうのが本当に嫌だ。


「はぁ」

 汗が一筋流れて、ため息をつく。上に居たから、浴びる心配だけはない。

 途端、爾乃のいる車のルーフが傾いた。

「うわっ!?」

 飛んで離れると、車の至る所に切れ目が入って分解され、内部の機構が成長するように盛り上がってゆく。

 <ウハハハ・・・・・・>


 首を切り離されたはずの老人の声が、車のスピーカーから聞こえた。

 <喪亜・残・魅入津・次・哀モア・ザン・ミーツ・ジ・アイ、ファイナルラップだ!>

 原型を止めないスケールで変形した車の巨人が、平たく塗られたアスファルトを踏み砕きながら、爾乃に接近した。次々撃ち出される合金の拳を、緑の巫女服を着込んだ少女は太刀で左右に受け流し、反らしてゆく。

 だが、両方から腕が迫り、掴まれた。球状の見えない力場に守られた爾乃だったが、その形ゆえに逃れようがない。


 巨人の全身で、出て行く所のない圧力がかけられ、腰の鞘が軋む。

 <小娘、好きな男に抱かれる夢でも見ながら逝くがよいわ!>

 爾乃の身体そのものは掴まれておらず、自由だ。

 刃先を超えて届く、太刀を振るおうとした。


 しかし。好きな・・・・・・抱かれ?

 少女はその一瞬に、想像した。

 振り下ろした刃は、遙か後方の木々を縦に引き裂いて、終わった。

 急に力が抜けた。鞘にヒビが入り、球状の力場にも割れが起き。

 爾乃の人生も、ほぼ終わった。

 気障りな老人の笑いが反響している。


 そこに、近所でしばしば聞こえるような、威嚇の叫び声が加わった。

「ニャオオオオオッ!」

 <ウオッ>

 同じくらいに巨大な猫が、車の巨人をぶん殴っていた。


「ゴロー・・・・・・?」

 爾乃がつぶやく。

 バランスを崩した巨人に前足を押し込み、倒して更に叩く。ひたすらに叩く。

 日本車である。その表面はベッコベコにひしゃげていた。


 だが、内部は無事だったらしい。

 <化け猫が、邪魔だ!>

「イギャーッ!」

 突き出された合金の拳は、あまりにも重たかった。

 ゴローは水切りのように地を跳ねて飛んでゆく。


 <貴様は後で轢いてやる>

 車の巨人が、身体を回す。

 爾乃は・・・・・・堅いアスファルトに座し、目を瞑っていた。

 太刀はひび割れた鞘に収められ、顔は少しだけ、赤くなっている。

 <挽き肉にしてやるぞ、小娘ェェ!>


 力の焦点を合わせるには、集中が必要だ。

 たとえ学校一の美少女が、地味に振る舞っていたせいで、二番目や三番目に憧れの人を奪われていたとしても。

 言葉にされただけで、あれこれ想像してしまうとしても。


 <食らえぇっ>

 何が来ようが関係ない。

「お前なんかに・・・・・・」

 目を開く。


「上手く生きてるお前等なんかに、私は負けない!」

 抜刀した。剣速は凄まじく、返す刀の軌跡が、花弁を形成する。

 <あ、がっ・・・・・・>

「秘剣・花陽浴はなあび——」

 再び、太刀を鞘に収めた。最後まで、音はしなかった。

「キモい」

 <ぐわああああっっ>

 がらがらと全身のパーツが解体され、内部機構にまで刃が通った車の巨人は、そのボディを循環する怪異の血を吹き出して絶叫した。


 ぼたぼたと落ちる血の雨は、しかし爾乃には降りかからなかった。

「大丈夫だ、大丈夫・・・・・・痛てて」

 顔を腫らしたゴローが、覆い被さっていたからだ。

 化け猫パワーで膨らんだ、茶色い縞々の巨体。

 その背中は、赤い色でびしょ濡れである。


「ありがとう」

 ふっさふさの毛皮に、爾乃は抱きついた。

「もう少し、こうしていてもいい?」

「惚れんなよ。俺はサビ猫しか愛せないんだ・・・・・・若干くすぐったいぞ」

 顔をうずめる。

「今度、背中に乗せてよ」

「毛皮が乾いて、妖気が消えたらな」

 爾乃は、今日一番の笑顔を見せる。


 ゴローは喉を鳴らした。

 知っているよ。お前は思っているより、普通なんだ。

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