夕紅とレモン味 ―短編集―

野森ちえこ

それぞれのレモン

◇初恋 ―レモネード―

 むかしはよく、初恋の味はレモンの味なんていいましたけれど。今の若い人たちはどうなのでしょうね。


 ……私の初恋の思い出はね。レモネードだったんですよ。あなたもおなじだったら嬉しいのだけど。……どうだったんでしょう。おぼえているかしら。




 ◇◇◇◇◇◇




 ジャズが低く流れる喫茶店で。高校を卒業したばかりの私はそれだけでドキドキしてしまって。ひとつ年上なだけのあなたがとても大人に見えたことを、今でも鮮明におぼえています。


 はじめてのデートでした。大人っぽい雰囲気の喫茶店で、大人っぽいあなたと飲んだレモネード。妙に甘ったるくて、緊張でカラカラになったのどに引っかかって、けれど冷たくて、とてもおいしかったレモネード。その味が、こうして目を閉じるだけでよみがえってくるようです。


 そして、そう――お店から出た瞬間、目に飛びこんできた夕空があまりにも美しくて、私はうっかり泣きそうになってしまったんです。あなたはおかしそうに笑いながら、とろけるような、やさしい目で私をみつめてくれましたね。



 きっとあのとき、私は恋に落ちたのだと思います。




 ◇◇◇◇◇◇




 私は、あなたのお嫁さんになりたかった。いいえ。なれると信じていました。あなたもそうでしたよね。そのつもりで、いろいろ準備してくれていたこと、ちゃんと知っていますよ。


 あなたが大学を卒業して、しっかり就職できたなら結婚してもよいと、互いの両親からも許しをもらって。これから――というときでした。あなたを、病に奪われたのは。


 信じていた未来が突然断ち切られて。つらくて、苦しくて、泣いて、泣いて。いっそあなたのあとを追おうか――とは思いませんでしたけれど。……あたりまえでしょう? だってそのとき、私のお腹の中にはすでに私たちの宝物が宿っていたのですから。




 ◇◇◇◇◇◇




 長い、長い時間が流れました。


 あれから、両親や親戚にはさんざんお見合いをすすめられましたし、友人たちからも食事に誘われるたびに男性を紹介されたりしましたけれど、すべてお断りしました。べつに、あなたに義理立てしたわけではありませんよ? ただ、心が動かなかっただけです。私には、あなたが遺してくれた、かわいい娘もいましたからね。生活は大変でしたけれど、両親や友人をはじめいろんな人たちがたすけてくれました。


 その娘も結婚して、今では元気な男の子のお母さんです。私はおばあちゃんになりました。あなたもおじいちゃんですよ。




 もうすぐ。もうすぐ会えますね。


 ずっと、この日を待っていました。

 あなたに会える日を。

 あなたが迎えにきてくれる日を。


 あぁ……でも、少し心配です。


 こんな皺だらけのおばあさんになってしまって。

 きっとあなたをがっかりさせてしまう。

 だってあなたは若いままでしょう?


 ……ねぇ、どうか。どうか。

 がっかりしないでくださいね。




 ――最後にもう一度、あのレモネードが飲みたかった。


 そう思ったとき、かさかさの唇にあてられた脱脂綿から、ほのかに甘酸っぱい水が一滴、口の中に落ちてきました。……どうして、わかったのでしょう。さすが、私たちの娘ですね。




 そちらにも、レモネードはあるのでしょうか。

 甘ったるくて冷たくて、とてもおいしいレモネード。


 まぶたの裏に、あの日の夕紅が広がっています。

 あなたはとろけるようなやさしい目で笑っていて。

 差し出された手に手を乗せて。



 やっと。やっと――会えましたね。



     (了)



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