◇味見係 ―レモンケーキ―
かぷっとひと噛みした瞬間、レモンの甘酸っぱい酸味がふわりと鼻に抜けていった。
がんばればひと口で食べられるくらいの、レモンのかたちそのままみたいな
いつも、まだ口にいれてねーよってくらいのせっかちさで『どう? どう?』と聞いてくる
これじゃあ、感想もいえない。
……うまいのに。
うちの近所にある公園のベンチで。冬がもうすぐそこまできている冷たい秋風にさらされながら、レモンジャムを生地に練りこんだのだという、しっとりとやわらかいケーキをふた口で食べおえた。おととい味見したときよりも、さらにおいしくなっている。
数か月まえ、石みたいなクッキーをくわされたことを思うと、ものすごい進歩だ。
膝の上の、味もそっけもない茶色の紙袋。中には、おれのためのものではなかったレモンケーキがあと四つはいっている。そろりと手をつっこんで、とりだした二つ目のケーキにかぶりつく。
うまい。甘酸っぱい。
西の空が、うっすらと赤く染まりはじめている。
◇◇◇◇◇
秋奈がつくったお菓子の味見係になったのは一か月ほどまえか。それ以前は毒見係だった。なにしろ、はじめてくわされたのが石みたいなクッキーである。それからも、砂糖と塩をまちがえるというお約束をやらかしたカップケーキとか。吐きださずにはいられないくらい苦かったプリンとか。まぁ、いろいろくわされて。やっと『お菓子』といえるものになってきたのがこの一か月くらいなのだ。
もちろんそれは、おれのためにつくられたお菓子じゃない。たまたまおなじ中学出身で、たまたま席がとなりだったから。秋奈にとってのおれはたぶん、ちょっと話すことが多い――というだけの、ただのクラスメイトで。ただの『味見係』だ。
甘いものに目がないという、秋奈が片想いしている男のための味見係。家族には知られなくない――という理由でえらばれただけの、味見係だ。
◇◇◇◇◇
秋奈には大学生の兄貴がいる。片想い相手は、その兄貴の友だちなのだという。どんな男なのかおれは知らないが、秋奈いわく『やさしくて、かっこよくて、完璧』らしい。
そんな『完璧』なら、彼女のひとりやふたりいたっておかしくないわけで。秋奈だってそれくらいわかっている。それに、自分が『友だちの妹』にしか見てもらえていないことも、ちゃんと彼女はわかっていた。
でも、だからこそ。いつか意識してもらえるような『おとなの女』になるのだと。お菓子づくりは、そのための一歩だった。
秋奈は身じろぎひとつせずにうつむいたままだ。
意中の彼には彼女がいた。
わかっていたことだ。
けれど、その相手が問題だった。
「なぁ……」
「…………」
「それ、たまたま会った……とかじゃねーの?」
「……ちがうよ」
「なんで?」
「……
「…………」
バカなことを聞いた。ここまで打ちひしがれているのだ。それなりの場面を見てしまったにきまっているのに。
でも……
でも。なんだ。
友だちなんだろ……?
…………最悪だ。口に出さないで正解だ。
そう――
彼の相手は、秋奈の友だちだった。
親友で、おない年のいとこだった。
偶然おなじ日に、ふたりが秋奈の家に遊びにきたことがあって。そのときばったり顔をあわせたのだという。
「あたしの気持ち。知ってるんだよ」
「……うん」
「……応援するって、いってたんだよ」
「……うん」
三つ目のケーキを口の中にほうりこむ。そろそろ飲み物がほしくなってきた。
「いつからだったのかな」
「…………」
「ずっと、裏で笑ってたのかな」
「…………」
ふだんはスタンプとか顔文字とかにぎやかなメッセージを送ってくるのに。今日はたったひとこと。
公園にいる。
それだけで。あわててきてみれば、無言で紙袋を押しつけられて。
友だち。親友。いとこ。彼。デート。ぽつぽつと、彼女の口から出るのはほとんど単語だけで。それらをつなぎあわせて、確認して、理解するまでにしばらくかかった。
真っ赤に染まった空が、秋奈の心から流れだした血みたいに見えてギクリとする。
こういうとき、なんて言葉をかけたらいいんだろう。
……おれにしとけよ。なんて、うっかり浮かんできた陳腐なセリフをぶんぶん頭をふって追い払う。
そんな、弱みにつけこむようなまねはしたくない。
頭の中に『そんなんだから彼女できないんだよ』と、鼻で笑う中学生の妹の声が聞こえてきたような気がするけれど。知ったことか。ほっといてくれ。
そういえば、
「……なんでレモンなんだ?」
オレンジでもリンゴでもなく、なんでレモンケーキなんだろう。そう思ったら、今度は考えるまえに口から出てしまって。彼がレモン好きだから――とか返ってきたらどうしよう。
ずっとうつむいていた秋奈がきょとんと顔をあげて。パチパチと目をまたたかせた。やばい。かわいい。
「お母さんのほうの田舎でつくってて。毎年送ってくれるの」
「……レモンを?」
「うん」
「あれ? でもレモンて夏なんじゃ」
「夏のイメージあるけど、レモンの旬は冬なんだよ」
「えっ、そうなの?」
「うん。国産レモンは十月から四月が収穫期」
「へえぇ」
知らなかった。
……あれ? なんか、空気が軽くなってる?
紙袋の中のケーキはあと二つ。ぴったりじゃないか。わずかでも軽くなった空気がうれしくて、とりだしたケーキをひとつ秋奈に差しだした。
「今までで一番うまかった」
「……ほんと?」
「ほんと」
秋奈はおずおずと受けとったケーキをしげしげとみつめている。
最後のケーキをとりだして、ぱくりとひと口。やっぱりうまい。
……がんばったんだ。
がんばって、努力して。
石みたいなクッキーからここまでになったんだ。
秋奈はすごいんだ。ほんとうに、すごいんだ。
秋奈がすごいこと、おれはちゃんと知ってるんだ。
なにひとつ言葉にならなくて。もぐもぐと咀嚼する。さわやかな酸味が鼻に抜けて、やわらかな甘さが口いっぱいに広がる。飲み物はほしいけど。自販機ないし、うまいものはうまいのだ。
思いきったように、秋奈もかぷっとひと口噛みついた。
「……ほんとだ」
「だろ?」
「うん」
うなずいた拍子に、彼女の目からぽたりとひと粒涙が落ちた。
「……おれ、聞くことしかできないけど」
「……うん?」
「いつでも、話聞くし」
「……うん」
「呼んでくれたら、すぐくるし」
「……うん」
「だから」
「……?」
「…………なんか、飲みいかね?」
「……え?」
「いや、うまかったんだけど。さすがに四つくったら、のどかわいて!」
秋奈はまたもやパチパチと目をまたたかせる。やめろ。くそかわいい。なんていえるはずもなく。目をそらすいいわけに、ふいっと空を見あげる。赤。朱。紅。空が、燃えているみたいだ。
ふ――っと、ちいさく笑うような気配がして。それから「えいっ!」と、秋奈はいきおいよくベンチから立ちあがった。
「……尾花くん。ありがと」
くるりとこちらを振り向いた瞳はまだわずかに潤んでいたけれど、その表情は晴れやかで。よかった。笑ってくれた。ほっとして、おれも彼女にならっていきおいよく立ちあがった。
燃えるような紅が、夜の藍色にとけていく。
からっぽになった紙袋を、おれはベンチ横のごみ箱に投げこんだ。
(了)
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