恐怖から始まった扉の向こうで騙されて失った恋は……第二話

沢田和早

 

扉の向こうは不思議な世界

自動翻訳機を外した日

 井戸から水をもらって容器に入れる。

 家の中へ運んで水甕に注ぐ。

 これが毎朝最初に行うあたしの日課。その後は燃料を使って湯を沸かし朝の食事を作る。

 でも最近はその前に仕事がひとつ増えた。


「おはようございます、ホクトさん。これを使ってください」

「ああ、ありがとう」


 彼は自動翻訳機を頭から外すと、あたしが手渡した布で顔を拭いた。それが済むと上着を脱いで腕と胸を拭く。あたしは背中を拭いてあげる。


「気分はどうですか。痛む所はありませんか」


 あたしが尋ねると彼は自動翻訳機を装着して答える。


「気分はいい。体の調子もいい。今日はテーブルで食べてみようかと思う」

「テーブルで? 本当に大丈夫ですか」

「いつまでもベッドで食事をしていては君も大変だろう。あまり迷惑をかけたくないんだ」


 優しい人だ。それは最初に言葉を交わした時からわかっていた。口調も言葉も眼差しも相手を思いやる気持ちに溢れていた。それは今も変わらない。


「無理はしないでくださいね」


 そしてあたしはいつものように朝食の支度をする。毎日が同じ献立。椀に一杯の玄米。塩豆を発酵させたスープ。砕いた豆の煮汁を固めたもの。

 テーブルについたホクトさんは黙々と口へ運ぶ。まるでそれが彼の義務であるかのように。


「ごちそうさま」


 食事を終えてもホクトさんは椅子に座ったままだ。今日はよほど体調がいいのだろう。


「ねえ、サイ。少し話をしないか」


 心臓がドキリとする。こんなことを言われるのは初めてだ。いつも言葉を発するのは用がある時だけ。無駄口は滅多に叩かない人なのに。


「えっ、は、はい。どんなお話をしましょうか」


 食器を片付けて彼の正面に座る。こちらをじっと見つめてくるので少し恥ずかしい。


「話の前にお願いなんだけど、ボクをさん付けで呼ぶのはそろそろやめてくれないかな。同い年なんだろう。ボクだってサイって呼び捨てなんだし、君も北斗ほくとと呼んでくれていいんだよ」

「そ、それは、でも、ホクトさんはあたしたちとは違いますから、呼び捨てなんて、とても……」


 そう、同い年と言っても彼の歴史とあたしの歴史は全然違う。ホクトさんが米ならあたしは苔。米は半年もすれば茎が伸び立派に成長するが、苔は何年経っても地を這ったままだ。ホクトなんて言い方、できるはずがない。


「相変わらず謙虚だなサイは。だけど君がそうしたいのなら何も言わないよ。思い出すな、初めて君を見た時のことを。一目見て優しい人だと感じた。君は覚えているかい」

「はい」


 忘れるはずがない。ここ数年で一番驚いた出来事だったのだから。

 そう、あれは今から10日前のこと……



「地震?」


 それはいつもの揺れ方とは違っていた。まるで何か大きく重たい物体が、音もなく落下したかのようなズシリとする振動だった。

 窓の外を見る。日没後の薄暮が消え夜の闇が広がり始めていた。妙な胸騒ぎを感じたあたしは家の外に出た。人々の騒めき。何人かは北に向かって走っている。


「何が起きたんだろう」


 私も隣家の住人と一緒に北へ走った。集落の外れにはすでに人だかりができていた。その真ん中にあったのは人がすっぽり入れそうなくらい大きな球体だった。


「こ、これは、何?」


 突然、その球体の一部が外へせり出した。驚いて後ずさりする人々。低い機械音を響かせながら両開きの扉のようにその部分は開いていく。

 あたしは近寄って中を覗き込んだ。扉の向こうはまるで夢の中のように不思議な世界だった。明滅する室内灯。その光を反射して輝く金属光沢の壁面。規則正しく配列された管と金具。


「まさか、人?」


 なによりあたしを驚かせたのは中央に横たわる生物だった。ダボダボの服、頭をすっぽりと覆った帽子。透明の板を通して見える顔は人間の男性にそっくりだった。


「これは一大事だ。すぐに報告してなくては」


 集落の族長は直ちに地方の役人へ連絡した。そして夜が明ける前に中央から派遣された調査官が集落へやって来た。調査官は私を名指ししてこう言った。


「申し訳ないのですが、あなたの家で彼を預かっていただけませんか」


 あたしは驚いた。どこから来たのかわからない、人間かどうかすらもわからない者を預かることなんてできるはずがない、そう言って首を振るあたしを調査官は説得した。それは長く信じがたく、そしてまた納得できる説明だった。


「わかりました。彼のためにできるだけのことをしましょう」


 中央から来た役人たちは彼をあたしの家へ運び込むと、感謝の言葉とともにたくさんの資料や本を置いて帰っていった。あたしは指示に従って眠っている彼の服を着替えベッドに寝かした。


 翌日の昼、彼は目を覚ました。


「ここは、どこだ」


 彼が発した言葉をあたしは理解できた。やはり調査官の言っていたことは正しかった。彼はあたしたちと同じく地球に由来する人間なのだ。

 あたしは簡単に説明した。昨日、球体が落下し、あなたはその中で眠っていた。中央の役人に言われてあたしが世話をすることになった、と。

 それだけで彼は満足してしまったようだ。それ以上何も尋ねようとしなかった。

 それからはただ食べて眠るだけの毎日が続いた。ひとつだけ奇妙に思えたのは彼が決して自動翻訳機を手放さなかったことだ。


「言葉が通じているのはわかっているはずです。そろそろその機械を使うのはやめてはいかがですか」

「いいや、言葉は重要だ。ボクのいた地球はひとつの言語に統一されていたのに、それでも言葉の意味を取り違えて要らぬ対立を生むことが何度もあったんだ。違う星に住む君たちとの意思疎通はさらに慎重であるべきだと思うんだ」


 それはこの10日間で一番長い彼の言葉だった。あたしはそれ以上何も言わなかった。そして今もまだ彼は自動翻訳機を装着してあたしの前に座っている。


「ホクトさんと出会ったあの日のことは今もはっきりと覚えています。瞬くうちに過ぎてしまった10日間でした」


 あたしの返事を聞いたホクトさんは少し険しい表情になった。


「ボクもこの部屋で目覚めた時のことは今でもはっきり覚えている。それはまるで見知らぬ扉を開けて不思議の世界に迷い込んだような気分だった。君は優しい、だからこそ余計につらい。目が覚めてから今日までボクはずっと考えていた。こんな星で生き永らえることに意味があるんだろうかって。誰かの世話になって、誰かに迷惑をかけて生きるくらいなら自ら命を絶つべきなんじゃないかって、ずっと思っていたんだ」

「それは違います。あたしは迷惑だなんて思っていません」


 予想外の言葉だった。まさか彼がそんな考えに囚われていたなんて夢にも思わなかった。


「あたしだけでなく集落のみんなも同じです。あなたを迷惑に感じている者はひとりもいません。元気になったあなたと一緒に暮らしていきたいと思っているのです。ですからそんな考えは今すぐ捨ててください」


 ホクトさんは嬉しそうに口元を緩めた。駄々をこねる子供を眺めるような目で私を見ている。


「安心してサイ。今のボクはもうそんな考えは持っていない。毎日君を見て君と暮らしているうちに、後ろ向きな考えはすっかり消えてしまったんだ。世話をしてくれたのがサイでよかった。君がボクに生きる力を取り戻させてくれたんだよ」

「そんな、あたしは別に……」


 これは褒められているのだろうか。戸惑いながらも嬉しさは隠せない。思わず笑みがこぼれる。ホクトさんもにっこりしている。


「笑った君を見るのは初めてじゃないかな。うん、決めたよ。今日からはボクも君の仕事を手伝う。それからこれはもう使わない」


 会話をするときは必ず装着していた自動翻訳機。それがホクトさんの頭から外された。彼の決意は本物だ、あたしはそう感じた。


「人は言葉ではなく気持ちで分かり合うもの。これからはお互い心の扉を開いて生きていこうよ。君やこの星を理解するようボクも努力するつもりだ」

「はい。よろしくお願いします。ホクトさん」


 テーブルに両手をついてお辞儀をするとホクトさんは渋い顔した。


「さん付けでボクを呼ぶのも改めて欲しいんだけどなあ。まあいいや。それでは相互理解の手始めとして、ひとつ質問させてくれないかな」

「どうぞ」

「君は16才と若く、しかも一人暮らしだ。ボクみたいな見知らぬ若者の世話係としては随分不適切だと思うんだよ。どうしてこの星のお偉いさんたちは君にボクを任せたんだろうか」

「そ、それは……」


 口籠ってしまった。もちろん理由は中央の調査官から聞いている。でも少し言いづらい。あたしは途切れがちな口調で答えた。


「この集落は若者、特に子供が少ないのです。それで一人でも人口を増やしたくて、あたしとホクトさんを二人だけにしたみたいです……」


 ホクトさんの頬が少し赤くなったような気がする。あたしの頬はきっと真っ赤になっているだろう。


「そ、そんな理由だったのか。はは、余計なお世話だよね、ははは」

「ふふふ」


 照れ隠しの笑いはやがて本当の大笑いに変わった。あたしとホクトさんの心の扉がほんの少しだけ開いた、そんな気がした。

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