そんな透子をあざ笑うかのように、次は夜中だった。第四の事件。透子と夫と娘は川の字になって寝ていた。眠りの浅い透子はふと、外からの物音に目を覚ました。人が歩いたり跳ねたりする音に聞こえたが、そうでなくでも、透子は動物より人間を疑って、階下に降りて表を覗いたに違いない。もちろん、夫を置いて。

 第一の事件で侵入者が立った窓だった。雨戸は閉まっていた。人の音は絶えない。透子は、自分にはずっと聞こえていても夫にだけは聞かせないようにと、身体を、逆立つ猫の毛のようにして、外の者に祈った。そして暗い中で、自分も物音を立てないよう注意してそこまで椅子を運び、上の小窓から眼だけをのぞかせた。月明かりに仄白くなった外では、年老いた男がピョンピョン飛び跳ねていた。と思うと奇怪な踊りを踊りだした。そのうち老爺は透子に気が付いて、手を振りながら近寄って来、空き地との柵を乗り越えようかというとき、柵から墜落して鈍い音を鳴らした。それに誘われるように透子も椅子から降り、夫の足音が階段から聞こえてくるのと同時に、椅子を元の位置に戻した。まだ訝りの薄げな表情で、夫は、

「何か音がした気がする。気付いた?」

 そうして、椅子、椅子……と呟いて先ほどの椅子を透子と同じように小窓の下まで持ってゆき、透子が怯えている横で外を見ると、

「うわ。なんだ。誰だ」

 と叫んだ。透子は咄嗟に、

「何? 誰かいるの?」

「いる。変な奴が。そこで踊ってる」

「向こうの、空き地?」

「違う。うちの敷地に入ってきてる。何なんだこいつは。あ、裸になった……」

 しばらくして台を降りた夫は、やっとどっか行ったよと独りごちて、

「通報したほうがいいな、これは警察に」

 透子は焦った。警察へ知らせるわけにはゆかず、また知らせないわけにもゆかず、しかしそれはいずれにしても、夫を関わらせてはいけなかった。今度の場合、警察へ行かないのは却って怪しまれると思い、

「通報? いま、するの?」

「ううん。いましたほうがいいと思うな。あの男に逃げられる」

「それは……こんな夜中だよ。春花もいるし。今日はもういいんじゃない? 暗かったから、顔とか服装も、いまいち分かんなかった。明日春花を幼稚園に預けたら、その足で私が行くことに……職場は連絡すれば何とでもなるし、幼稚園のすぐ近くに交番あるから」

「仕事だったら、おれのほうが自由だけど」

「大丈夫。だって長篇があるでしょ? まだ、書き終わらないでしょ。そっちに集中してよ」

 言ってから透子は莞爾と笑った。夫は、まだ頭の部分を書いてる、長篇ほど進まないものはないよ、と眠そうに呟いた。

 翌日夫が仕事に出、娘を幼稚園へ送ってから、透子は予定通り最寄りの交番へ訪ねた。自分が勘付いたらしい四つの事件が発生した原因が、いよいよ完璧に明かされてしまうという恐怖と、それとはまったく性格の違う原因が判明して警官たちがこれを撲滅し、明日からは犯罪のすっかりなくなった世界を生きるのだという期待とが入り混じっていたが、それでも恐怖のほうが勝を制していた。交番の軽いドアを開けると、おもちゃのような音が鳴り、別の世界へ立ち入るみたいだった。狭い室内には簡単な机が据えられてあり、壁は全面に様々のポスターで、警官はいなかった。すみません、と透子が言うと、奥で応える声がした。椅子に座って待つ間に、透子は世界にはそれしかないというような感じで、壁のポスターを眺めた。振り込め詐欺への注意喚起や、重要指名手配犯の顔写真がいくつか載せられたものだった。同じ中身で色違いのポスターが何枚も貼られているような気がした。壁の地は少しも見えなかった。一向に姿を見せない警官を待ち草臥れて、不意に天井へ目を移すと、ここにもぎっしりとポスターがあった。それはすべて同じもので、《小説家は罪人 罰せよ皆々で 》と、紙面へ大きく赤地に黄で印字されていた。透子は全身ぞっとしたが、じきに奥から出てきたのがいかにも優しそうな若い警官だったので、見ない振りで座り直した。警官は透子の向かいにかけると、

「ええと、どうされましたか」

 としかつめらしく言った。

 透子は瞬間言い澱んだがすぐに、第一の事件から第四の事件までの経過と状況を事細かに、あたかも役所の報告書を読み上げるごとくに平然と、警官へ言って聞かせた。つまりその原因への心当たりについては、一切触れなかった。

「はあ、なるほど。それですべてですか?」

「はい、起こったことは、これがすべてです」

 透子が間を空けずに言うと、

「本当ですか。四つの事件。本当に、過不足はないですか。といっても、不足しているなんて、まさかあるはずないでしょうが」

「過不足……? 仰ってることがよく……。はい、それがすべてです。それで、捜査はちゃんとしていただけるんですか」

「捜査といいましても。まず本当に、あなたの身に四つの事件が?」

「はい、さっきから、そう言ってます」

「では、その証拠の類はともかくとして、そのような事件・犯罪に見舞われた原因に、何か心当たりはあありませんか」

 一度考えるように唸ってみせてから、

「心当たりは、それが、ないんです。なぜ、こんなことが起こったのか。ですから……」

「すべて偶然に起こったことだと、いいたいのですか」

「はい、多分……でも、そんなことあり得ると思いますか。理由がない、偶然の事件が……」

「ううむ。完全にないと言い切れはしませんね、それは」

「……」

「つまりその人に、犯罪被害者になり得る素因がひとつもない場合、すなわちあなたのいわゆるあなたのような人の場合、その人に連続して、しかも偶然に犯罪・事件が降りかかる最大の回数は四回であるという、研究結果がありますので。ちなみにこれは、アメリカだかフランスだかの間抜けな小説家の――この小説家は四十で火あぶりの刑にされました――、唯一のまともな業績と言われるものです。ですから、極めて珍しいとはいえ、四件までならあり得るのです、連続の事件は。まあだから、奇跡的な事件群ということですね」

「それが、私の身に……?」

「そのようです。本当に、そうなる心当たりがないのなら」

「はい。それじゃあ、もうこれから近く、私に事件は発生しないということですよね」

「ですから本当に、心当たりがないのなら。その原因がないのなら。もっとも日本人という人種は、犯罪や罰を受ける原因が自分にあれば絶対に気付いている人種、そういうデータもあるのですから、心当たりがないとすれば大丈夫です。本当に、それでいいですね。もし何かあるのなら、また別の手を……」

「いいえ。何もありませんから」

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