第八十三話 天使と女神
「エレベーターを降りたらわかる……――なるほど」
大樹は今まで目にするだけで、利用したことのなかった住居者専用エレベーターを降りたところである。利用の際には、先ほど玲華から渡されたこのマンションの合い鍵を使って、だ。
エレベーターを降りると、男女に分かれたロッカールームへの入口が目の前にある。
玲華が言っていた通りに迷う要素は無かったなと、大樹は男性用のロッカールームへ足を踏み入れる。
中はジムで見慣れたのとさして変わりのないロッカールームであった。
日曜の昼だけあって、住人らしき人達がチラホラいる。
「……なんか落ち着くな、ここは……」
このマンションの中はあちこちがいちいち豪華で、根っから庶民な大樹には、玄関からエントランス、廊下と歩く度に未だに場違い感を覚えずにはいられないのだ。
だというのに、ここは見慣れた感のあるロッカールームである。
「なんだ、この帰って来たという感覚は……」
大樹はロッカールームに住んだことないというのにそんなことを呟いてしまった。
頭を振って大樹はロッカーの一つを開いて、玲華から受け取ったタオルや下着の替えを中に入れて、服を脱いでそれも突っ込む。
タオル一枚を肩にかけて、大樹は久しぶりのサウナに心を躍らせながら素っ裸で大浴場へと進む。
玲華に聞いたところ、このロッカールームからサウナや露天風呂付きの
その説明を受けた瞬間にまたジムへ行きたくなる気持ちを抑えなくてはいけなくなった大樹である。
だから今はもう無心に――いや、サウナのことだけを考えて、大浴場へと向かう。
扉を開けると、ガラス張りの壁から太陽の陽射しが明るく室内を照らしており、解放感が半端ない。近隣住民に開放したら、立派にお金がとれるだろう豪華な大浴場である。
「……すげえな……」
そしてやはりジムで汗を流したのだろう人がチラホラいる。
入口に突っ立って邪魔になっていることに気づいた大樹は、まずはと体を洗うことにして、空いているシャワーの前に陣取る。
そこで正面の鏡を見てしまい、思わずため息が漏れた。
(……情けねえ肉体だ……)
錆びついたとは言え、普通にマッチョな大樹であるが、当人からしたら明らかに筋肉の量が減っているのがわかって嘆かずにはいられないのだ。
首を振ってから大樹は極力、鏡で己の肉体を見ないようにしながらシャワーからお湯を放出させたのであった。
体を洗い終えると大樹は最後にシャワーから出す水を冷水にして、それを浴びる。
(……冷た……)
ハッキリ言って、今冷水を浴びることに特に爽快感は無い。
なら、何故浴びたかと言えば、これから入るサウナのためである。
事前に少しでも冷水を浴びていた方が、サウナの中へ入った時にしんどさが減るからだ。サウナは一回目がしんどいのだ。事前に少し浴びておくことでグッと楽になる。だけでなく、温められていくことに心地よさを覚えられるのだ。
そうして少し冷水を浴びて体を冷ました大樹は、意気揚々とサウナへ足を進める。
中の温度はサウナの中では高い方でもなく標準的だろう。
扉を開くと、利用者が一人だけいて目が合ったので会釈すると、無言で会釈を返される。
備え付けのマットを一枚とって、既にいる利用者から少し離れた位置にマットを敷いて座る。
その際に、時計を確認して入った時間を忘れないようにする。
中の広さはスーパー銭湯のサウナほどの広さはないが、街中の銭湯ぐらいの広さはあって十分に快適だ。
腰前にタオルをかけて、大樹はゆっくりともたれた。
「ふー……」
当然ながら中は暑い。が、先ほど少し体を冷やしていたために今はちょうどよいぐらいだ。
そうして数分もすると、入る前に体にあった水分は蒸発し、その下から汗が滲み出てくる。
サウナに慣れていない者だとここからしんどくなったりするが、大樹は熟練者だ。しんどさなど欠片もなく、ただただ熱が心地よい。
この辺りで先客たる人が大樹に会釈してサウナから出ていって、大樹はホッと安堵の息を吐く。
これは一人になったことに対してホッとしたのではない。
自分より先に入っていた人より、自分が先にサウナから出ることが無くなったからだ。先に入っていた人より先に出るのは何となく抵抗がある。
勿論、サウナは我慢を比べるような場所ではない。
だが、熟練者を自負していると、そこが気になったりすることもあるのだ。ちょっとしたプライドのようなものである。
ともあれ、大樹は一人になったことでより解放感を得て、更なるリラックスを味わいながら熱さに身を任せた。
もう少しで十分というところで、きつくなった大樹は敷いていたマットを持って立ち上がる。そして出ようとしたところで、先ほどの先客がマットを持って中に入ろうとしてすれ違う。その際にその人から冷気を感じたことから、今まで水風呂に入っていたのだと考えるでもなく察する。
再び会釈を交わした大樹は、すぐ横の水風呂へと向かう。
そのまま飛び込みたいのをグッと堪えて、備え付けの片手桶で水を汲み、まずは足にかけ次に肩へ流し、最後に頭から水を被る。
そして逸る気持ちを抑えながら水風呂に足を入れ、体を沈めていく。
「くっ……――はあああっ……」
サウナの熱さで火照りに火照った体に、この水風呂の冷たさに浸ることによって得られる心地良さは相変わらず裏切らない。
「ふー……」
暫しして体が冷えていくと、水の冷たさが少し気になっていくが、大樹はジッとする。
指一本も動かさない。
そうしていると、体に触れている水の部分だけが温くなるのだ。
それが更なる心地よさを呼ぶ。
(……確か綾瀬はこれを『天使の羽衣』とか言っていたか……)
初めて聞いた時は無駄に大層な名前だと思ったが、こうして味わっている時はなかなかに見合った名前なのではと思えてくる。
しかし、この『天使の羽衣』、ふとしたことでアッサリと崩れ無くなっていく。自分が動くことによって水面が揺れたりすれば、それだけで天使は去って行くのだ。
だけでなく、他人が水風呂に入って来る時の揺れだけでもこれは同じことである。
なので、人が空いていると見た大樹は存分にこの状態を味わっている。
それでも、水風呂の冷たさに耐えれる時間に終わりは来る。
震えそうになる手前まで来たところで、大樹は気合を入れて体を起こす。
その際に当然の如く『天使の羽衣』は崩れていき、水風呂の本来の冷たさが身を切り裂くように襲い掛かって来るのだ。
「くうっ……」
自然と肩が縮こまっていくほどの寒さを覚える。だが、その辛さがすぐに反転するのを大樹は知っている。
そう、隣にあるサウナに入ればこの辛さは全て快感に変わるのだ。
大樹はいそいそとサウナの扉を開ける。途端に熱気に襲われるが、それは大樹の体を心地よく暖めてくれるだけの正に至福の熱気。
体中がホッと弛緩していく。再び先客へと会釈をしながら先ほどと同じ位置にマットを敷いて、大樹は腰かける。
「ふうううー……――」
サウナの後の水風呂、水風呂の後のサウナ、これ以上に人に快感を与え、弛緩させてしまうものを大樹は知らない。
難点なのが、いつやめるかだ。
サウナに入れば当然のように、水風呂に入りたくなる。
水風呂に入れば当然のように、サウナに入りたくなる。
エンドレスに繰り返せてしまうのだ。
結局は、ある程度満足してから、いつも水風呂の後に、露天風呂で締める大樹である。
一般的に知られているサウナの作法としては、水風呂の後は外気浴らしいが、大樹は外気浴はやろうと思わない。たまの気まぐれでやる程度だ。
そしてサウナに入ってもう少しで十五分というところで、再び水風呂へと向かう。
一回目より長くサウナにいられたのは、水風呂でたっぷりと冷やした体であったからだ。
「――はあああっ……」
二回目の水風呂もまた格別の心地良さだ。
そして『天使の羽衣』を崩さないよう、ジッとしつつボーっとしていると――
(……来たか……)
視界がどことなく揺れたかと思えば、体にあった疲れがスーッと抜けていくような感覚を覚える。
体中の血液が換装されたかのような、体の奥底から浄化されていくかのような、そしてエネルギーが満ちていくかのようなこの感覚。
これを大樹は汗と一緒に疲労が流れていくと表現していたが、これも綾瀬から聞いた話だと、今のような状態のことを『ととのう』というらしい。
このととのいを求めて昨今のサウナブームがあるのだとか。
(……これにブームねえ……)
この状態が堪らないことはその以前からサウナを利用している者は知っている。
なのでブームが来てると言われてもいまいちピンとこない大樹である。
ともあれ、ブームが来てサウナが増えるのはいいことだろう。
「くうっ……」
三分ほど経って水風呂から立ち上がる。
向かうは当然サウナだ。
このようにして、大樹は玲華に宣言した通りたっぷり三時間、サウナ(と水風呂)を堪能したのであった。
「ただいま……――戻りました」
チャイムを鳴らさずカードキーで自ら開いて部屋に戻った大樹は、慣れてないためか『ただいま』の一言では据わりが悪く、そのように帰宅を宣言してリビングに入った。
「あ、おかえりー」
玲華はテーブルの上に開いたノートパソコンから顔を上げてニッコリと大樹を迎えた。
「……仕事中でしたか?」
「あ、ううん。ちょっとメール確認してただけで、もう終わったとこよ」
そう言って、ノートパソコンをパタンと閉ざした。
「それよか、どうだった? サウナは――って聞くまでもない感じね。なんかすごくスッキリした顔してるし。あ、ビール飲む?」
「おお、勿論いただきますとも!」
「ふふ、嬉しそうにしちゃって」
「サウナの後のビールはまた格別ですからね」
それが楽しみで大樹はロッカールームにあるウォーターサーバーからは、最低限しか水分補給をしていないのだ。
玲華はクスクスと微笑みながら、冷蔵庫へと足を進める。
「そう言うだろうと思ってたわ。ジョッキも一緒に冷やしてるからね、キンキンよ?」
言いながら冷凍庫から霜のついたジョッキを取り出して、ドヤ顔を見せる玲華。
「玲華さん……あなたは、女神ですか」
大樹が首を振りつつ感嘆して言うと、玲華は噴き出した。
「あっはは! 予想以上の反応ありがとう。しかし、安い女神ねえ……」
コロコロと笑ってそんな風に言う玲華だが、缶ビールも手に取ってニコニコとソファへ大樹を促す彼女は非常に眩しく見えた。
大樹がソファに座ると玲華はジョッキをローテーブルに置いて、ドバドバと勢いよく缶ビールを注いだ。すると当然ながら泡がこれでもかと昇ってくるが、これで正しい。
「この入れ方でいいのよね?」
「ええ。泡が収まってからまた注いでください」
「はいはーい」
そして泡が収まってからまた玲華はジョッキを傾けることなく、ビールを注ぎ泡が立つ。治まってからまた、と繰り返すと最後は良い感じに液と泡が七対三となった黄金比の生ビールの完成である。
「うんうん、綺麗に出来ました――はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
受け取ってから大樹は我慢ならないとばかりに口につけゴクゴクと喉を鳴らしながらジョッキを傾けていく。
火照った体、渇いた喉、キンキンに冷えた生ビール、おまけにニコニコと笑顔を向けてくれる美女。もうビールが美味い要素しかない。
「――っかあ~…………美味い!」
半分ほど空けたジョッキを片手に、満足さから体が震える。
「ふっふふ、本当に美味しそうに飲むわねえ、大樹くん」
「本当に美味いですからね」
「あっはは、何かおつまみとかいる?」
「あー……いや、いいですかね。今はビールだけで。もう少ししたら夕飯の時間ですし」
「そう? ならいいけど……じゃあ、とりあえず冷蔵庫からもう一本ビールもってこよっか?」
「ええ、是非」
「ふふっ、はいはい」
そう笑って、面倒がらずに玲華はソファから立ち上がってビールを取りにいってくれる。
それを横目に再びジョッキを口につけた時、ふと大樹は気づいた。
(……よく考えたら入社する予定の会社の社長にビールとりにいってもらってって――)
お互いに今がプライベートだからとは言え、おいそれと他人に見られていいものではないだろう。
「ううむ……」
大樹が唸っていると、玲華が戻ってきて小首を傾げた。
「どうしたの?」
「あー……いや、何でもありません」
「そう?」
「ええ」
「ふうん……まあ、いいけど。はい、ジョッキ置いて?」
言われて大樹は気づいたら空になっているジョッキをテーブルに置く。
そうして玲華がまたビールを注いでくれているのを見ながら、大樹はふと尋ねた。
「そういえば、夕飯は何にしますか? まだ決まってませんでしたよね?」
「あ、それなんだけどね」
玲華が期待を滲ませた顔で大樹に振り向く。
「さっきテレビ観ててすごく食べたくなったのがあって――!」
「ほほう、何でしょう?」
何でも来いとばかりに大樹が聞くと、玲華はニンマリと言ったのである。
「カレー食べたい!」
◇◆◇◆◇◆◇ ◇◆◇◆◇◆◇
内容が暑苦しいだけに、サブタイだけは爽やかにやらせてもらいました。
本文と合わせてちょうどよくなったかと思います……すみません。
思っていた以上にサウナに行けないこのやるせない思いが筆に乗ってしまったようで……
書き終わってから、やっちまったと思いましたが、折角書いたのでこのままいかせていただきました。
前の更新から早かったということで勘弁を。
書籍購入特典の蛇腹SS読まれた方には、ちょっとネタが被ったところもありますが、まあ繋がってる部分もあるので目瞑っていただけると幸いです。
てことで次回はカレーです。
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