第九十二話 先代




「どう? 気持ちいい?」

「……ええ。とっても」

「これは?」

「あー……体が溶けそうな感覚です」

「ふっふっふ。そっかそっか」


 嬉しそうな艶めいた玲華の声が、露天の浴場に響く。


「それにしても固いわね、大樹くんの……」

「……そうかもしれませんね」

「うんうん。でもだからこそやり甲斐あるわね」


 二人が――というか、玲華が何をしてるかというと――


「ちょっとやそっとじゃ、この凝りは解せないかもね……私のマッサージじゃ」


 ということである。

 水着を着用して大樹が風呂に入って待っていると、間も無く玲華が以前にも拝んだ眩い艶姿で入ってきて、二人してゆっくりと湯に浸かって体が暖まったところで、玲華がマッサージを始めてくれたのである。

 今玲華は大樹の背中を肩から中心に、肘や手を使って解してくれているところだ。


「無理しなくていいですよ。もう十分リラックスしてますから」

「別に無理してないわよ。したいからしてるだけ」

「……ありがとうございます」

「いーえ。毎日毎日朝も早くから夜は遅くまで……本当にお疲れ様ね」


 玲華の気持ちがたっぷりこもった労いの声を耳にして、大樹はマッサージ以上に体がリラックスしてきたような気がした。


「……それにしても大樹くんの背中って広いわね」

「そうですか?」

「ええ。それにやっぱりガッシリしてるし、筋肉だってすごいし……」


 その言葉を聞いて大樹は肩を落とした。


「今の俺の筋肉なんて……すまない、お前達。会社を辞めたらすぐに元の――いや、あの頃以上の姿にしてやるからな」


 大樹が己の上腕筋に触れながら決意を込めて呟くと、玲華から何かが引き攣ったような音が聴こえた気がした。


「む、無理はしないようにね……」

「大丈夫です、安心してください。こいつらならきっと俺の思いに応えてくれます」


 大樹が錆びついた大胸筋に触れながら言うと、一瞬玲華の手が大樹の背中から離れ、そして躊躇うようにまた触れてきた。


「……そ、そう……ああ、そうだ! お風呂から上がっても、またマッサージしてあげるからね。寝転がった態勢じゃないと、やっぱり難しいところもあるし!」

「……今でも十分ですのに、いいんですか?」

「い、いいのよいいのよ! お姉さんにまっかせなさい!!」


 久しぶりにお姉さんぶる玲華を見たような気がして、大樹は思わず軽く吹き出してしまった。


「……何で今噴いたのかしら?」


 ジトっとした目で問うてくる玲華に対し、大樹は「ゴホンッ」と咳払いをしてみせた。


「いえ、何でもありませんよ……?」

「ふーん……」

「ははは……いや、やっぱり久しぶりの風呂はいいもんですね」

「あ、あからさまに誤魔化しにきた」

「いや、そんなとんでもない。本心からの言葉ですよ」

「ふーん……まあ、いいけどさ」


 最後には苦笑を滲ませて仕方なさそうに口元を緩ませる玲華。

 そんな、今の雰囲気を何ものにも代え難いことだなと思いながら大樹はふっと頬を綻ばせて、日々の仕事で溜まった疲れや緊張が体から抜けていくのを心地良く感じていた。




「へー、なるほどね。そうやってやり込めて会議の継続を止めた訳ね、やるじゃない、大樹くん」


 最近のことを考えたら早い今日の帰宅について、切っ掛けとなったクソ社長とのあらましについて話すと、玲華は噴き出し気味に笑って大樹を誉めた。


「いえ……どうせならもっと早く手を打っておくべきだったと反省しています」


 ため息と共に本心からの言葉を吐くと、玲華は苦笑して大樹を宥めた。


「そうしたところで、同じ結果が得られたとは限らないでしょう? 聞いていた感じだと、大樹くんが社長室に行って一対一で直談判したところで話が通ったようには思えないけど?」

「それは……まあ、そうですね」


 大樹もそれがわかっていたから、後輩達の疲労度合いを目にしながらも、社長に何も訴えなかったのだ。

 例え一対一の状況で大樹がやり込めることが出来たとしても、あの恥知らずの社長は「そんな話など知らん」と平気な顔で宣ってから、堂々と会議を継続したであろう。

 だから大樹がいる皆の前で、社長が顔を出した時は、大樹自身は割りかしチャンスだと思って、声をかけたのだ。


「なんだ、やっぱりわかってるんじゃない。ならそんな気落ちするようなこと言わないの」


 マッサージも終えて今は横並びに座っている玲華が、肩をパチンと叩いてきて大樹は苦笑を浮かべる。


「はは、わかりました」

「うんうん。大樹くんは機を逃さずに正しく対処したの。だからそんなこと言っちゃダメよ?」


 普段のポンコツぶりは見せず慣れたように社長らしく諭し褒めてくる玲華の笑みには自然と頷かされてしまった。

 もう一点、この話にまつわることがあるが大樹は今更かと口にしなかった。

 大樹が言質をとってやり込めた後だが流石に社長室に戻った時には我に返ったのだろう。

 以降から、社長一派から地味な嫌がらせを受けてたりする。

 鬱陶しいことこの上ないが、後輩達が会議で潰されるよりはマシかと、全部スルーしたり追い返したりしていたのだ。

 そのことで覚えていたストレスも、玲華の笑みと艶姿を見たことで彼方へと去ったのもある。


「ん……それにしても、聞けば聞くほどひどい社長のようね」

「ですね。褒めるところが無く、悪い点しか出てこないので、そのつもりは無くとも話せば話すほど悪い印象を与えることになりますね」

「あ、はは……確かにそうなるわね」


 渇いた笑い声を上げた玲華はため息を吐くと気を取り直すように「んー」と組んだ手を天井へ向けて伸ばして背筋を逸らす。

 そうすることによって湯に半分隠れていた玲華のビキニに包まれた豊満なバストが、ぷるんと揺れながら激しく主張される。


(……これは目の保養を超えて毒のような……)


 思わず目で追ってしまった大樹はゴクリと喉を鳴らした。

 それに気づいたのか、玲華が大樹へ横目でニヤリとした笑みを向けてきて、大樹はサッと目を逸らした。


「ふっふーん、いつまで我慢できるのかなあ?」


 からかいを含んだ声のその意味することは明白である。


「……お、俺を舐めないでいただきたい」


 絞り出すように震えた声で返すと、玲華はますます面白がるような目になった。


「そう――」


 そして上体を伸ばして大樹の耳へ顔を近づける。


「――私はいつでもいいけど……無理しないでね?」


 艶めいた吐息と共に囁かれ、大樹の背筋にゾクっとしたものが走る。

 自分の顔が赤くなっていくのを自覚しながら、バクバクと鳴る心臓の音を追い払うように大樹は口に手を当てて「ゴホンッ」と咳払いする。


「そ、そういえばですね……」

「ん? なーに?」


 玲華がクスクスと零しながら座り直した。かと思えば、大樹の肩にコテンと首を傾けてもたれる。


「ら、来月いっぱい俺は休むつもりだと後輩達に話したら、三人もそうしたいという旨を聞きまして」

「あー……そうね。そうした方がいいかもしれないわね。基本、大樹くんと同じぐらいの激務してるん……だっけ?」

「ええ。転職活動の必要もなくなったからとあいつらは今月に入ってから、俺と同じぐらい働いています」


 そんな中で、あんな無駄な会議で時間をとられるのはストレス以外の何物でも無かった。

 それでもモチベーションを維持できていたのは、今月末で終わりというゴールが見えているからに外ならない。


「それなら休養はあった方がいいわね……こちらとしても特に問題は無いし、了解。麻里ちゃんに伝えておくわ」

「……四楓院さんですか。では、お願いします」

「はいはーい」


 会話が一区切りついたところで、少し沈黙が降りる。

 それは居心地の悪いものでなく、ゆったりと時間が流れるのを二人で楽しんでるかのような、そんな間だった。

 その静寂を破ったのはウトウトしかけていた大樹ではなく、玲華であった。


「あ、そういえばさ、大樹くん」

「……なんですか?」


 返答に少し間があった訳を察した玲華は申し訳なさそうにする。


「あ、と、ごめんなさい……」

「いえ。なんでしょう?」

「ああ、そのね、会社の営業の中でね、大樹くんの会社の先代の社長と面識があった子がいたのよ」

「へえ? SMARK'S SKRIMSの営業の方と? それはまた意外ですね」


 強く興味が沸いた話題ということと、口にした通りに意外だったことで、大樹の眠気は一気に覚めた。


「でしょう? で、その子からその先代の方とお会いした時のことについて聞いたんだけど……」


 言葉にせず「興味ある?」と問われた大樹は、興味深い顔を隠さずに頷いた。


「是非、聞かせてください」

「ふふっ、いいわよ。翠が言うには――ああ、その会った子が翠って名で、私や麻里ちゃんと同じく創立のメンバーなんだけどね」

「ああ、じゃあ幹部の方なんですね」

「そうそう。それで、会社を創立してそう間も経ってなかった時のことだそうでね」

「あー……おやっさん――社長が亡くなったのが三年近く前ですからね。そうなりますか」

「ええ。当時、PA社の社長の快癒パーティというのがあってね、顔繋ぎ兼ねて翠も参加していたのよ。どうやって潜り込んだのかは本人も覚えてないらしく謎だけど」

「な、なるほど……」


 どうやら翠と呼ばれる女性は随分と破天荒のようだとわかる。


「そのパーティで、翠が参加者を物色している時に、妙なほどに白けた顔をした年配の方を目にしたそうでね」

「それが社長……だと?」


 話の流れ的に間違ってないだろうと確信しながら問いかけると、玲華は面白がってるような顔で頷いた。


「その通り。興味を持った翠は簡潔に自己紹介と名刺交換を済ませてから聞いてみたんだそうよ。どうして、そんな顔をしているのかって」

「そしたら……?」

「そしたら――」


 以下、当時の翠と先代社長のやり取りである。


『ところで森社長、聞いてもいいですか?』

『おう。なんだい、嬢ちゃん』

『嬢ちゃんはやめてください、そんな歳でもないですし――どうして先ほどまでさっきのような顔をしてたんですか?』

『しけたこと言うなよ、別嬪の嬢ちゃん……いや、本当に別嬪だな、はっはっは。んで? さっきのような……顔? なんのこったい』

『はあ。私はいいですけど、下手に言ったらそれセクハラなんですよ? 私が声をかけるまで、すごく白けた顔をしていたように見えたのですが』

『やな時代になったもんだねえ、昨今ではすぐセクハラがどうのこうのと言ってきやがる。てか、見られてたのか、こりゃまいったな。はっはっは』

『……なんかあんまりまいったようには見えないんですが』

『んん……? いやいや、そんなことねえよ。はっはっは』

『はあ……で、お聞きしてもいいのでしょうか?』

『んん……どうしたもんかねえ……嬢ちゃん、口は固い方かい?』

『嬢ちゃんはやめてください。黙っておけというなら黙っておきますよ』

『そうかそうか。じゃあ、これから話すことについては、ここだけの話ってことで……嬢ちゃん、あいつ――今日の主役のあの社長が、何からの快癒パーティか知ってるかい?』

『……そう言えば、病名については一切耳にしてないような……』

『それなんだけどな、ちょっと耳貸しな……』

『? はい……』

『こんなパーティ開いてるから、どんな難病だったのかと誰だって勘違いしてしまうんだろうが……』

『はい……』

『実はあいつが罹っていたのは……』

『……』

『いいか笑うなよ……注目集めちまうからな』

(勿体ぶってなんなんですかね……)

『あいつが罹っていたのは――痔、だ』

『っ!?』

『ぶははははっ――あ、いけね』

『ぶ、ぶふっ! ちょ、ちょっと……く、ぷくくっ……!』

『ここに来ている誰もが一体何の、どんな重病に罹っていたのかと口にせず疑問に思っていて、そしてこんなパーティが開かれた原因が――痔、だ!!』

『ぶふあっ!! ちょ、ちょっと、やめ、やめてください……っ!!』

『良く見てみろよ、あの野郎の顔を。いつ病名を突っ込まれるかと冷や冷やしてるのがよくわかるだろう!?』

『〜っ!! ちょ、ちょっと、ほんと……っ!!』

『このパーティだってな、当たり前だろうが、あの野郎本当はやる気なんてなかったんだ。それが部下にまで隠していたせいで、あいつの知らないところで話が進んでこのパーティって訳だ』

『ぷふっ……くくっ……』

『あいつが何で入院していたかを偶然知っていた俺にまで、やつの部下からこの招待状が届いた時には、あの野郎正気か!? なんて思ってな、仕方ねえから来てやって、それであいつが取り繕った顔で前に立って、まるで難病から復活したかのように英雄が凱旋したかのように演説してるの聞いてたりなんてしたらな……白けちまうのも無理ねえと思わねえかい、嬢ちゃん?』

『あはははははっ――!!』 

『痔からの快癒パーティなんて聞いたことねえぜ。嬢ちゃん、他に聞いたことあるかい? もしかしたら探せば他でもやってたかもしれねえな。痔の快癒パーティって。いや、こんな規模は流石にねえか……?』

『ぶはっ――っ!! ちょ、ひ、ひ、や、やめてください……!』

『大丈夫かい嬢ちゃん、痔がそんなにツボったかい』

『ひはっ、やめ、やめてくだ……』


 その後もニヤニヤと痔のワードで追撃され、翠は笑が止まらなかったそうな。




「あっはっはっは!!」


 話を聞き終えた大樹は玲華と共に爆笑した。


「はははっ……いやいや、おやっさんらしい……」


 目尻の雫を拭いながら大樹はしみじとする。


「あははっ、面白い方よねえ……本当に翠が話していたような人だったの、大樹くん?」

「ええ。俺の知ってる社長のイメージと寸分違いません。話を聞いている間、目に浮かぶようでした」


 そう、そういう人だったと思い出しながら首を振りつつ言うと、玲華はまた笑う。


「本当に! 翠が大袈裟に話ていたんじゃなかったのね……」

「ええ。楽しい人で……どこに行っても人に囲まれ惹きつけるような人でした」

(あの屈託なく笑う姿が好きだったんだよな……)


 大樹の実感がこもった言葉に、玲華は思い出したような顔になって付け加えた。


「あ、だからなのね」

「何がです?」

「さっきの話の続きよ。その社長さんにからかわれながら翠が笑っていると、次々と人が集まってきて――その社長さんの知り合いと思われる方がね。その人達を翠にさりげない形で紹介くださったそうなのよね……それもうちが関係を持ちたいような企業の方へは特に」

「ははあ……なるほど。おやっさんの詫び代わりじゃないですかね。笑わせ過ぎたことに対しての」

「翠もそう言っていたわ」

「やはりですか……おやっさんとは、以後も会っていたんですか?」

「いえ。それっきりだったそうよ。紹介くださった方と話している内に、気づいたらいなくなっていたらしくてね」

「なるほど、それもおやっさんらしいです……」

「……さっきから気になってたんだけど、先代社長のこと『おやっさん』と呼んでいたの、大樹くん?」

「ええ。ですが、俺だけじゃありませんよ。他の社員もです……ああ、就業中は言いませんよ、流石に」

「へえー……聞いてると、懐の深そうな方ね……」


 その声には会ってみたかったという心情が感じられた。


「ええ……なのに、息子はろくでなし――いえ、ろくでなし以下ですからね。残念で仕方ないです」


 大樹が重いため息を吐きながら言うと、玲華も残念そうに息を吐いた。


「そうだ大樹くん、辞める時って、過去の残業代とか請求したりしないの?」

「ああ、残業代ですか……考えはしましたが、アレに言っても無駄だと思うと……」


 休出代も残業代もここ二年まともに受け取っていない。合わせると、なかなかに信じられない額となるだろう。

 だからこそ、絶対にやつは払うことは無いだろうと大樹は確信している。


「うーん……そっか……あ、残業の記録とか残ってない?」


 眉間に皺を刻んで悩む玲華に、大樹は苦笑を浮かべて否定しようとした。


「いや、それは流石に…………あ」


 大樹の口から最後に出たその「あ」のその意味することを違えて受け取る玲華ではない。


「あるの!?」

「そういえば、確か……綾瀬のやつが……」


 一年以上も前のこと、残業代が支払われなかったことに憤慨していた綾瀬が、スマホのカメラなどで色々証拠を収めていたような。


「今も継続しているかはわかりませんが……もしかしたらあるかもしれません」


 大樹が少し自信なく言うと、玲華は目を輝かせた。


「本当!? じゃあ、大樹くんっ――!」

「はい……?」


 玲華は息を弾ませ、その大きな胸を揺らしながら力強く言ったのである。


「うちの弁護士紹介するから会ってみて!!」

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇ ◇◆◇◆◇◆◇ ◇◆◇◆◇◆◇


更新遅くなってすみません。


今週はもっと早くに更新するつもりだったのですが、連休始まりから高熱出してしまいまして、更に遅くなってしまいました。

あ、風邪でした。PCR検査も陰性でした。


皆様も気をつけてください。

前話までのコメント返信はまたゆっくり返させていただきますね。



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