一犯罪被害者

サイダー直之

 なぜ、結婚したんですかと訊かれたことは、彼女らはせっかく言葉と言葉を発する口とを持っているというのに一度もないのだけれど、それでも訊かれていると感じることが透子にはある。旦那さん小説家なのに、それも売れない……と添えられた気になり、いいえそれはありえない、なぜなら私は夫が小説家だということを家族以外の人に言ったことがないから、と打ち消す頃には、前の質問も自分が勝手に作り上げたものだというのを忘れている。打ち消すのに必死になりすぎる。結局透子は、その初めの質問を思った理由を、夫が同居し出してから酒を始め女にも触れるようになったらしいことへと収斂させる。近所の母親たちと一緒の場でなくても、透子はこれをもう何度も繰り返すようになっていた。

 出会ったときは小説を読んでも書いてもいなかった。それからずっと見てきているので、透子といえども夫を悪くしたのが小説なのだと確実に言えはしなかった。高校生の頃だ。もちろんまだ、昔の作家を模した筆名など使っていなかった。森田成一という名だ。顔は良かったがどう見ても友人が少なく、目立ちもしないので当時透子は成一の顔のことを親しい友人たちに、これは本当にからかわれたけれども、初めに携帯で連絡を受けたときと初めてのデートに誘われたときとを除いては、成一の別のところに惹かれていた。静かで暗いと見えていたのは、何にも超然としているのが高校に進んではしゃいでいる他の男と比べられたために生じた誤解で、気配りもできないように見えて実はできた。あまり外へ出たがらないのは、その顔でそれでいいのか、というよりむしろ不自然なんじゃ、と思わないでもなかったが、ともあれ自分とぴったりだと透子は感じた。だからそれが携帯のメールであっても、(つまり当然他の女生徒に顰蹙されても、)成一に告白されれば付き合うというのが透子にはごく普通のことだった。

 高校三年で何の前触れもなく小説を読み始め(しかし透子が驚くことはなかった)、大学一年になると成一は、透子には内緒で書き始めた。まず下手な探偵小説を書き、その次からはポオや梶井を目指して短篇を書き溜めた。合計で百五十枚ほどになったら、期限が一番近い新人賞に短篇集として送って落とされた。これを透子が聞いたのは、ホテルへの入場も随分慣れてきた頃の、行為の後だった。蒲団で横になって脱力した成一の、希望と絶望とが入り混じった声に言われた。独り言のようだった。

「この間……おれ、小説書いた」

 そのまま平手を枕にして身体も目も動かさずにいるので、独り言以前にそもそも言葉なんか発しなかったんじゃないかと怪しみ、訊ね返すと、だから短い小説を書いた、いまも書いてる、死んでない限りは多分ずっと、と同じ顔で呟き、それからもう一度した。

 大学四年の初冬に、何度目かに送ったものが新人賞を受け、成一は小説家としてデビューすることになった。ここでも尋常な様子で、今まで落とされてきたのは読み手がおかしかった、やっといい人に読んでもらえたと笑う成一とあべこべに、透子を満たすのは驚きでもよろこびでもなく、根源の分からない恐怖だった。そのあとで、昨今の出版業界の不況や、成一の好きな作家には自殺した人が多いことを思ってその恐怖を、消し去ることはできないまでも一応解明した気になった。

 それでも成一に会えばこの人の夢を応援したいと思い、家へ帰ったらその自分を阿呆らしく、小説が好きと言いながら実際には現実が見えていてこの一度の受賞を一生の名誉にしてあの人は生きていくはず、まず就職が決まってるんだから、と心底思った。そんな感じでも透子はやはり成一が好きで、相手に失礼だと何も思わないようにしながら[小説家 妻]とインターネットで検索するのが細々といつまでも続いた。結局成一は、その数箇月後に、まず何年かは兼業でやってみようと思う、と俄かには信じられないことを言った。透子は、数箇月の間考える振りをしていたが本当は受賞の連絡があった瞬間から決めていたのだと分かった。その後専業作家になることまでも。しかし透子は、その恐怖と不安を忘れて成一を支えてゆくことが自分の使命だと思い直した。なぜなら、彼女は成一と結婚してずっと一緒にいるつもりで、何事においてもそれが前提になったから。――瞬時にこれらのことを編み込み、将来夫になる男の宣言を受けて透子は汚れなく笑った。

 ところが、というべきか、成一はそれからも透子を好きにさせる人でいた。会っているときはこの人が売れない作家だというのを透子はさらに覚えず、瞬間浮かんできても、やっぱりこの人なら……と本心から思うようになった。会わない間に無礼な考えが頭を擡げたら、それを全力で叩きつぶせばよかった。そうしなければ、愛する人を信じないばかりか、侮辱することになる! プロポーズされたときも同じ方法だった。妊娠が判明してから専業になると告げられたときは、さすがに容易に叩きつぶせず、甲高い声を上げて膝を踊らせながら両手で叩きまくり、ようやく収まった頃に、これがヒステリーかと静かに思ったほどだった。それでも透子は、この我慢の方法には、もしかすると成一がずっと兼業でいくかも、いやどこかで作家を辞めるかも、という希望など手伝っていなかった、ただ成一への愛から殆ど自然に成ったことなのだと思っていた。

 成一は、退職して専業作家になった当初から、執筆には自宅と別の場所を使っていた。二人で話し合った末のことだった。報告から少し経ってのことだ。一日中書くことになって、場所はどうするのと透子が訊くと、

「ああ……どうしようか。もうひとつ仕事部屋を借りる余裕はないし、どっかのカフェとかで書くかな」

「あ、……外で?」

「うん。そのほうが書きやすい。……あ、子どものこともあるし、家にいて何かやったほうがいい、おれが?」

 透子は、そうじゃない、それが言ってほしかったんじゃないと、当てが外れた気で焦り、

「ううん。それは大丈夫。心配しなくて。成一が書きやすいほう、選んでよ」

「じゃあそうする。ありがとう」

 ああ、夫が「近所の目があるからね」と言ってくれたら、どんなに楽だったろうか。「こんなに若くて、子供もまだ産まれてなくて、妻は働いてるのに、夫が一日中家にいたらどんな目で見られるか分かんない、他の男は働いてるだろうし、透子にまで変な目が向けられるかもしれない、じゃあ小説家と明かしたとすれば、それはそれでおれの書いてるものなんか、逆効果だろうね、しかもたいして稼げないんだからせめて、毎朝外に出て行って周りみたいな普通の家の振りをしないと、」とだけでも、笑顔で言ってくれたら! そうすれば私も言いたいこと、ずっと言いたかったことを全部……お道化の流れに任せて、私も道化を装って言ってしまえるのに。ものすごく滑稽なことのように。――透子は自分をひどく恐ろしいものに思った。そうして、また、その夢想を叩きつぶした。

 とにかく二人はうまくやって来た。普段は透子の給料と夫の小説の原稿料、僅かな印税。透子が産休に入って親にも心配され始めたときには、夫が一般には無名であるものの文学賞を受けたりしたので、なんとか誰にも頼らないで済んだ。夫が外へ働きに出るというのも変わらなかった。産まれた娘を幼稚園へ預ける歳になると、近所の同年代の母親たちと話すようになった。透子は夫を、出版社に勤めていると紹介した。夫にも娘にも内緒で。

 娘が産まれる頃に酒のうまさを知ったらしい夫は帰りに酒を買ってくるようになり、しかしそれは下戸の透子と比べても大した差はないほどの量で、女というのも、夫に女性の編集者がついていることと女性の働く店へ一、二回連れられて行ったことを知っただけだった。夫が酒も女もさして好まないのは、妻の透子が一番知っているはずだった。ところが、それを透子が、強いて自分の不幸・不満の素因であるのだと事実ごと作りかえようとしていたのだ。夫が売れない、本人によると芸術だが本当はどうだか知れない小説を書くことがまず自分の不幸で、その不幸を感じていることが、それより増して重くのしかかってくる、誰にも言えない自分の罪なのだった。

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