第八十二話 馳せるこの思いはあの時まで
「……んんー……」
目を覚ました大樹は体を起こさずに腕、足を伸ばしてからムクリと体を起こした。
「……?」
そこで大樹は違和感を覚えて、スンと鼻を鳴らす。すると、嗅ぎ慣れた――玲華の匂いが自分の体から感じる。
徐に左腕を上げて鼻へ近づけると、さほど匂いはしない。
右腕を上げると、途端に匂いが強まる。
(……そういえば、前もそうだったな……)
以前もあったことだったと思い出した大樹は、それなら不思議でもないかと寝惚けた頭はそれ以上考えるのを放棄したのであった。
ちなみにだが大樹が寝ていた場所は、以前からと同じく和室の部屋である。
同居するからといって、特に変更する必要も無いかとそのままになったのだ。
玲華が手配してくれてこの家に運び込まれた荷物に関しては、必要最低限を除いて、暫くはそのままにするつもりである。
今はまだ大樹の職場は変わらずなので、荷ほどきと整理に時間をかけるのもどうかという話になったのだ。それを為すのは今の仕事を辞めて、時間が出来てからでいいだろうと。
なので、今暫くは同居というよりも毎日玲華の家に泊まりに来る、というようなスタイルになるだろうなというのが大樹と玲華の認識である。
「……起きるか……」
睡眠はひとまずたっぷりとれたために、もう昼前だ。
夜食もすっかり消化したために、すっかり空腹となっている。
「さて、顔洗ってから……何が食いたいって言ってたっけな、玲華さんは――」
一人呟きながら、大樹はノソリと立ち上がるのであった。
「お……」
リビングへの扉を開けると、珍しいものを目撃した。
「……玲華さん?」
そっと大樹が呼びかけるも反応が無い。
そう、玲華がソファで寝転んで静かに寝息を立てているのだ。
「……そういえば玲華さんが寝てるとこ見るのって初めてだな……」
考えてみると珍しいどころでは無かった。
大樹は起こさないよう静かに近づいて、貴重な玲華の寝顔を窺ってみた。
「……やっぱり綺麗だな……」
近くでゆっくり眺めて大樹は改めて玲華の美人度合いに感心の吐息を漏らす。
「しかし……」
玲華が美人なのは今更であるが、今は玲華の格好の方が問題だ。
玲華が今着ているのは膝丈のスカートに、襟ぐりの広い半そでのニットなのだが、そんな服装で横向きに寝転がっているのである。そのせいでスカートは膝より上に登りかけているし、胸元は深い谷間が露わになっている。
これ以上なく隙だらけで無防備といっていいだろう。
思いがけず、思い人の艶姿を目にして大樹は喉を鳴らしてしまった。が、頭を振って大樹は目を逸らした。
そして以前、大樹もかけてもらった、傍にあるブランケットを腰から下にかけてやる。
「……よし。顔洗うか……」
せり上がる情欲を断ち切るように顔を上げた大樹であるが――
「んん……――」
狙ったかのように玲華が悩ましい声を上げ、つられて大樹は振り向いてしまう。
苦しそうな様子は無い。どころか微笑んでいるように見えて、大樹は目を奪われた。
「……い、一枚だけ写真撮っとくか……」
そう、折角の玲華の寝顔なのだ。
一枚撮ったところで罰はあたらないだろうと大樹はスマホでパシャリと撮った。
「……もしかしたら俺も撮られたかもしれないしな……うむ……」
以前に玲華が膝枕をしてくれた時のことを考えたらその可能性は多分にあるだろうと、大樹は自己弁護して、今度こそ顔を洗いに洗面所へ向かったのであった。
「……まだ起きてない、な……」
顔を洗ってスッキリした大樹は迂闊なことを考えないよう、玲華に近づかず様子を窺った。
「まあ、起こす必要も無いしな……飯の支度してれば目覚ますか」
食事の用意をして匂いが漂えば、そうなるに違いないと大樹は予測した。
という訳で大樹はキッチンに入って、エプロンをかける。
荷物をほどけば自前のエプロンがあるが、今敢えてそれを出す必要性も無いと変わらず玲華のエプロンを使う。
「さて、食べたいって言ってたのは……フレンチトーストだったか」
事前に聞いていた玲華のリクエストは以前にも食べたフレンチトーストである。
(……初めて二人で食ったやつをこの日に選んだ、とかか……?)
同居を始めるこの日だからそうしたのかとふと思ったが、正解は玲華の口から出るまではわからない。
いや、単に思い出して食べたくなった可能性も多分にあるだろう。
ともあれ、以前とまったく同じフレンチトーストというのも面白くない。
なので――
「ふぁあ……」
料理が完成して後は配膳だけという段階でムクリと玲華が起き上がり、体を伸ばしてあくびをしている。
そして猫のように目を擦って鼻をスンスンと鳴らしながら、首を回すとキッチンに立つ大樹と目が合う。
そこで一瞬ボケっとしたかと思えば、ハッとする。
「あっ……――ね、寝てた、私!?」
「ええ、ぐっすりと」
「ご、ごめん……」
「? いえ、別に。それにここは玲華さんの家なんですから」
「そ、そうね……」
ホッと息を吐いた玲華は、思い出したように再び鼻を鳴らした。
「……いい匂い……ご飯?」
言葉少なに小首を傾げる玲華に、大樹は思わず苦笑した。
「ええ、出来たところです」
答えると玲華はぱあっと顔を輝かせた。
「本当!? あ、私ちょっと顔洗ってくる!!」
そしてドタバタと動き出す玲華を横目に、大樹はテーブルに作り終えた食事を配膳し始めた。
「いただきまーす!」
「いただきます」
顔を洗い終えてスッキリした顔の玲華と向かい合って大樹は手を合わせた。
「ふふ、相変わらず綺麗で美味しそう」
テーブルに並ぶ料理を見て玲華がご機嫌に呟くのを耳にして、大樹は苦笑する。
いつものように二人はまずサラダへ手を伸ばす。
「これはそのまま食べたらいいのよね?」
「ええ。そのままどうぞ」
「ん、わかった。どれどれ……」
そう呟いて箸で大根のサラダをつまんで口に入れる。
「……んん? なんかピリッと……」
少し驚いたように目を瞠る玲華に、大樹は片頬を吊り上げた。
「何だと思います?」
「んー……あ、なんか柑橘系の香りもする……! わかった、柚子胡椒!?」
ここで今度は大樹が目を瞠った。
「正解です。一発でわかるとは思いませんでした」
「ふっふーん」
大樹を驚かせたことで喜ぶ玲華に苦笑しながら大樹も大根のサラダを頬張る。
千切りした大根に塩を振って、ざるに暫く放置して水が抜けてから冷水で洗ってから絞る。それに柚子胡椒とマヨネーズを混ぜたもので和えて、ゴマをかけたのがこのサラダである。
大根のシャキシャキした食感にマヨネーズの味が来て、更には柚子のサッパリさが香り、玲華が言った通りに柚子胡椒のピリッとした辛さが来るも、マヨネーズの味があるからすぐに治まる。そしてゴマがまたいいアクセントになっている。
「このサラダも美味しい……マヨネーズある割にアッサリして」
「ええ。けっこう美味いでしょ」
「うん」
頷いて玲華は上機嫌に再びサラダを頬張った。
サラダとしては白一色で少し寂しいので、横にプチトマトも並べている。
見つけた時から思っていたが、このプチトマト、フルーティで甘めのやつだ。
(……高いやつだな、これは……)
大樹なら滅多に買わないタイプのやつだ。ともあれ、よく冷えて文句無しに美味い。
続いて玲華はスープの入ったカップを口に持って行く。
ふーふーっと冷まして、カップを傾けた玲華は一口飲み下してから、じわりと頬を緩ませた。
「美味しい……ねえ、これ何のポタージュ? コーンじゃないわよね?」
玲華が口にした通り、スープはポタージュである。
「……何だかわかりますか?」
「えーっと……ううん、何だろ……なんか似たようなの口にした気がするのよね……」
今度は答えは出てこないようで、大樹はニヤリとした。
「じゃがいもですよ」
「ああ! じゃがいも!」
「ええ。多分、玲華さんの記憶にあるのはビシソワーズの方でしょう」
「あ、そうよ! その時は確か冷たいスープで……」
「ええ。夏場なんかに口にすると美味いですよね」
「そうそう! なーるほど、じゃがいものポタージュね……え、これ時間かかるんじゃないの……?」
「そうでもないですよ。スープメーカーに刻んだじゃがいも、みじん切りした玉ねぎ、コンソメ、水に牛乳を入れて三十分ほどです」
「そ、そんなものなの!?」
「ええ。ここにあったスープメーカーを使ったんですけどね……」
暗に持ち主が何故知らないのだと皮肉っているが、今更だろう。
玲華は気まずげに目を逸らして、カップを傾けて大樹の視線から逃げた。
やれやれとため息を吐いて、大樹もスープを口にする。
ポタージュ特有の塩味に、そうとはなかなか気づけないじゃがいもの旨味と風味が口の中に広がる。もちろん、美味い。
(本当、スープメーカーって楽だな……見張ってなくていいし、こんなに美味いポタージュが手軽に出来るし……)
開発者は表彰されるべきだと、スープメーカーを使う度に大樹は考えてしまう。
「さて、次は――っと」
玲華はニコニコとしながらフォークとナイフを手に取った。
「ねえ、これもう見た目ですごく美味しいわね」
そう言って玲華が見下ろすは本日のランチのメイン――バゲットで作ったフレンチトーストである。
適当な大きさに切り分けたバゲットを、卵、砂糖、牛乳を混ぜた液を一晩浸す――予定だったが、昨晩すっかり忘れていたために、耐熱皿にバゲットを並べて卵液をかけてから電子レンジで加熱したのである。そうすることによって短時間で卵液をバゲットに染み込ませることが出来るのだ。そうして下処理を終えたバゲットをバターで焼いて出来上がったものが、このフレンチトーストである。
「確かに、バゲットだと見た目が一気に豪華というか雰囲気上がりますよね」
「ね!」
頷いてから玲華は少し手こずりながらバゲットのフレンチトーストをナイフで切り分ける。
そしてフォークで刺したそれをマジマジと見つめてからパクっと大き目のそれを頬張った。
そして、モグモグと咀嚼を進めるごとに玲華の顔が幸せそうに笑み崩れていく。
「んんー……美味しい……」
頬に手を当ててうっとりと呟かれたその声に、大樹はいつもの達成感に包まれて頬が緩む。
そしてそんな顔を見られないよう、大樹もバゲットを切り分けて急いで頬張る。
口に入れた最初の食感はバゲットが元なだけに焼いたこともあって『カリッ』だ。そしてすぐに中に沁み込んでいた卵液が『ジュワッ』として甘味をもたらす。
この食感が楽しく美味しいのだ。
「大樹くん、これ滅茶苦茶美味しい――!!」
「ええ、上手く出来たと思います」
「うん、もう言う事なしよ!!」
「そうですか……あ、これかけてベーコンと一緒に食べてください」
そう言って大樹が渡したのは、メープルシロップである。
受け取った玲華は小首を傾げる。
「え、メープルシロップにベーコン……?」
声も訝しげだ。
「ええ、まあ、騙されたと思って試してみてください」
「……やってみるけど」
疑わしげに玲華は言われた通り切り分けたフレンチトーストにメープルシロップをかけて、添えてあるカリカリに焼かれたベーコンと一緒にフォークで刺して恐る恐る口に入れる。
眉をひそめながらゆっくり咀嚼する玲華の顔は噛み進めるごとに、これまた幸せそうに笑み崩れていく。
「お、美味しい……!! ベーコンの塩気とメープルシロップの甘さがたまらないわね、これ!!」
「でしょう?」
大樹がニヤリと返すと、玲華はいそいそとフレンチトーストを切り分けて再びベーコンと頬張る。
そして幸せそうに頬を緩ませていくのを見ながら大樹も同じようにしてフレンチトーストを口に入れる。
バゲットフレンチトーストの食感にベーコンの肉の食感が加わるだけでなく、メープルシロップの甘さにベーコンの塩気が混じり、互いの美味さを引き立てる。
これはチョコレートの甘味とポテチの塩気が混ざった時のような絶妙さと同じようなものだろう。
「うむ……」
これも文句無しに美味かった。
「あー、幸せ」
玲華は言葉にした通りの表情で食べ進めていく。
後は静かに、時折雑談も交えて二人のランチの時間は過ぎていったのであった。
「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさまでした」
「あー、美味しかった! ねえ、コーヒー淹れるけど、飲むよね?」
「ええ。お願いします」
「まっかせなさーい」
玲華は食器をまとめて、しに持っていくとコーヒーを淹れる用意を始める。
大樹は片付いたテーブルをウェットティッシュで拭いていく。
「ねえ、この後どうしよっか。ゆっくりする?」
ドリップに粉を落としながら玲華がふとしたように大樹へ聞いてくる。
「ああ、それなんですが、折角ここに住むことになりましたし、行きたいところが――」
と大樹が先を濁して言うと、玲華は少し考えてからニヤっと笑う。
「わかった、ジムに行きたいんでしょ?」
「あ、違います」
「え、違うの?」
予想外ときょとんとする玲華に、大樹は首を振りながら嘆息する。
「そりゃあ、ジムに行きたいとは思います。思いますが、今日ジムに行って夢中になってこの錆び付いた筋肉に刺激を与えて、明日に激しい筋肉痛になると仕事に支障が出るのは不味いので……」
大樹はそれはもう断腸の思いで、ジムへの海より深い思いを断ち切ったのである。
「そ、そう……」
「ええ。なので、ジムへ行くのは会社を辞めてからにしようと考えてます」
「そ、そっか……じゃあ、どこに行くの?」
「はい、サウナに行きたいです」
「あ、サウナね。なるほど」
「ええ。ちょっと――二、三時間ほどこもらせてください」
「あ、うん、わかっ――三時間!?」
ぎょっとする玲華に、大樹は首を傾げる。
「ええ。何か予定立ててました? 短くした方がいいですか?」
「え、う、ううん……ど、どうぞ。好きなだけ」
「ありがとうございます。では遠慮なく」
大樹はサウナへの思いを馳せて、頬を吊り上げた。
「わー、嬉しそう……」
そんな玲華の声が小さくキッチン内に響くのであった。
◇◆◇◆◇◆◇ ◇◆◇◆◇◆◇
サウナに行きたい私のこの思いを大樹に託して……!(この自粛の世の中でサウナは使用出来ないんです(泣)
社畜男はB人お姉さんに助けられて――
書籍第一巻発売中です!!
購入くださった方、購入報告くださった方本当にありがとうございます!
ですが、かなりの本屋が閉まっているのがやっぱり痛いです……(泣
まだ買ってない方で買おうとしている方、購入を検討中の方、
何も十冊買ってくれとは言いません……! 九冊で十分です!!
是非ともよろしくお願いします!(いや、九冊は冗談ですよ
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