へびおんな

灰崎千尋

バスクチーズケーキ

「ねぇ涼子、今度これつくってよ」

 愛子がスマホの画面を見せてくる。ピンクや赤でキラキラしたウェブサイトの記事タイトルは『今年ブーム!?“バスクチーズケーキ“ってどんなケーキ?』だった。

 私は自分のスマホを取り出して、検索窓に「バスクチーズケーキ レシピ」と入れる。最近は便利なもので、ネット検索をすればすぐに無料のレシピが出てくる。いくつかサイトを開くと、スペインのバスク地方にあるバルが元祖らしいことがわかった。そしてそこのレシピまであっさり見つかった。

 いくつかのレシピを比較してから私は答えた。

「簡単そうだからいいよ。今度の週末?」

「やった!土曜日の午後ね!」

「了解」

 愛子は想像上のバスクチーズケーキにもううっとりしている。両頬に手を当ててアヒル口なんて姿、愛子じゃなきゃ許されないと思う。


 愛子は可愛い。

 くっきりと綺麗な二重、長い睫毛に縁取られた瞳は、少し青みがかったグレーでくりっと丸い。真っ直ぐ通った鼻筋に控えめな小鼻。頬はチーク要らずの桃色で、化粧品広告みたいに形の良い唇が艶やかだ。きめ細かく白い肌はニキビ一つなく、髪はふんわりと毛先のカールした猫っ毛。背丈は私の肩までしかなく、顔は私の手のひらくらい。ポキッと折れそうに細い手足。両手にちょっと余るくらいのふかふかの乳房。

 愛子は恐ろしく可愛いので、私はなんでも許してしまう。待ち合わせに遅れても、挙げ句すっぽかされても、私の化粧品を勝手に使っても、奢ってる回数が私の方が多くても。私の彼氏を寝取った時だって、「涼子ごめんねぇ、好きになっちゃってごめんねぇ」と、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった愛子が可愛くて、許してしまった。

 私が愛子に唯一優っているのは、料理くらいだ。だから愛子はときどき、私に何かつくってとねだってくる。たいていは愛子に予定のない週末、私の家にやってくる。私は部屋と料理を整えて待っている。それがどんなに魅力的な時間か、私だけわかっていればいい。


 金曜の夜、私は家のキッチンでチーズケーキの材料を前にしていた。

 クリームチーズ、グラニュー糖、卵、生クリーム、薄力粉。なんてシンプル。計量するのもグラニュー糖だけでいいなんて。

 これで美味しいものが出来上がるなら、今まで愛子にねだられた料理の中で、労力的にも費用的にも最もコスパが良い。色んな店が出すはずだ。

 私はうきうきとオーブンの余熱のスタートボタンを押した。


 まず耐熱ボウルに、クリームチーズを全てあける。一回で使い切れるのが良い。本当は常温で戻した方がいいのだろうけど、今回はレンジでほんの少し温めてしまう。こうするとヘラがすっと入るくらい柔らかくなるのだ。クリーム状になるまで、しっかりとヘラでなめらかにする。

 ここへ計っておいたグラニュー糖を加える。このげんこつよりも大きな砂糖の山を見ると最初はちょっと怯んでしまうのだけど、何度かお菓子作りをすると麻痺してくるので大丈夫。ヘラを泡立て器に持ち替えて擦り混ぜていく。手に伝わってくるじゃりじゃりとした感触が心地よい。クリームチーズのアイヴォリーがオフホワイトくらいに白くなる。ウエディングドレスみたいにきれいな色。

 今度は卵を割り入れる。卵黄だけ、とかでないのが嬉しい。せっかくの白はほんのりと黄色に色づく。これはこれで食欲をそそる。ひよこ色。卵の加わった生地は徐々に抵抗感を増していく。この重さが好き。

 薄力粉は大さじ1。この量ならふるいながら入れてしまおう。生クリームは1パック。わかりやすい。クリームを入れてしまうと、生地は一気にゆるくなって液状になる。本当にこのあと焼くだけで出来上がるのか不安になるけれど、レシピに従おう。

 焼く前の生地に、小指を差し入れて掬う。それをそっと口に含んだ。ちゃんと美味しい。なんとなくだけれど、経験上、美味しいお菓子は生の生地でも美味しいと思う。焼き上がりが楽しみ。愛子はどんな顔でこれを食べるだろう。

 一度くしゃくしゃにしたオーブンシートを丸いケーキ型に折り込んで、そこへ生地を流す。これがバスク風なんだそうだ。ダイナミック。あとは焼くだけ。

 私はゆるゆるの生地をこぼさないように気をつけながら運び、祈るようにオーブンの扉を締めた。焼き始めてしまえば、もう待つことしかできない。


 私が愛子と出会ったのは大学のゼミだった。その頃には既に、愛子は学内で半年に一つはサークルをクラッシュする女子として有名だった。当時の私の彼氏を含む男子たちは、愛子に対して「ヤバい」しか言わない生き物になり、顔を赤らめるやらそわそわするやら忙しそうだった。女子の方は、ほとんど全員が嫌悪感を露わにして、必要最低限の会話しかしないか、仲間外れにするかのどちらかだった。

 私はというと、こんなに可愛い子が同じ人間なのかしらと、呆けていたと思う。それを嗅ぎつけた愛子は「子のつく名前仲間だね!」と、あまりにも小さなつながりをたよりに話しかけてきたのだった。


 それからほどなくして、同じゼミ生の彼氏は愛子と浮気して、私はふられてしまった。それを謝りに来て泣きじゃくる愛子を前にしたとき、こんなときでも可愛いのはすごいなぁと思うと同時に、不思議と優越感すら感じていた。たぶんこの子は同じようなことを繰り返して、その度に罵倒されたりしてきたことだろう。でもここで、私が許したら。私はこの子にとって特別になるのじゃないか。

 以来、愛子と私の関係性は変わらない。愛子は好きに生きて、私はそれを許し続ける。


 オーブンから甘い匂いが漂ってきたので、ケーキの様子を見に行った。

 残り時間はあと15分くらい。庫内のライトに照らされたケーキは良い具合の茶色に色づいている。温かい空気とともに漏れてくる匂いがたまらない。このあと時間通りに焼けばおそらく、ネットで見た画像のようにもっと黒く、黒く、焦げていくのだろう。

 それから何度かそわそわとオーブンの確認を繰り返してようやく、ピーピーと音が鳴って、オーブンのファンがうなりをあげる。

 扉を開けると、ケーキの上の面だけが真っ黒に焦げて鈍く光っていた。これがバスクチーズケーキ。私は慎重にそれを庫内から取り出して、ケーキクーラーの上に乗せた。焼き立てはまだ柔らかくふるふるとしている。このまま冷ましておくと、段々と生地が落ち着いて固まってくるはずだ。初めて作るお菓子なので確信はないけれど、普通のベイクドチーズケーキもそうだった。

 一晩明けたら、これを目当てに愛子がやってくる。


「はい涼子、これ」

 翌日午後、4時くらいに愛子はやってきた。おやつには少し遅いくらいだが、愛子からは何時に来るとも何の知らせもなかったので、私はチーズケーキと一緒にぼんやり待っていた。

 愛子が私に手渡してきたのは、紅茶の茶葉が入った缶だった。愛子は材料費を払ったりはしないが、こうして作ったものに合わせて何か持ってきたりはする。それも気まぐれだけれど。

「ありがとう。ケーキできてるよ」

「わーい楽しみ!」

 勝手知ったる、という風に愛子はまっすぐ部屋に入ってくる。

 私は冷蔵庫からチーズケーキを取り出した。紅茶を淹れる間に、少しは温度が上がってくれるだろう。

「うわーすごーい真っ黒だね」

 愛子は目を輝かせて、スマホで写真を撮っている。作ってよかった。

 電気ケトルでお湯を沸かす。愛子にもらった紅茶はフランスのブランドらしい。『アムール』と書いてある。他意はないんだろう。ティースプーンで二杯。沸騰したお湯をポットに注いで蒸らす。

 その間にケーキを切ってしまう。ケーキに張り付いたオーブンシートをゆっくりと剥がす。その様子を愛子が期待でいっぱいの目で見ている気配がする。包丁を入れると、すぅっと刃が沈んでいく。外側は固まっているが、内側はかなりやわらかいままだ。ネットで見た画像のように小さめに切ってから、黒い表面が見えるよう皿の上に倒す。

「すごい、お店みたい」

 愛子が声をあげて、切り分けたケーキも写真に撮っている。紅茶も頃合いだ。

「いただきまーす」

 私は愛子がケーキを口に運ぶのをじっと見守る。綺麗にリップを塗った唇の中へ吸い込まれていく、私のつくったケーキ。愛子は一度目を大きく開いてから、またぎゅっと瞑って、頬をふくふくと膨らませて、小さくうなっている。

「美味しい!」

 愛子は叫ぶともう一口、二口、とフォークを進めていく。口に含む度に、何に対してかうなずいたり、舌が唇の上をを舐め取ったりしている。これはここ最近でもかなり良い反応だ。

 私も自分の分を食べてみる。まず感じるのは濃厚でクリーミーなチーズ。外側から中心にかけてとろりと柔らかくなっていって、舌に絡みついてくる。そこへアクセントになるのが焦げた面。キャラメリゼのように甘さとほろ苦さが調和して、濃厚なだけではない味わいを加えている。これは確かに美味しい。

 愛子を見ると、早くもほとんど一切れ食べきってしまっていて、食べながら嬉しそうに小刻みに揺れている。愛子はいつも可愛いけれど、私のつくったものを食べているときが一番可愛いと思うのは、驕りだろうか。


 嗚呼、食べてしまいたい。

 この可愛い子を、決して傷つけずに、頭からゆっくりと飲み込んで、ぜんぶ私のものにしてしまいたい。

 愛子をずるい女だと言う人は多いけれど、ずるいのは私の方だ。

 じわじわと締め付けるようにこの子を閉じ込めているのは、私なのだ。


 愛子はあらかじめ切り分けていた二切れ目を自分で皿にとろうとしていた。しかしあまりにもやわらかいこともあって、慣れない手付きではケーキがべちゃりとひしゃげてしまった。愛子はしょんぼりと人差し指で皿に伸びてしまった生地を掬った。私は咄嗟にその手を取って、その指を口に含んだ。

 愛子は不思議そうに、私に咥えられた指を見ている。この顔は初めて見たかもしれない。

 私はそっと愛子の指から口を放して、「美味しいね」と自分の人差し指を絡めた。

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