その日も同じ日だった。もちろん日付も天気も昼の長さも前の日とは変わっているし、娘や夫も、同じ顔でそれぞれの場所へ行っても違うことを遊び、違う文章を書くに決まっているけれど、透子だけには同じ日だった。仕事を早く切り上げて幼稚園へ娘を迎えに行き、母親たちから質問され、質問されず、娘を連れて家まで帰った。玄関の鍵は開いていず、新しい長篇を起こしたという夫はまだらしかった。入った瞬間、短い悲鳴を上げて立ち竦んだ。居間の窓のすぐ向こうから、黒服の男がこちらをじっと見詰めていたのだ。透子は娘の名を呼んで抱き寄せ、玄関ドアを内から施錠し、がくがく震えながら男のほうを見た。黒い帽子とマスクで顔は分からないが、確実にこちらを見ている。窓は施錠されている。男はしばらくそのままでいて、時折窓に触れたり顎を突き出したりしたが、透子が思いついてポケットからスマートホンを取り出すと、後ろの柵を乗り越えて逃げた。春花大丈夫だった、と娘に声をかけると、娘を置いて窓のほうへ行った。家の裏は空き地になっているが、窓にくっつくほど近付いて触れもしたのだから、男は柵と窓との狭い隙間に立っていたことになる。透子は窓を開けずに、その立っていた地面を見た。空き地にも目をやった。震えは止まらなかった。黒い男、三十、四十代くらいの……

 ――これが透子に起こった第一の事件だ。

 慌ただしいうちに夫が帰ったので、事のあらましを伝えると、夫は驚いた様子で、

「え、何、そこにいたの、男の人が? 不法侵入ってこと?」

「そう。そういうことだけど……」

「どんな奴だった?」

 透子は窓際まで歩いて、

「三、四十代くらいの、男の人。黒い服を着て、帽子とマスク着けて。だから詳しくは分かんない、そこにいるときの動作とか、柵の乗り越え方とかで、何となくだけど……」

 結局警察は呼ばずに様子を見ることになった。娘の送迎は透子が毎日出来ている。それに、犯人の顔も声も分からない、年齢もそう覚束ないでは、充分に取り合ってもらえないだろうという、二人の意見だった。娘の送迎は、時々時間をずらしながら気を付け、家にいるときもなるべく戸締りをするようにした。

 自分の家が狙われた理由など、透子はまったく考えなかった。考えるという考えすら露なかった。この家並の中でそのときたまたま留守だった自分の家を、男がたまたま狙ったというだけで、自分はただの被害者でしかなかった。受けた犯罪についても、それはまったく犯罪でしかなかった。

 それからひと月ほど経て、休日の買い物から帰ってきたとき、透子は第二の事件に遭遇した。家の前の細い通りに差しかかると、透子の家のポストを外から漁る人影が見えた。そのときにはもう十メートルほどの距離だった。驚いて足を止めると、その音か周囲の影像の変化かが横目に入ったらしい、その人は静かにポストから手を抜き出し、ごくゆっくりと透子へ振り向いた。今度はマスクも帽子も着けていない、犯罪者かもしれない自分を隠そうとしない男だった。顔や首や手、露出したところは赤い傷になったカサカサの肌で、歳は四十半ばだろうが、前の不法侵入者とは違う人だと明らかに思われた。透子が声も出せずに固まり切っているうちに、男は何もなかったような顔――透子の存在もまるで無視したような顔で車道へ出、首をポリポリ掻きながら散歩の猫みたいに歩いて向こうの角を折れた。その途端、猛烈に速い足音が立ち、遠ざかっていった。

 透子はポストの中の物を全部持って家に入ると、

「ねえ、ちょっと……」

 夫へ呼びかけた。夫は大変だという長篇を家でも書き続けていた。

「お帰り。どうした?」

「いまそこで、ポストで」

 郵便物を放り投げ、

「うちのポスト、漁ってる人がいたの。何も取らなかったみたいだけど、変な人……怖かった」

「漁ってた。本当に? 平気だったの」

 そして透子はその第二の事件の顛末を話した。透子には束の間の出来事だったので、その代わり、とにかく事細かに。

「じゃあ、顔は見たけど、未遂?」

「そう。ちょっと、頭おかしい人っていう感じも、いま思うとあったみたい」

「前のこともあるし、一応電話だけでもしておくか。警察に。相談というか」

「……でも、未遂でしょう? 前回のも、不法侵入に当たるんだろうけど、もう一箇月以上経ってるし証拠もない。言っても仕方ない気がする……」

「だとしても、言っておくだけでもしたほうが、いいんじゃないの。一応」

 透子は目を軽く逸らし、

「……正直、さっきはかなり戸惑ったから、その男の格好とか顔とか、はっきりしなくて……うまく伝えられる自信がないの。それに頭の変な人だったとしたら、――そうじゃなくても、前のこととは関係ない、偶然のことだと思うし。そうしたらもうこれからはないんじゃない、さすがに。だから今回は様子見ることにして、……春花のいるところで、あんまり騒ぎたくないし」

 夫はまだ納得はしない風だったが、引き下がった。春花のことが効いたらしかった。犯罪(犯罪未遂)が短い期間に二度起こったことの、その連続性ではなく偶然性に恐れを抱いたように見えもした。しかし透子は、犯罪が連続したという事実を、恐れかけていた。なぜうちなのか? 二回も連続して来たというのは自分の家にその理由があるからか。もしそれがあるとしたら、まだこの先も……。また、透子はその理由に心当たりがないでもなかった。まだ思念が動揺しており、確信するには遠かったけれど。

 それでもその心当たりを見出した証拠に、透子は夫へ、長篇の具合はどう、と明るく笑って声をかけた。夫がそれに、まだ全然出来そうにない、頭の部分を書いているところと答え、なおいくつかの会話が交わされている間ずっと、よその子供と話してでもいるかのように笑っていた。

 第三の事件は離れた場所で起こった。半月も経たない頃だ。その日も休日で、透子は買い物に出ていた。スーパーで買い物を済まし、一人で歩く帰途だった。袋にふさがっていないほうの手の側に、近付く人の気配がした。透子は抜かすかと思って端へ寄ると、その人がじきに並び、

「こんにちは」

 男の声だった。聞いたことのない声……。自分に言ったのではないのだと、速度を緩めると、

「こんにちは。あなた? こんにちは」

 男は透子と距離をとらず、覗き気味にまた言った。この瞬間に透子は、第三の事件の発生を静かに悟った。

 もう一度、透子は男が知り合いでないか確かめるため、男の顔を不自然でない程度に見た。初めて見る顔だった。彫りが深く、そのパーツがだいたい中央に集まっているので、外国人のように思われた。しかし話す日本語からそれらしさは窺えない。そう思い出すと今度は、男が完全の日本人にしか見えなくなってしまった。頭は禿げ上がっていた。

「こんにちは、あなた?」

 透子は歩き続けながら、

「……はい?」

「どうですか最近は」

「あの、どちら様でしょうか」

「わたしはね、あなたの、あなた結婚してますよね、旦那さんの知り合い、でもなく、どちらかというとあなたを知ってるんですね。僕は。あなたの旦那を。個人的に。いいや知らないかもしれない。とにかく……」

「……はあ?」

「とにかく! 演説をしましょうか。僕は今から。おれは」

「…………」

「ねえ、Dを知ってるでしょ。Dを」

 と、夫が敬愛する近代作家の名を出し、

「Dが自死したでしょう。昨日。明日。じゃなくて何十年も前。なんで、自死したと思いますか。あなたには分かりますか。分からないでしょう、きみには。あの女のせい? いいや違うんですね。知ってますか。あれはMシマユキオのせいでしょう。Mシマユキオが、どうも間接的に、手を下したらしい。超能力で。証拠はない。でもそれだったら、おれがやってあげたのに。ぐうって」

 そう言いながら男はズボンを脱ぎ、それを自分の首に巻いて後ろへ引っ張りながら、白目を剥いて脇道へ入っていった。

 そのときそばには通行人が少なく、男を見たとしても見ない振りをするのが殆どだったので、透子は心臓をばくばく鳴らしながらも初めから男などいなかったみたいな顔で、帰路の歩みを変えなかった。すると他のところも何も変わらないようだった。透子は既に、この一事を、警察はもとより夫にも報告しないことに決めていた。夫は警察に通報すると言い出すに決まっているし、もしそうなって、詳しい捜査でもされてしまえば、警察は間違いなくこの三つの事件が発生した原因を突き止めるだろう。まさか、このふた月の間の三件の事件はまったく偶然のものだ、三つの間には何のつながりもなかった、まさに奇跡的な事件だ、などと結論づけるはずがない。警察には理由が分かる。そうして私に白状させる……。いや私は知らない。何も知らないのに、真実を白状させる。もしかすると警察は、もう何もかも知り尽くしているのかもしれない。透子は、この事件に関する出来事を知られるわけにはゆかなかった。けれどもその一方、事件の原因が自分の勘づいたもの(そのうえ自分が知らないもの)でないと確認するためには、警察へゆき、その別の原因を突き止めてもらい、事件を根絶させてしまう必要があった。その両者に挟まれて煩悶するうちに、家の前まで来た。とにかく事件のことは黙っておくことにして、家に入り、まだ長篇の頭を書き切れていない夫と、小説談義を始めた。いつか犯罪から逃れるために。透子も夫も笑った。透子の笑いは小学校の学級委員長のようだった。娘がやってきても、そのまま長いこと楽しげに話し続けた。

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