第九十話 社長だけど




「麻里ちゃん、さっきの件だけど、ちょっと様子見したいから、待つよう伝えてくれる?」

「かしこまりました」

「それとこっちの案件なんだけど――」


 今年も残りわずかということで、玲華の麻里の二人は社長しつで忙しなく仕事を進めていた。


「ふう……」


 一区切りついたところで玲華が背もたれにもたれて、ひと息吐く。


「少し休憩しましょうか、コーヒー淹れますね」


 相変わらずの察しの良さで欲しい時にそう言ってくれる頼りになる秘書に玲華はクスリと頬を緩ませた。


「お願いね」

「はい」


 社長室の片隅で、麻里が手際良くコーヒーを立てる音が静かに響く。

 そしてコポコポとコーヒーの匂いが部屋に漂い始め、玲華はスンと鼻を鳴らしてそれを楽しむ。

 コーヒーを飲む前の、この時間も玲華は好きだった。


「お待たせしました」


 麻里がスッと見ていて心地よさを覚えるほどの所作でカップを玲華の前に配膳する。


「ありがとー」

「はい。あと、これ先ほど外に出た時、珍しくお店の中が空いていたので買いました。どうぞ」


 そう言って出たのは小さなチーズケーキで、玲華は見覚えのあるそれに思わず声を出した。


「あ!? これ星歌堂のやつじゃない! 売り切れてなかったの!?」

「ええ。あの時間にしては本当に珍しく……社長と食べようと思ってすぐに並びました」

「やん、麻里ちゃん、愛してる!」

「ふふ、コーヒー冷めないうちにどうぞ」


 麻里も買えたことに喜んでるのか、常にないほど上機嫌に玲華へ勧める。


「もちろん。いただきまーす」


 ウキウキ気分になりながら手を合わせて、早速とばかりにケーキへフォークを差し入れる。


「んー……美味しい!」


 口の中に広がるチーズの濃厚な香りと甘味と、玲華の頬がこれでもかと緩んでいく。

 見れば、麻里も自席でフォークを口にうっとりしている。

 実は二人してこのお店のファンだったりする。

 そういう訳で暫し二人は無言でケーキを堪能しながら至福の時間を過ごす。

 そうして食べ終え、ゆっくりとコーヒーを飲みながらケーキの余韻を楽しんでいる時、その静寂は突然のように破られた。


 ――ドンドンドンドンッ


 社長室の扉にノックというには乱暴に叩かれたその音が響き、玲華と麻里はビクリと肩を震わせた。


「……誰か来る予定あったっけ……?」


 玲華が訝しげに麻里へ問うと、同じく彼女も眉を怪訝に歪めていた。


「? そんな予定は……でも、このノックの仕方は……どう――」


 どうぞと言おうとした麻里の言葉を待たずに、遮るかのように、先に扉はバンッとこれまた乱暴に開かれた。


七種翠さえぐさみどり、ヨーロッパ諸国の営業よりただいま戻りました!」


 ニコニコと敬礼の真似事をしながら、明るく大きな声を元気一杯に響かせながら、八重歯が特徴なその女性は入室してきた。

 思いもしない人物の登場に玲華は目を見開き、思わず腰を浮かせた。


「翠!? あんた、来週から出社じゃっ――!?」


 女性の名は七種翠、玲華、麻里と同様にこの会社を立ち上げたメンバーの一人で主に渉外を担当している。

 翠はここ一、二ヶ月の間、彼女が言っていたようにヨーロッパ諸国に営業で周っていて、帰国予定はこの週末で出社は来週からと玲華は麻里から聞いていた。が、何故かここにいて玲華は驚いたのだ。

 翠はズカズカと社長室を横切りながら玲華に近づいていく。


「ええ、そうなんですよ。本当なら明日に帰国の予定だったんですけど、飛行機に空きがあったもんですから、どうせならって思ってそれに乗って先ほど空港に着いたばかりです。いやー、いつも思うんですけど、日本に帰ってくると醤油の匂いを感じますね。日本にいる時は碌に意識しないのに、どうしてなんでしょうね? そのせいか荷物受け取ってから思わず立ち食いのお蕎麦屋さんに入って蕎麦すすっちゃいましたよ。帰国したらやっぱりザ・日本食な食べ物が恋しくなりますね。あ、夜ですが、居酒屋行きましょう。唐揚げとかお刺身とか食べたいです。おでんもいいですかね、この季節ですし。あ! いやいや、鍋もありですね。とにかく、日本酒でキュッとやりたいです。あっちじゃ、大味なビールやワインばかりでしたし、一緒に飲んでた人も大酒飲みばっかりで――」


 まだまだ口を動かしそうな気配の翠の前に、玲華はストップと言わんばかりに手を置いた。


「はい、待って! ちょっと待って! 今晩は付き合ってあげるから待って!!」


 先ほどまでのゆったりした空気はもうどこにも無く、その緩急差に玲華は頭痛に似たようなものを覚えてきた。

 麻里もどこか頭痛を堪えるかのように眉間に手を当ててため息を吐いている。

 翠はいつでもどこでもテンションが高いのがデフォルトで、心構えもなく対面すると、先のように陽の気全開でマシンガントークをぶつけられて、今の玲華や麻里のように気疲れしてしまうのである。

 玲華は一度短く深呼吸をして、気を入れ替えて、ニコリと翠へ声をかけた。


「とにかく、お疲れ様、そしておかえりなさい、翠。麻里ちゃんから報告はちゃんと聞いてるから、大活躍だったわね」


 決して誇張した表現ではない。いつどこでもテンションの高い翠は、初めて会った外国人であろうと――いや、寧ろ外国人の方が受けの良い彼女はすぐに打ち解けることが出来て、様々な発見や交渉と、本当に沢山の成果を出して帰ってきたのだ。


「はい! ありがとうございます、社長!!」


 玲華に労われて、ニコニコと力一杯の声で返事をした翠は、そのまま流れるように玲華へと抱きついた。


「会いたかったですよー、社長!!」


 ギュウギュウと抱きしめて再会を喜ぶ翠に、玲華は苦笑する。


「あ、はは……」

「やっはははは……あ、ちょっと失礼……」


 そうしてる間に、翠は腰を曲げて玲華のその豊満な胸へと顔を埋めてグリグリと頬ずりした。


「へ、え? うわきゃあああ!?」

「んー……うんうん、相変わらずの感触で! うん、日本に帰って来たって気がしまっす!」


 ぷはあっと顔を上げて玲華の巨乳を堪能してスッキリしたような翠に、玲華は大きくため息を吐いた。


「あ、あんたねえ……」


 玲華の恨みがましい目を気にすることなく、翠は玲華の机の上のコーヒーカップに目を止めて、麻里へ呼びかける。


「あ、コーヒー飲んでたんですね。私も欲しい! マリリーン、お願ーい!!」


 どこまでもマイペースな翠に、麻里はジトっとした目を送る。


「その呼びかけはやめてくださいと、何度言えば……」


 愚痴るように言いながら、なんだかんだと席から立って用意を始めてやる麻里。

 この二人は同期で、タイプ的には正反対のように見えるが実は親友同士だったりする。


「やっはっは、時々はちゃんと呼んでるんだからいいじゃないかーってね」

「時々じゃなくて、毎回そうしてもらいたいのですけどね……どうぞ」

「お、ありがとー! んー、良い香り! また腕上げた、かな? これは」

「かもしれませんが、まだ社長には及びませんね。チーズケーキ食べますか?」

「あ、いるいるー! おお!? 星歌堂のやつじゃん! ラッキー!!」

「ええ。本当にこういうタイミングは良いですよね」

「やっはっは、運の良さだけは自信があるからねえ。これも日頃の行いさ、ってね」

「……調子の良さも相変わらずのようで」

「おっとっと、マリリンも相変わらずだねえ。んー、美味しい!」


 テンション高く話す翠と、淡々と話す麻里のどこか凸凹としたやり取りが相変わらずで玲華は思わず頬を綻ばせた。


(空港から直接こっちに来たのは麻里ちゃんに会いたかったからみたいね、どうやら……)


 それなら二人で暫く歓談してもらおうと、二人のやり取りをBGMに玲華は静かに仕事を再開する。

 と言うより、麻里に翠の相手をしてもらう方が楽だという面もあったりするが、それはそれである。




「そういや、社長、例のダーリンとはどうなったんですか?」


 翠が唐突にそんな質問をぶつけてきたのは、麻里との歓談から、その流れで仕事の報告を済ませた時だった。


「だ、ダーリンって、な、何言ってんのよ」


 まるで想定してなかった呼称を耳にして、玲華が動揺を露わにする。


「えー? だって、同棲もう始めてるんですよね? 前の会議ではそう聞きましたけど」

「ど、同棲っていうより…………前の会議?」

「定例の幹部会議です。翠さんはタブレットでリモートでの参加でしたけど」

「え、ちょっと待って。定例? え、いつのこと?」

「先週ですね」

「私聞いてないわよ!?」

「社長抜きでの幹部会議でしたから。そうなりますね」

「だからそうやって、しれっと仲間はずれ発言やめてよ!?」

「……いいんですか? 主に社長の柳さんとの近況についての話し合いですが」


 淡々と当たり前のように言われて、玲華の頬が引き攣った。

 色々言いたかった。自分の近況について話すのにいちいち集まるなとか、除け者にされて寂しいとか。

 だが、その話し合い(居酒屋での飲み会)に参加すると、間違いなく前みたいにイジられるだけになってしまう。

 結局、玲華の口から出たのは――


「……や、やっぱりいいわ。遠慮しとく」

「はい。ですが、翠さんも帰ってきたことですし、近い内に全員で集まるのもいいかと思いますので、次は参加をお願いします」

「え、遠慮した傍から……わかったわよぅ……」


 イジけたように返事をする玲華に、翠は苦笑を浮かべている。


「やっはっは……こっちも相変わらずのようで……」

「ちなみにですが、翠さんの質問にお答えしますと、現状はまだ同棲というよりも同居という方が相応しいですね。寝室も別ですし、何より相手の柳さんは、退職日に向けて仕事に専念……というよりも根を詰めているようで、帰りは社長が寝る時間より遅くの夜中、朝は社長が起きる時間よりも早い時間に出勤していて、完全にすれ違いの生活を送っているためです」

「そ、そうだけど……! 確かにその通りだけど……!」


 麻里の言っていることは全くもって間違っていない。

 いないが、何故に自分のもっともプライベートな部分を頼れる部下兼後輩とは言え、他人の口から詳らかに説明されているのか。

 一通り自分の現況を耳にして、玲華は非常に納得のいかない思いを抱えざるを得なかった。


「う、うーん……ブラック企業とは聞いてたけど、私の想像以上の会社のようみたいですね……その様子じゃ、土日も……?」

「そうですね。一緒に住み始めてから、柳さんは休みをとっていませんね」

「うわあ……完全に寝に帰ってる生活じゃない。社長がいるのに。ダイナマイトボディーの社長がいるのに」

「そういうことです。この前の週末も、柳さんを励ますために準備していたことも、無駄になって非常に社長は気落ちして――」

「ちょ、ちょっと、人のことを人の前でどれだけ話してるのよ!?」


 本人を前に次々と翠へ暴露していく麻里に玲華はストップをかける。


「そう言われてもどっちみち、幹部会議で共有することになりますが――」

「なりますが、じゃないわよ!? もうやめなさいよ、その会議!! そもそもなんで私のプライベートの共有されなきゃならないのよ!?」


 ここに来て玲華のもっともな意見に、麻里は肩を竦めた。


「仕方ありませんよ。面白――じゃなくて、我が社の社長のことなんですか――」

「ちょっと!? 全然、本音隠せてないわよ!?」

「いやあ、でも社長、仕事は完全以上に信頼できますけど、プライベートはどうにもポンコツ気味で心配しちゃうんですよねえ」


 麻里の味方をするように、戯けたように入ってきた翠に玲華はクワっと目を見開く。


「ポンコツ言うなあ!!」

「やっはっはっ」

「何で笑ってんのよ!?」

「いやあ、今一番日本に帰ってきたなーって実感が湧きまして」

「どこで実感覚えてんのよ!?」

「やっはっは……そうだ、マリリン、社長のダーリン、てかその彼の会社のこと詳しく聞いてなかったし、データ見せてよ」

「サラッと話変えないでくれる!?」

「マリリンはやめてください……これです」

「ふんふん、ありがとさーん」

「無視するなあ!」


 そんな玲華の叫びに二人は反応を示さず、玲華は脱力するように肩を落とした。


「私、社長なのに……社長なのに……」


 ブツブツと愚痴る上司を気にせず、翠は一通り書類に目を通した後、何か思い出すように「うーん」と唸り始めた。


「どうかしましたか、翠さん?」

「んん……この会社の今の社長って前の社長の息子だったよね? 前の社長の名前は……?」

森史郎もりしろうですね。何か?」


 麻里が間髪入れずに答えると、翠はポンと手を叩いた。


「思い出した。やっぱりこの先代の社長に私会ったことあったありますね」


 その言葉にイジけていた玲華は顔を上げ、麻里は興味深そうな顔になった。


「え、そうなの翠? いつどこで?」


 玲華の質問に翠は記憶を掘り返すように、側頭部をグリグリと指で押さえる。


「えーっと、確か四年ぐらい前に、どっかの会社の社長さんの快癒パーティとかだったような?」

「へえ? そんなとこで会ったって言うぐらいだから、何か話はしたの?」

「ええ。名刺交換して、少し話しましたけど……ふふっ」

「どうしたの?」

「いえ、思い出したんですけど、その先代の社長……何ていうか飾らない面白いおっちゃん、って感じでしたよ」

「お、面白いおっちゃん……ね」


 企業の社長を評するのにそれはどうなんだと思うが、だからこそ翠の本音が窺える。


「詳しく聞かせてくれる? 翠」

「もちろん、いいですよー!」


 そうして玲華と麻里は翠から、大樹の会社の先代社長について話を聞くのだった。

 

 

 

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