第八十五話 天然(ポンコツ)と計算(ポンコツ)

 

 

 

「……よし、行くか」


 昨晩のカレーの残りを朝食にし、使った食器も片付けた大樹はジャケットを羽織ってリビングを出ようとした。

 そこで、向かおうとしていた扉が開かれる。


「ふぁー……ん? あ、おはよう、大樹くん……」


 玲華があくびをしながら入ってきたのだ。


「おはよ――……うございます……玲華さん」


 挨拶を返そうとした大樹が言い淀んだのは、玲華の姿を目にしたためだ。

 正確には玲華の無防備過ぎるパジャマ姿を目にしてしまったためだ。

 シルクだろうか、柔らかそうで艶を感じさせる白い生地のパジャマは一目で高級品とわかるもの。触れればさぞ心地良い感触を得られるだろうが、問題はそこではない。柔い生地が故だろう、玲華の大きな胸がツンと激しく自己主張している。だけでなく、玲華は上から二つほどボタンを開けているのである。そのために、魅惑で深い谷間が露わになっており、視線が引き寄せられてしまいそうになる。


 いや、大樹はガッツリ視線を当ててしまったが、慌ててそこから視線を引き剥がした。

 不躾になっていなければと玲華を窺うも、玲華はトロンとした眠そうな目を擦っていて、気にした様子どころか、大樹の視線に気づいた様子もない。

 その様から、どうやら玲華は朝にはそれほど強くないようだと大樹は意外な思いで知る。


 考えてみれば大樹が休日に泊まりに来た日の朝、大樹はいつもゆっくり寝て昼前に起きていた。

 それまでにはいつも玲華は起きて何かしらしていたから、実は玲華の朝の寝起きを見たのはこれが初めてである――朝でない寝起きは昨日見ている。


(……一緒に住まないと、これはわからんかったろうな……)


 同居を始めたことを大樹は改めて強く意識して、何故か感慨深くもなった。


「んん……? あれ、大樹くん、もう出るの……?」


 玲華がリビング内にある時計を見上げて、コテンと首を傾げた。


「ええ。今出ようとしたとこです」

「ええ……? 早くない?」


 もう一度、玲華は時計を見上げた。時刻は七時を指している。

 確かに大樹の勤務先への通勤時間を考えると、この時間に出るのは早い。一時間もかからないのだから。ちなみに言うと、玲華の勤務先はもっとかからない。


「ええ。いつも早くに行って仕事してるものですから」


 最初の内は帰宅する時間を早めるためにとしていたら、気づけばこの時間に会社へ向かうのがデフォになっていた。


「そ、そう……早くに行って仕事ね……」

「これでもゆっくりしてる方ですよ? ここに越したおかげで、駅までの時間が短縮されましたから」


 そう、ここに越してきて良かった点の一つである。大樹の住んでいたアパートはここから駅とは反対の方向へ徒歩十分ほどなのだ。


「そ、そっか……少しでもゆっくり出来るようになったのはいいことね」


 玲華は言葉を選ぶようにしながらそう言った。


「ええ――じゃあ、もう行きますね」


 そう言って玲華の脇を抜けて、玄関へ向かう。


「んー、一緒に出ようって考えてたのになあ……」


 どうやら見送ってくれるらしい玲華が未だどこか眠そうな声でボソッと呟きながら後に続く。

 大樹は苦笑しながら靴を履く。


(玲華さんと一緒に通勤か……それは確かにいい朝になりそうだな……)


 色々な意味で実現性はともかくとして、大樹はうんうんと内心で深く頷いた。


「それじゃ、行ってきます」


 ドアノブに手をかけて、大樹が首だけ向けて告げる。


「あ、ちょっと待ってーー」


 玲華がそう言うので大樹は体ごと振り返ると、玲華は一歩、二歩と大樹に近づいてきて――


「――っ!?」


 大樹の首に手を回して抱きついてきた。

 驚き戸惑っている大樹をよそに玲華は手に力を入れてぎゅっと強く抱きしめてくる。


「っ――」


 体のアチコチに柔らかい何かの感触が伝わってくる。特に胸部がヤバイ。


(や、やっぱりでかい……)


 固まりながらも思わずそう考えてしまう大樹に、玲華は背伸びして大樹の頬に「んー……」と堪能するかのように頬ずりした。


「~っ……」


 凄まじく良い匂いがする髪や耳が鼻のすぐ近くを通って軽くパニックになりそうになった大樹に、玲華はとどめを刺すように、頬に「チュッ」と音を立てた。


「っ!?」


 頭が真っ白になった大樹に対して、玲華はそこでアッサリと大樹から手を離して一歩下がった。

 そしてニヘラと笑って、緩く片手を振った。


「行ってらっしゃい」


 大樹は一瞬、何を言われたのかわからず、告げられた言葉が頭に浸透するのに数秒を要してしまった。


「……――あ、い、行ってきま、す……」


 まごつきながら返すと、大樹は再び手を振る玲華から何とか目を背けて廊下へ出た。

 そして機械的に足を動かして、エレベーターへ向かう。

 高速で降りたエレベーターから出ると、大樹は外に出て駅までの道のりを無言で進む。

 ふとしたように、途中で大樹は立ち止まり、天を見上げ、大きく息を吸って吠えた。


「だああっー! なっんだよ、あれは――!?」


 近くを通りがかった散歩、ランニング、通勤をしていた人達が一斉にビクッとし、大樹から目を逸らして足早に立ち去って行く。

 朝からの、玲華からの、想い人からの多大なる不意打ちに叫ばずにいれなかった大樹であった。







(さっきの玲華さん多分……半分寝ぼけてたよな……)


 電車の中、吊り革に捕まりながら大樹は、見送りの際の玲華の緩んだ笑顔を思い出しながらそう推測した。

 どうして大樹がそのように思ったかといえば、昨晩の一件のためだ。

 夕食後、玲華は大樹がサウナに行ったことも忘れて、風呂の用意をしたのだ。それも露天風呂の方を。

 もう寝る前に顔を洗う程度でいいと思っていた大樹だったが、用意したのならと入ったのだ――玲華も一緒に。


 そう、久しぶりの水着着用での混浴であった。

 しかも誰か――恐らく麻里だろう――に入れ知恵されたかのように、入浴中は大樹の肩に頭を乗せたりしてピッタリとくっついてきたのである。

 照れながら恥ずかしそうにしていた辺り、けっこう無理していたように見えたが、少し時間が経つと満更でもないような顔をして一人落ち着き始めていたりした。


 対して大樹であるが、魅惑なプロポーションを持つ玲華に水着でくっつかれていたのであるから、当然のように落ち着くこともなく、どころか己の理性を繋ぎ止めるのに必死であった。

 そんな大樹に気づいたのか、玲華は思い出したような顔になって、大樹へ不敵な、挑発的な笑みを向けてきたのだ。

 その時になって、大樹は先週の玲華の発言を思い出したのである。


『そうよ、寧ろ大樹くんに手を出させたら私の勝ちってことじゃない――!』


 つまりは、そういうことなのだろう。

 玲華が挑発的に笑ってるのも、体をピッタリくっつけているのも、このためなのだろう。

 玲華は大樹の理性へ攻勢を仕掛けてきたのだ。

 ハッキリ言って効果は抜群だった。

 気を抜けば、ケジメも何もかも忘れて玲華に襲いかかりそうになったのであるから。


 水シャワーを玲華にかけたり、自分にかけたり、玲華にかけたりで事なきを得たが、大樹はこれからも玲華に仕掛けられることを覚悟せざるを得なかった。

 それはともかくとして、問題はこの時の玲華の笑顔である。

 先述したが大樹の理性を崩しにかかっている時の玲華は挑発的な笑みをしていたのである。それは、自分のしていることを自覚している、計算をしている上での笑顔なのだ。


 対して、今朝の見送りの際の玲華の笑顔は、緩み切っていて、言えば、ポンコツスマイルである。

 これがどういうことかというと、抱きついて、行ってらっしゃいのチュウをした玲華に計算など無いということだ。考えてみれば当たり前なことである。これから仕事に行こうとしている男の理性を崩して、事が始まっても困るのは双方なのであるから。つまりは、したいからしたという、寝惚けていたからこそ出来た大胆な行動と言える。要するに天然である。


 困ったことに、この天然の破壊力は不味い。

 計算して色仕掛けしてくる玲華も相当であるが、いかんせん根はポンコツの玲華だ。ちょっとした切っ掛けですぐに雰囲気が崩れたりする。

 それでもあの超美人な玲華なのだ。手強いことに変わりはない。

 つまり大樹はこれから家にいる間、ポンコツ混じりながらに計算された玲華の攻勢と、破壊力も抜群な天然な玲華の行動に悩まされることになったということだ。


「はあ……心臓に悪いだろ、これは……」


 遠い目をした大樹の口から特大のため息が吐き出されるのも仕方のないことと言えただろう。







 電車を降りて会社に向かっているところで、スマホが振動し、画面に表示された名前を見て大樹は目を瞠った。


「はい、もしもし――ジンさん?」

『おう、ダイちゃんかい』


 その相変わらずの渋み走った、聞く人を落ち着かせる暖かな声に思わず大樹の頬が綻んだ。


「ええ、お久しぶりです。ジンさん」

『ははっ。ああ、久しぶり、だな』


 その区切った言い方に、大樹は申し訳なく思いながら返した。


「ああ……すみません、久しぶりなのは俺のせいでしたね」

『はは、いいさ。忙しいだろうと思って、連絡しなかったこっちもだからな――それより、ダイちゃん。ちょっと小耳に挟んだんだけどよ』

「はい、何でしょう?」

『ようやく今の会社辞めるって聞いたんだが、本当かい?』


 一瞬、息を呑んだが、方々に伝えたりしたので、そこから聞いたのだろうと思い至り苦笑する。


「ええ。耳が早いことで」

『ほーう、じゃあ本当なのかい』

「ええ。ご心配をおかけしました」


 電話相手の男性は大樹と同じ会社だった先輩ではない。仕事とは関係ない場所で知り合った仲だが、大樹の会社の変遷を知って何かと心配してくれていたのだ。

 会社が本格的にブラック化してからは大樹から連絡するヒマも無くなり、相手もそれを察して連絡を控えるようになって暫く、という状況である。


『いいってことよ。ダイちゃんが納得して辞める気になったんだろ? けっこうなことじゃねえか』


 カラカラと笑う声が漏れ聞こえてくる。


「ええ……そういうことです」

『そうかいそうかい……次に行くとこはもう決まってんのかい?』

「ええ。もう決まってま――ああ、すみません。ジンさんには一言断っておくべきでしたね」


 大樹がこう言ったのは、『ウチの会社くるかい?』と何かと誘ってくれていたからだ。

 恐らく小さな会社を経営しているのだと大樹は為した会話から推測していた。


『はは、いいってことよ。俺のおせっかいが無駄になったってだけさ。ダイちゃんが気にすることじゃねえよ……ちょっと惜しい気もするが、もう決まってんなら、めでたい話じゃねえか、おめでとさん』

「はい……ありがとうございます」


 自然と大樹は頭を下げていた。


『おう。この話はもう終いにして、辞める日はもう決まってんのかい?』

「ええ。一応、今年いっぱいで辞めるつもりです」

『ほうほう……じゃあ年明けから新しい会社で、ってところか?』

「ああ、いえ、一月いっぱいは休養兼ねてゆっくりして、二月から働く予定です」


 そう返すと、電話口から嬉しそうな雰囲気が伝わってきた。


『ほうほう……てえことは、一月いっぱいは休み、ってことなんだな?』


 大樹はこの後の話の展開に予想がついてニヤッと笑った。いや、この人からの連絡なんて、昔はいつも同じ内容だったのだから予想もクソもなかった。


「ええ……一月、いつでも行けますよ――釣り」


 電話口からますます嬉しそうな気配が伝わってきた。


『はっは、ようやくじゃねえか、ダイちゃん……今んとこいつでもいいんかい?』

「ええ、いつでもいいですよ」

『そうかいそうかい……久しぶりにダイちゃんと釣りが出来て、ダイちゃんの捌いた魚が食えるってか、はっは、楽しみでならねえな』


 これも相変わらずだなと大樹は苦笑した。

 そう、電話の相手と知り合った切っ掛けは大樹が釣った魚をその場で捌いて食っている時、それに引き寄せられてで、以来のちょっと歳の離れた釣り友である。


『じゃあ、追ってまた連絡させてもらうからよ。そん時にまた詳細詰めようや』

「ええ、お待ちしてます」

『おう――』


 電話が切れてスマホをポケットにしまうと、知らずの内に笑みが浮かんでくる。

 今の会社を辞めれば、休みの日にまた釣りの予定を立てられるようになる。

 そういった当たり前のことがまた出来るようになる。

 そんな未来が迫っていることに、浮き立ってしまうのは仕方ないと言えた。


「まあ、そのためにも後一ヶ月頑張らねえとな……」


 気づけば会社のあるビルの目の前まで来ていて、中に入って階段を登る。

 社内に入ると、相変わらず一番に早く来ている綾瀬がモニターを睨みながら光速を思わせる速さでキーボードを叩いている。

 席まで行くと、隣に座っている綾瀬が顔を上げてニッコリと微笑む。


「おはようございます、先輩」

「ああ、おはよう」


 挨拶を返した綾瀬もまた、今の会社を辞めれば明るい未来が待っていることだろう。

 そう、後一ヶ月、である――

 

 

 

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