神妄信仰

安良巻祐介

 

 無鼎記に云ふ、神明は、神の明らかなるもの。正しく祀らるるべき全ての鬼神なりと。

 また云ふ、神妄は、神の妄りなるもの。正も邪も持たずして、ただ山野に在るべき精魅なりと。


 ***


 手水鉢の前に立って、湛えられた綺麗な水とそこに映る自分の顔の揺らぎを見つめていると、なんだか魂がじゃぶじゃぶと音を立てて誰かの手で洗われているような気持になる。

 それは胃の腑と肺のちょうど真ん中あたりにぶら下がっていて、普段は人いきれや都会のガスなどを吸って、端の方から少しずつ青黒く染まっていく。その、ボオルペンを零した様な汚れを落とすには、洗剤や何やでは駄目で、月並な表現ではあるが、いわゆる命の洗濯というやつが必要なのだ。

 人によっては話は簡単で、酒場に行ったり廓に行ったり、或いは銀玉打ちや競馬、首比べや流鏑馬当てなどのギャンブルに興じて洗濯をするそうだが、生憎とおれはそのどれもがあまり好きでない。好きでないもので洗濯はできない。

 どちらかと言えば、週末に海水浴や山歩きに行く人々に近い方法で、おれも洗濯をする。

 例えば、海や山に出かけて行って、そこで澄み切った自然の空気をたんと吸う。そうして、魂を外気に触れさせる。

 但し、そこから大勢が楽しむ浜で遊んだり泳いだり、火を焚いたりキャンプを張るなどして丹念な洗濯を始める人々とは、やはり少しやり方が違う。

 おれは人のなるべく少ない、出来れば人のいない、そういう山野海川を選んで、しばらく一人で過ごすのだ。

 と言って、森林浴の類ではない。大自然の空気は確かに、魂を涼しい外気に触れさせ、水で洗って冷やすのには必要だけれど、肝心のペン染みをしっかり落とす洗剤としては、別のものが必要だ。

 一人きりでそういう場所でぼんやりとしてから、その近くにある、壊れた祠や、放棄された神社などを探して、それで初めて、俺は洗濯ができる。


 ぽちょん…と、覗き込む鉢の中の透き通った清水に、円い波紋が生まれた。

 波紋は俺の顔をぐずぐずと曖昧に崩しながら、やがて波立つ合間にぼやぼやと浮かんでくる、もう一つの顔を映し出す。

 それは、女の顔だ。

 山でも、海でも、畔でも、川でも、そこいらにある社や祠の一角に座って、一服していると、必ず現れる、美しい顔。

 木陰の闇の中や、水車の横の澱みや、ふかした煙草の煙の中や、こうして気紛れに覗く手水の中など。

 じゃぶじゃぶと魂を洗い流した後、おれはそこに出て来たその女の口へと、自分の魂を掴み出して、宛がう。女の唇は形の良い花のように開いて、寒天細工に似た魂を、ぬする、と呑んでしまう。

 おれは、女の口端がその瞬間、わずかに歪むのを見るのが好きだ。

 ふだん、表情にほとんど変化がないだけに、その一瞬の歪み――おれは勝手に、笑っている、と解釈している――だけが、楽しみである。

 そして、体の中から魂が抜けた俺は、次の週末までにまた魂を入れておくために、外へ出てゆく。

 何、魂を洗う事よりも、新しい魂を掴まえて来ることの方がよほど簡単だ。今度はどこで見繕おう。考えるのも愉快だから。…


 おれのこれらの趣味を知ったある友人が、そんな不健全なことをするのはやめろと諭してきたが、やめるつもりなどさらさらない。

 他の人の言う、「神」というのは、俺にとっては、虚空に生まれるあの女の顔なのだ。美しい、ただ美しい、どこまでも虚ろで、意味もなく、ただただ妄りに美しいだけの、あの女…

 ほら、今、こうしてぼんやりしている時にも、扉の陰に、ただ在るだけの…


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神妄信仰 安良巻祐介 @aramaki88

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