彼の中にいる彼女
ホクトさんが自動翻訳機を外した日からあたしの生活は一変した。
これまで一人でこなしてきた水汲みや料理、洗濯といった家事は全て彼が手伝ってくれた。集落全員で行う水田の米作り、畑の豆や野菜の世話もホクトさんは積極的に参加して協力してくれた。
「歴史の授業で勉強した古代農法と少しも変わらない。この星はまるで数千年前の地球だね」
嫌な顔ひとつせず嬉々として働くホクトさんを集落のみんなは温かく迎え入れてくれた。無理もない。ここ数年間、十代の男の働き手は一人もいなかったのだから。ホクトさんの存在自体がこの集落の希望のように思われた。
「今夜も話を聞かせてよ」
夕食後のあたしたちはほとんど会話をして過ごした。最初にホクトさんが興味を示したのはこの星の歴史だ。それについては調査官が置いていってくれた資料と本がある。それを読むように勧めるとすまなそうに言った。
「ごめん。学校でも家でも読むんじゃなくて聞いて勉強してきたんだ。そのほうが楽に覚えられるからね。悪いけどサイが読んで聞かせてくれないかな」
それから数日間、あたしは彼のために本を読んだ。
「この星は超光速航法が確立した後、本格的に派遣された第一次探索隊によって発見されたと言われています。今から数百年前のことです。運の悪いことに着陸と同時に探索船が大きく破損したため地球へ連絡できず、また捜索隊によって発見もされなかったので、この星の存在は地球には知られることのないまま現在に至っています」
「そうだったのか。どうりで聞いたことのない星だと思ったんだ。これでもボクは人類が開拓した惑星を全て暗記しているんだよ」
得意げに自慢する姿はまるで子供だ。あたしは本を読み続ける。
「生き残るために乗組員が選択した方法は農業でした。もともとこの探索船は植物の繁殖を主目的としていたので、冷凍保存された植物の種を豊富に積み込んでいました。この星の温暖な気候と豊富な水資源、そして肥沃な土壌も農業には最適でした。こうして最初の乗組員たちによって現在の繁栄の基礎が築かれたのです」
あたしは淡々と読み上げる。時々ホクトさんから質問される。
「君はそこに書かれていることが正しいと思っているの?」
意地の悪い質問だ、あたしはこう答える。
「歴史の知識に関していえば、あたしもホクトさんも大きな違いはありません。ホクトさんは1ヶ月前にこの星へ来ました。ですから1ヶ月分の知識しかありません。同じようにあたしには11年分の知識しかありません。物心付いたのが5才の頃だからです。つまり5才の時にこの星へ不時着したようなものです。ホクトさんが1ヶ月より前の知識を得るためには本を読まなければならないように、あたしも11年より前の知識を得るためには本を読むしかありません。その記述の真偽はともかく、取り敢えず書かれていることは信じるしかないのではありませんか」
少し強めの口調に驚いたのだろう、ホクトさんは目を丸くしてしばらくあたしを見つめていた。それから素直に謝罪した。
「つまらないことを訊いてしまったね。ごめん、謝るよ。ただ君があまりにも疑うことを知らないから、ちょっとからかいたくなって……」
「いいえ。あたしも言い過ぎましたね。ごめんなさい」
そう言いながら胸がチクリと痛む。でもあたしはここに書かれている通りに読むしかないのだ。実際、自分が生きていた時代より過去のことについては、言われたこと、書かれていることをそのまま信じるしかないのだから。
その一件からホクトさんは本に興味を示さなくなった。代わりにあたしの生い立ちを知りたがった。
「両親の記憶はほとんどありません。顔や名前さえももう覚えていません。あたしは隣の家で育てられました。集落の学び舎で文字や計算や植物のことを学び、16才になった今年の春に独り立ちしてこの家で暮らし始めたのです」
「つまり中学で卒業ってことか。教育システムはそれなりに整っているんだね」
やがてホクトさんは自分のことについても語り始めた。突如地球を襲った磁極混乱――SNSと名付けられた厄災。恐怖に怯える人類と破壊されていく社会システム。他の惑星目指して旅立った移住船のトラブル、救命船で漂っている時の孤独。
「死ぬまでこのままで構わない、あの時は本気でそう思っていた。だけど今は違う。やはり人は人と共に暮らしてこそ幸せなんだ。たまたま太陽系によく似た星域へ迷い込み、『環境は地球に類似。生命体が存在する可能性あり』という惑星解析結果を見た時もほとんど喜びを感じなかった。危険を冒してそんな星へ行ってどうなると言うんだ。生息しているのが意思の疎通すらできない生命なら、今の独りぼっちの生活と変わらないじゃないか、って。だけどやっぱり来てよかった。うまく姿勢制御ができず救命船は大気圏で燃え尽き、緊急避難カプセルだけになってしまっても、ボクの選択は正しかったと思う。だって君に会えたんだから」
彼の好意はいつも感じていた。でも同時にその空虚さにもあたしは気付いていた。こちらに向けられた彼の目はあたしではない別の何かを見ているように思われた。ある日、あたしは勇気を出して尋ねた。
「ホクトさんのいた地球には大勢の友達がいたのでしょう」
「うん。幼稚園の頃からずっと一緒だった友人も何人かいる」
「その中には女の子もいたのでしょう」
「女の、子……」
ホクトさんは一瞬戸惑った表情を見せた。でもすぐに理解してくれたようだ。
「なるほど、そうだよね。サイだって女の子なんだからボクの元カノは気になるよね」
「ごめんなさい」
「謝ることはないよ。正直に言う。いた。幼稚園の頃からずっと一緒だった
ああ、やはりそうだった。彼はあたしを通してミナミさんを見ていたんだ。
「でも安心して。片思いのまま終わってしまったから。今はもう彼女のことは何とも思っていないよ。きっと南さんはボクのことなんか気にも掛けていなかったんだろうな。今頃は別の惑星に移住して彼氏を作っているだろうさ」
「そう、ですか」
わかっていた。それがホクトさんの優しい嘘であることは。
日を重ねるうちにホクトさんの心の扉は少しずつ開いていく。そして開いていく扉の内側にはいつも一人の女の子、ミナミさんが住んでいる。扉が開くにつれてその姿はますますはっきりと見えてくる。ホクトさんを知れば知るほど、ミナミさんの存在もまた明瞭になってくるのだ。
「サイとはずっと昔からの友人のような気がするよ。まだ出会ってから数ヶ月しか経っていないなんて信じられないな」
今日もホクトさんはあたしに優しい言葉を投げかける。その度に胸が締め付けられる。そう、彼が見ているのはミナミさん。あたしではないのだ。10年以上もの間、生活を共にしていた女の子に、数ヶ月しか付き合いのないあたしが勝てるはずがない。
「これから何十年も一緒に過ごしてお互いに年を取れば、あたしは確実にホクトさんの昔からの友人になっていますよ」
「その通りだ。ははは」
いつかミナミさんに勝てる日が来るのだろうか。大きく開かれた扉の向こうにいるのは、ミナミさんではなくあたしになっている日は来るのだろうか。
でもその前にあたし自身の扉も全開にしなくてはならない。あたしの扉の向こうにある世界を眺めた時、今と同じ優しいホクトさんのままでいてくれるだろうか。そんなことを考えながら、今夜もあたしはホクトさんと同じベッドで眠りにつく。
恐怖から始まった扉の向こうで騙されて失った恋は……第二話 沢田和早 @123456789
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