あなたに逢えてよかった

賢者テラ

短編

 塚本研二が目を覚ました時、高校の自分の教室には誰もいなかった。

 無様にもよだれを垂らして、机の上に突っ伏していたのだが——

「ゲッ。もう休み時間終わりじゃんかよ!」

 彼は、実は昨日あまり寝ていない。

 その原因たるや、笑ってはいけない。

 クラスメイトの女子・中原聡美。

 多分、皆さんにもそういった経験があるのではないだろうか。

 好きな人を想って、眠れぬ夜を過ごしたということが。



 言うまでもなく、告白もしていない状態であり、片思いである。

 彼に少しでも勇気があれば、こんな悶々とした日々は送っていないはず。

 まぁ万が一うまくいくか、そうでなくても玉砕して、潔く次の恋を探すかというすわりのよい状態になるから是非とも頑張ってほしいものであるが、研二のノミの心臓ではそれは難しそうである。

 昨日の睡眠が足りないところへもってきて、昼休みに弁当を食べて満腹したところへ眠気が襲ってきた。

 彼は休み時間に友人との会話の輪にも入りに行かず、机の上で突っ伏して居眠り体勢に入った。

「5時間目の前まで……」

 弁当を急いでかきこんだから、まだゆうに30分はある。

 そう考えた時が、研二が眠りこける前の最後の記憶である。



「ちっくしょう。みんな冷たいなぁ。起こしてくれればいいのに」

 5時間目は化学で、理科室に移動することになっている。

 今誰もいないのは、ちょうどそのせいだろう。

 時計を見ると、授業開始からすでに10分経っている。完璧な遅刻だ。

 研二が大慌てで教科書とノートを用意していたその時、彼を呼ぶ者があった。

「……よう。そこの若いの」

 後から声をかけられた。声の調子から言って、いつもうるさい担任の岡嶋先生かと思ったのだが、ひょいと振り向いてみると——



 誰もいなかったはずの僕の真後ろに、いきなり先生っぽい男が現れた。

 仮に先生なら、僕が今まで見たことのない先生だ。

「えっと、失礼ですけどこの学校の先生、ですっけ?」

 何だか、ヘンだ。

 どうも、普通の人には見えない。第一、影が……勝手に動いてる。本人はじっと立っているのに、である。

「いいや、違うね。まぁ、そんなことはどうでもいいじゃないか」



 ……あの、あまりどうでもよくないんですけど。



「いや、めっちゃ気になるんですけど——」

 そう言いかけた僕に、その男は驚くべき一言を言った。

「君、中原聡美が好きなんだろ?」



 ……え、今何て?



「ど、どうしてそんなこと知ってるんですかぁ?」

 思わず僕は、素っ頓狂な声を上げてしまった。

「フン。私にとってそれくらいのことは、まるっとお見通しだっ」



 ……トリックの仲間由紀恵かよ。ちょっとネタ古いな。



 男は、特に冗談を言ったという風でもなく、大真面目である。

「私はお前の願いをかなえてやれるが、どうだ? もしお前が私の前に膝をついて拝むなら、中原聡美と両想いにしてやろう。そればかりか結婚と、将来の裕福な暮らしも、約束してやろう」



 僕は、この時男の申し出を冗談と思えなかった。

 いきなりの出現といい、僕の心中を見抜いていることといい、本人はまったく動いていないのに後の影が勝手に踊っている状況といい——。

 男がそう言うんなら、その通りできるんだろう。

 そう思わせられるような材料は、揃っていた。



 ……いや、でも待てよ。



 ゲーテの『ファウスト』で読んだことがあるぞ。

 悪魔が何でも願いをかなえる代わりに、魂を売り渡せっていうのがあった。

 もしかして、この場合も引き換えに何か要求されるんじゃ?

「フハハハハ」

 急に、男は笑い出した。

「お前の心配はもっともだ。あれは確かメフィストフェレスのヤツだったな。アイツは確かにケチだからな!

 大丈夫、私はお代は何もいただかかない。完全無料の、タダだ。言うなれば、ボランティアだ」

 僕は、信じたね。だって、考えてることを口にも出していないのに読み取るんだから。おまけに、何も代償がいらない、ってのが気に入った。

「本当に、僕は何にも犠牲にしなくていいんですね?」

 男は、不気味な中にも、茶目っ気のある笑いを浮かべる。

「ああ、武士に二言はない」


 

 ……あんた、武士かよ?



 この世の人ではなさそうなのに、物言いの人間的な人だ。



 ぼくは、言われたとおり男の前にひざまずいた。

「さぁ、あなたを拝みます、と言うんだ」

 大した抵抗もなく、僕はさらっと言った。

「……あなたを拝みます」

 僕の頭には、中原さんとのラブラブな日々のことしか頭になかった。

 男の顔つきが変わり、目が光った。



「黄泉の君、闇よりの使者。

 西の海より来る海獣の何にかけて、底知れぬ地獄を統べたもう七つの悪魔・明けの明星ルシファーの名にかけて。今こそその大能を現したまえ——

 エロイムエッサイム、我は求め訴えたり!」



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



「塚本君、塚本君、起きなさいってば!」

 ハッとして、僕は眠りから覚めた。

 背中を揺すっていたのは、中原聡美。僕の意中の人だ。



 あれ?


 教室では、みんながワイワイと騒いで、くつろいでいる。

 時計を見ると、まだ休み時間が終わっていない。

「時間が逆戻りしてる……?」

 ポニーテールが可愛い中原さんは、髪を揺らしてコロコロと笑う。まるで天使のようだ。本当に、彼女が僕のこと好きになってくれるのかなぁ?

「ホラ。次は化学なんだから、教室移動しなきゃ遅れるわよ。さ、早く!」

 僕は、一瞬戸惑った。



 ……エッ? 僕と一緒に行くの?



 信じられない。そんなこと今までに一度もなかった。

 でも、どうも向こうはそのつもりらしい。

「早く、早くぅ!」

 まるで旧知の仲のように、気安く僕の体に触れてくる。

「……行こ」

 中原さんが、皆の手前一瞬だけではあったけど、僕の手をそっと握ってくれた。

 頭のてっぺんからつま先まで、電流が駆け抜けた。

 やっぱり、あの取引は本当だったのか……?



 校舎のそば。新緑の木の下で、僕は中原さんに告白された。

「……ずっと塚本君のこと好きだったの」

 夢にまで見た一瞬だった。

 僕は中原さんの唇に、そっとキスをした。

 すべてがバラ色だった。そして人生最高! 本当にそう思った。



 それまで成績の良くなかった僕なのに、なぜかどんどん勉強が頭に入るようになってきて、次の学期の期末では、ついに学年トップに立ってしまった。

「研二くん、すごいじゃない!」

 中原さんは、尊敬の眼差しで僕を見つめてくる。

 この頃、すでに僕らは互いを下の名前で呼び合うようになっていた。

 そして、有名大学への入学も果たし、卒業後には将来が有望視される大手企業の社員として採用された。

 二年後には、中原さんと結婚。

 一男二女をもうけ、僕らは幸せに暮らす……はずだった。



「……どうしたんだ。元気がないな」

 妻の聡美も子どもたちも寝静まった夜。

 僕は一人、頭を抱えて苦しんでいた。

「ああ、あんたか」

 それは、十数年ぶりに見る姿だった。高校時代、僕の目の前に突然現れ、恋の成就と富と名誉を約束してきた不思議な人物——

(人ではないかもしれないから、人物ってのもヘンかな)

「一体、何が不服なのだ。好きな女と結婚できたろ? 生活も安泰で、経済的に何の心配もない。望みうる最高じゃないかね? しかも私はお前に何の代償も求めなかったのだぞ?」



 この時、僕にはすべてが分かったよ。

「……悪魔というやつは、本当に頭がいい。何の代償もいらない、というのは罠だな。確かに僕は何にも代価を支払っていないが、この状況こそが僕の支払った最大の犠牲なのさ」

 男は、不敵にも笑みを浮かべて、挑戦的な口調で尋ねてきた。

「ほう。また、なぜそう思う?」

「僕自身の力じゃないからさ。今、とても空しいんだ。妻が僕を愛してくれればくれるほど、これが僕自身の力じゃなくてお前にお膳立てしてもらったから、今があるんだ、ある意味心から僕を愛してくれてるんじゃなくて、チカラで無理矢理に僕を愛させているんだ、って感じてね」



 フンフン、と男は感心しながら聞いている。

「若いときは、ただただ処理の困るほどの熱い異性への想いが僕を動かしていたが、今はもう少し冷静に物事を考えられる。僕は、君との契約を後悔しているよ。たとえ聡美に振り向いてもらえなかったとしても、僕は君にひざまずくべきじゃなかった。

 例えどんな結果になっても、自分の力で未来を作るほうが僕には良かった——」

「そうか。しっかし、また長いことかかって分かったもんだな!」

 いったん大笑いしたが、男はすぐ真剣な表情に戻って問い詰めてきた。

「で、お前さんはどうしたいんだ?」

 ムリだとは思ったが、僕はこう口にせずにはいられなかった。

「できることなら、やり直したい。高校時代、教室で居眠りしたあの時から」



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「……おい、塚本。起きろ。化学の授業、遅れるぞ」

 男友達に頭をはたかれた僕は、うたた寝から覚めた。

「あっ、ああ?」

 僕は、学生服を着ていた。

 混乱する頭を整理してみる。ほっぺたをつねってみるが、やはりイタイ。

 するとこれは、現実? 願いどおり、高校時代に戻ったのか!?

 不思議な事に、記憶はすべて残っている。

 あの男のこと、聡美との結婚生活、そして生んだ子どもの顔まで——

 高校の制服姿の聡美は、授業の準備を整えて女友達とワイワイ言いながら目の前を通り過ぎてしまった。

 そう、これこそが現実というものだ。

 僕は、寂しくため息をついたが、それとはうらはらな爽快感もあった。

 今から、やっと自分の力で人生を組み立てていける。

 人から一方的に操作してもらった作り物の幸せなんて、ごめんだ。



 ……たとえフラレても、明日聡美に告白しよう。



 ダメでもいいんだ。

 それはそれで、受け入れよう。また、素晴らしい出会いもあるだろう。

 自分で選び取り、分岐点で悩み、後悔のない人生を。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



「……これで満足か?」

 男は肩をすくめて、中原聡美に言った。

「ええ」

 ベッドで深く眠る研二を見つめながら、聡美は目を細めた。

「しかし、オレとしたことが。お前さんに見抜かれるとはな」

「……主人が最近おかしいのは、私も気付いていました。私自身、何だか自分の意志で人生を歩んできた気がしてなくて。何かがおかしい、と思って私も同じように悩んでいたところへ、あなたの存在をある方が教えてくれたのです」

 チッと舌打ちをした男は、憎々しげに悪態をついた。

「天使ガブリエルのやつだな。神め、余計なことを」

 聡美は、眠る研二をいとおしそうに眺め、寄り添って頭を撫でた。

「この人は今、夢の中で高校時代に戻って自分の力で私にアタックして、自分の力で私を得る人生をやり直しています。十数年分のやり直しの夢をたった一日で見て、それから目覚めます。起きた時には、すべてを本当にやりなおしてきたのだと思ってまた生活することでしょう」

 正体がバレバレなのを悟った悪魔は、ムリに人間の姿をするのをやめた。

「……これ、やっぱ疲れるわ」

 羽根が生え、皮膚は黒くなり、目が赤く光る。

「人間ってのは、分からんなぁ。お前さん、自分がこの男を好きだと思わされていたって分かったんだろ? どうしてお前さん自身もきっちりやり直したい、と要求してこない? 本当にこの男でいいのか?」



「……正直、あなたが私たちに干渉してくるまでは、研二さんに興味とか好意はゼンゼンなかったわ」

 聡美は、そう言ってちょっと笑った。

「だったら、なぜ——」

「でもね。こうなってみて分かった。彼は、すっごくいい人。もし、ムリにでも結び合わせられなかったら、私この人の良さ、分からなかったと思う。

 だから、ある意味感謝してさえいるの。悪魔さん、研二さんに自分で私にアタックした夢を見させる件も、協力してくれてありがとう」

 悪魔は、うめいた。

「お礼を言われるようじゃ、オレの負けだな」

 ……ちっくしょう、人間風情にしてやられるなど、オレも焼きが回ったか?

 悪魔はそう悪態をつきながら魔法陣を描くと、派手な煙を上げて、黄泉へと帰って行った。

 スースーと寝息を立てる研二に顔を寄せ、聡美はそっと口づけした。



 おやすみ、あなた。

 長い夢から覚めたならば——

 今度こそ、一緒に残りの人生を歩きましょうね。

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