◇新しい家族 ―レモン―
見ているだけで口がすぼまって、目がしょぼしょぼしてしまう。
二つめ、三つめ――と、まるまるレモン一個たべてしまって、奈子さんはちょっと残念そうだ。まだ物足りないらしい。
……不思議だ。まさしく神秘だ。
だって、奈子さんはすっぱいものが苦手だった。レモンとかお酢とか、酸味の強いものが苦手で。自分からすすんでたべることなんて、まずなかったのに。
ダイニングテーブルの上にぽつんとあるガラスの器はからっぽで。なごりおしそうに器をみつめていた奈子さんがふと顔をあげる。その目が『ダメ?』とぼくに聞いていた。ぼくは『ダメ』と、やっぱり目で答える。
あからさまにしょんぼりする奈子さん。かわいい。とてもかわいい。かわいいけど、ダメなものはダメなのだ。
すっぱいレモンにも果糖が含まれている。なにごとも過ぎれば毒だ――なんて、そんなことを考えている自分がやっぱり不思議で。なんだか、いまだに夢を見ているのではないかと思ってしまう。
まだほとんど平らな彼女のお腹に新しい命が宿っているなんて。
ぼくたちの子どもがそこに育っているなんて。
ほんとうに、夢みたいだ。
◇◇◇◇◇
ぼくがそれを知ったのは、三回目の結婚記念日だった。病院には数日まえに行っていたらしいのだけど、結婚記念日のサプライズにしようと黙っていたのだという。
驚いた。驚いたなんてものじゃなかった。
ぼくと奈子さん。夫婦どちらの身体にも問題はみつからないのに、なかなか妊娠しなくて。だんだんと、周囲――おもに親類縁者からあたえられる、悪気のない無神経なプレッシャーに奈子さんがふさぎこむことが増えてきた。そんなタイミングでの妊娠報告だった。
驚いて。うれしくて。しあわせすぎて窒息してしまいそうだった。
◇◇◇◇◇
奈子さんにも赤ちゃんにも、万が一のことがあってはいけないから。家事も買い物もぜんぶぼくがやろうと思ったのだけど。
妊娠は病気ではないし、むしろ多少は動かないといけないのだと、奈子さんにあっさり却下されてしまった。
さいわい、奈子さんのつわりは比較的軽くすんで、安定期にはいるころには味覚も戻ったのだけど。レモンをまるまるたべてしまうあの変化は劇的で衝撃的で。きっと、この先レモンを見るたびに、奈子さんのマタニティ生活を思い出すのだと思う。
とにもかくにも。育児教室にも夫婦でかよったし、ぼくは出産にも立ち会う気まんまんだったのだけど、これまた奈子さんに全力で拒否されてしまった。
――だって、すっっごぉーーく痛いんだよ、絶対。わたし、たぶん獣化するし! 百年の恋もさめるから! ダメよダメ。
その理由がなんともかわいくて。もちろん、そんなことで嫌いになったりしない自信はあったけれど。ただでさえ大変な出産である。奈子さんの希望が最優先だ。もっとも、それは出産にかぎったことではなくて。ぼくは一生、奈子さんに勝てる気がしないのだけど。
◇◇◇◇◇
その日は、予定日より半月近くはやくきた。
朝、ぼくが出社した直後に破水したらしく。
『生まれた。女の子』
そんな短いメッセージが届いたのは、間の悪いことに午後の会議中で。
結局、ぼくが病院にかけつけることができたのは、空が赤く染まりはじめたころだった。
◇◇◇◇◇
きれいだ――
そう思って、動けなくなった。
やわらかな夕陽がさしこむ病室で。奈子さんは生まれたばかりの赤ちゃんを胸に抱いていて。
その光景があまりにも美しくて。
清浄。神聖。崇高。
そんな言葉が浮かんでは消えて。
開け放たれていた入り口に立ちつくしたまま動けずにいると、気配を感じたらしい奈子さんがこちらを向いて、パ――ッと笑顔になった。なにかを洗い流したような、透明な笑顔だった。
「善さん。おかえりなさい」
「……
「……へ?」
出産という、大仕事をおえたばかりの妻にかける第一声としては、最悪だったかもしれない。
でも、きれいだった。ほんとうにきれいで、感動してしまって。いろんなことが、ぜんぶ吹っ飛んでしまったんだ。
夕暮れ。夕焼け。夕陽。夕紅。
赤色。紅色。桃色。朱色。
――茜色。
「その子の、名前」
「……茜」
「うん。……ダメかな」
名前だって、姓名判断とか音の響きとか、ふたりでいろいろ考えていたのだけど。それもすべて、どこかに消えてしまった。
奈子さんは赤ちゃんを見て、窓に目を向けて、ぼくを見て。それからまた赤ちゃんに視線を落として。
「……茜。茜ちゃん。パパがきてくれたよ」
にっこりと赤ちゃん――ぼくたちの娘に、茜に、笑いかけた。
(了)
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