④
透子は顎が震えるのを隠すように振り返り、交番の扉を出て駆けた。私はもう事件に遭わないのだ。だってなぜ私だけそんな目に遭うのか、わけが分からないから。そもそも原因がないから。……いいやあったじゃない、思い当たってたじゃない、その原因、自分の罪に、と言う人がいた。いなかった。それはいったい誰?……しかし私はまた、警察か、別の国家機関に召喚されるかもしれない。近年稀に見る奇跡的な事件の被害者・証言者として。偶然に連続して起こった四つの事件。これでもう終わりだ。遅れて職場へゆき、仕事をして時間になったら娘の幼稚園、帰って夕食は夫、小説家の夫、そろそろ長篇の冒頭くらいは書き終えていてもおかしくはない夫も一緒に……三人で、笑顔で食べられる。透子は夢中で歩いた。
するとどこからか、怪しい風体の男がいきなり現れ、透子の目の前まで来たかと思うと突然、身体ごと殴りかかった。透子は胸に喰らって男とともに倒れ、しかしすぐに、ふらふらして立ち上がれない男から離れてへっぴり腰で逃げ出した。けれどもあまりの唐突な出来事に、五、六歩行ってはその度によろけ、いつか後ろを振り向くと、別の男が倒れたままの男を何度も足蹴にしていた。叫びながら踏みつけたりもした。それをずっと続けていた。やがて男が動かなくなると、蹴った男はすくみ上がる透子のもとへ走り寄り、透子がまた殴られるかと思って身を縮ませるやいなや、ズボンを脱ぎ、そこへしゃがんで脱糞し出した。透子は驚いて尻もちをついた。その刹那男の頭部をピストルで打ち抜いたのは先ほどの警官だった。警官は、ピストルを構えたまま懸命の形相で言った。
「ホラ、あなた、第五、第六の事件だ。犯罪だ! さっき、やっぱり気付いてたんでしょう。気付いてたけど、言わなかったんでしょう。この一連の事件の! 原因を! あなたぜんたい何をしたんですか。言ってみなさい!」
「いえ本当に、本当に何もないんです」
透子は冷や汗かきながら言った。
「嘘をつけ! 今度こそ、本当の本当を言わないといけないぞ。とんでもない、取り返しのつかないことになるぞ!」
「……分かりました。言います、白状しますから」
「そら、言ってみろ」
「…………大学のとき、大学三年生のときに、全員参加の就職説明会を、それを途中で抜け出しました。いえ、初めの五分で。どうしても面倒だったから。それですよね。それだから、私はこの事件に」
「違う! 違うだろ。そんなんで六人もの犯罪者に狙われるはずがない。真実を言えよ!」
「……分かりました、言います。私は昔、レズの友だちを仲間外れにしました。それで今回、」
「だから違う! そんなくだらないことじゃない、もっと、大変なことだ。早く白状しやがれ!」
「小学生の頃万引きを」
「違う!」
「友だちを泣かせました」
「違う!」
「スマートフォンを水に」
「全然違う!」
「友だちの彼氏を……」
「そうじゃない!」
「この連続の事件と夫の長篇小説を利用して! 夫との関係をいいものにしようと考えてました。考えてしまいました。助け舟とでもいうように、嬉々として。いえ、でもそれは泥の舟のはずで、もうすぐ、もう少しで壊れるはずで……」
「ほう! 近い。もう、すぐのところまで来ているぞ。さ、それでは言ってみ給え、あなたはなぜ、この短期間に六人もの犯罪者に狙われた? いったいなぜ?」
「でも言ったら、私の意味が。今までの結婚生活、いえ、今までの私の人生の意味がないことに、自分で否定することに……」
「よろしい、それで!」
そうして透子は青ざめた顔で叫んだ。
「私は、私は今まで、私は結婚してから今まで、いえ、結婚する前から、夫が小説家であることを恥に思っていました。他の家の旦那さんたちは、真っ当な職に就いて……。なのに私の夫は、稼ぎもない、人の役にも立たない、自己満足の小説家。恥ずかしかったです。夫がそんなで、不幸な人ねと、自分に言ったりしていました。ずっと前から。もしかすると、出会う前、生まれる前から。何ででしょうか、夫は……。ごめんなさい、ごめんなさい」
「ほう、ほう。本当らしい、それらしい。やっと白状したな、自分の罪を。それじゃあ、バチが当たって当然だ。何せこれは刑法第八百四十九条に反する、本来だったら即、実体を除去されても不思議じゃない罪だ。なるほど、ひとつの事件にひとつの原因があるのではなく、ひとつの原因にいくつもの事件と犯罪者とが寄ってくることも、あるようだ。こうまで重大な罪となると」
「どうすればいいんですか、私は……もうこんな事件は」
「その不満や不幸や恥をどうにかできないなら、あなたは賤民。あなたは平民。あなたは貴族。あなたはヒューマン! あなたは、愛、そして憎しみ。あとのことは、自分で考えなさい」
透子は家へ帰ろうと歩いていた。退職届をポケットに入れていた。カエルの真似をして道路の真ん中を飛び跳ねた。アスファルトを手の平で擦りまくって熱で溶かそうとしたが叶わず、そのまま齧り付いた。人の家の庭に入った。歩道の青年にキスをした。別の男の身体を舐めた。やり遂げようと必死でもあり、引きつけられてもいた。家へ着くと夫が、長篇小説の冒頭を書いていた。
一犯罪被害者 サイダー直之 @saitanaoyuki
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