第七十一話 大樹と麻里
「コーヒーの方、どうぞ。遠慮なく飲んでください」
名刺交換を終えて、気のせいか先ほどより砕けた口調で麻里に促されて、大樹は「いただきます」と告げて、コーヒーに口をつけた。
(……美味い、な)
恐らくは先ほど言っていた無料サーバーから汲んだものとは違うのだろう。豊かな香り高さで、淹れたてと思われる。見事の一言に尽きる美味さだった。
思わず味わって堪能していた大樹に、麻里から声がかかった。
「……社長が淹れたものには劣りますか、やはり」
自身もカップに口をつけながらのその言葉に、大樹は目を瞬かせた。
「は? いえ、そんなことは――あ、もしや……?」
それだけで大樹の言いたいことを察してくれた麻里が頷いた。
「ええ。社長と柳さんとの関係については聞き及んでいます。なので、ここでは気にされなくて結構ですよ――ああ、じきに同じ社で働くということですので、もう柳さんと呼ばせていただきますね」
「そうでしたか。ああ、はい、その方が私も落ち着けますので、どうぞ……」
口調から他人行儀さが少し抜けたのはそのためだったかと大樹は納得した。
(なるほど……四楓院麻里……麻里……そうか!)
たまに玲華が叫んでいた名前は目の前の女性のことだったのかと腑に落ちる。
玲華が色々話してたりしていたのだろう。だから大樹とのことも知っているのだ。
「……どうかされましたか?」
大樹の表情から何かを察した様子の麻里に尋ねられ、大樹は一瞬悩んだものの口にした。
「ああ、いえ……そういえば、あなたの名前を時折、れい――如月社長の口から聞いたことがあったなと思いまして」
「そうでしたか……例えば、どのような時だったか、聞いても?」
また悩んだ大樹であるが、直感的に是と判断して話すことにする。
「そうですね……一番最近で言えば、何かに悔しがって『おのれ、騙したなあ……!』と口にしてた時に一緒に出していたような」
それを聞いた麻里は、俯いて口に手を当てて僅かに肩を震わせた。だが、それも一瞬のことですぐに澄ました顔を上げ、やれやれと言いたげに首を横に振った。
「それに関しては社長の早合点だというのに……」
そう言いつつ、口端が僅かに吊り上っていたのを大樹は見逃さなかった。
「なるほど……それは本当に早合点だったのでしょうか……?」
「――と言いますと……?」
「そう――誘導したとかは……?」
そう尋ねると、麻里は真っ直ぐ大樹と視線を合わせ――クッと口端を吊り上げるように微笑した。
「さて……私からは何とも……」
「……そうですか……」
大樹自身がそうだからか何となく察した。麻里はきっと玲華で遊んでいると。
「ああ、そうそう。私の前では社長のことを無理して社長と呼ばず、いつも通りの呼び方をしてくださって構いませんよ。他の社員がいる前では、まだダメですが……」
大樹の言い直しを聞き逃さなかったらしい麻里にそう言われて、大樹は苦笑した。
「わかりました――が、本人がいないのなら避けておきます。これからのためにも」
「……それもそうですね。では、本題に入りますが――」
そう切り出した麻里に、大樹は居住まいを正して話を聞いた。
内容としては、主に軽い会社説明から始まり、それが終わり就業規則を聞くと色々と今の会社との違いに気が遠くなりそうになった。そして雇用条件の話に入り、麻里から掲示された年収の数字を見たところで大樹は固まった。
「如何でしょう――?」
相も変わらず淡々としている麻里に声をかけられて大樹はハッと我に返る。
「い、いえ、如何も何も――今の会社の二倍以上あるんですが……?」
本当にこの数字なのかと大樹が確認するように言うと、麻里は顔を顰めて大きくため息を吐いた。
「それは今の会社が不当に低過ぎるんです。柳さんの経験、スキルを鑑みるに最低でもこれぐらいが妥当だと判断します」
「ええと……もしかして如月社長が――その……」
玲華が贔屓して引き上げたのだろうかと思いつつ口にしてしまったが、一方で流石にそれは無いかと思い直して口を濁した大樹に、麻里は首を横に振った。
「いいえ。柳さんの給与に関して社長は口を出しておりません。この額は私と人事部によって評価したものです」
「そ、そうですか……いや、でも一体、私の何を評価して……?」
考えてみれば大樹は自己PRを一切していないのに、何をどう評価したのかと疑問に思ったのだ。
「……ああ、そうでしたね……聞き及んでいませんか? 社長から柳さんの調査をしたと」
そう言われて大樹は思い出した。
「あ、あー……はい。確かにそう聞きました」
「ええ。不快な思いをされたかもしれませんね、容赦ください。ですが、柳さんも知ってるかと思いますが、社長はプライベートに関しては――」
「あ、その先は言わなくてもわかります」
「話が早くて助かります。ええ、社長の人を見る目に関しては公私に渡って発揮されるのですが、あの通り美しくお金も持っている女性です。この会社の代表取締役ということもあって、近寄ってくる男性は後を絶たず、注意せざるを得ません」
「……なるほど」
「はい。柳さんとは偶然の出会いのようでしたが、それが本当に偶然なのか、話を聞いただけの私には判断が尽きません。そういう訳もあって、柳さんのことを調べさせていただきました。そして、この調査に関して社長は一切関与していません。全て私の独断ですので、抱かれた不信感や怒りのほどは、どうか社長には向けないでいただけないでしょうか」
今日一番熱のこもった声を出してスッと頭を下げる麻里に、大樹は「いえ、気にしてませんので」と首を横に振る。
言われてみればもっともな話だと思えたからだ。
確かに玲華は女神の如く美しく可愛くスタイルもまた並外れている。だけでなく、お金持ちで社長である。様々な下心を持って言い寄ってくる男はいくらでもいるだろう。
「……ありがとうございます」
頭を上げた麻里に、大樹は思わず苦笑を浮かべた。
「いえ、聞けば聞くほど納得出来る話でした……そういえば、如月社長からは、そう突っ込んだ個人情報は収集していないと聞いていましたが、そこら辺は……?」
「その点に関しては社長の言った通りです。こちらで調べたのはあくまで仕事に関することですね……ですが、付き合いのある人からの柳さんへの仕事の評価が個人情報だとお考えなら、その限りでは無く、更に頭を下げなくてはなりませんが……」
「いえ、その必要はありません」
玲華からその辺は聞いているので問題は無い。
麻里は再び頭を下げることで謝意を示した。
「……それで如何でしょう? こちらの条件で」
雇用条件に話が戻って麻里に問われ、大樹は頭を下げた。
「これほどの評価を頂けて身に余る光栄です。是非、お願いします」
「納得いただけて何よりです――が、先ほども言いましたが、これは最低額です」
「――と言うと?」
「私の予想では半年後には昇給しているかと思います」
その言葉に大樹が目を瞬かせると、麻里は淡々と話し出す。
「調べた過程に於いて、柳さんの人望の高さを垣間見ました。更には我が社と有益な関係をもたらすかもしれない人脈と。先ほど掲示した年収は、柳さんの経験とスキルのみから算出したものです。なので、最低額と言いました」
そこで大樹を真っ直ぐ見据える麻里。
「……そう言われても俺には――いえ、私自身にそういった心当たりは……人脈もそう大層なものは無いと思うのですが……」
大樹は本気でそう思っていて堪らず首を傾げてしまうと、麻里はクスリと微笑んだ。
「俺で構いませんよ……柳さんはそう思ってるのかもしれませんが、こちらで調べてわかった範囲だけでも大したものでしたよ……? ですが、先に挙げたことを我が社の利益のために駆使されるかは柳さん次第です。そこは無理にとは言いません。人との関わりのことですから」
「はあ……ええと、では失礼して――俺としてはここまで評価していただいた以上は、出来ることなら何でもやるつもりではありますが」
嘘では無い。玲華の下で働けるということだけで楽しみで仕方ないが、それ以上に役立ち、恩を返したいと思っているのだから。
「……期待しています」
世辞を思わせない真剣な目で告げられ、大樹は同じだけ真剣な顔をして頷いた。
「雇用条件に関しては以上と言ったところでしょうか……今までの話に関して何か質問はありますか?」
大樹は顎に手を当て、少し考えた。
「……俺が配属される部署は決まっているのでしょうか?」
「ああ、その話がまだでしたか。それに関しては我が社の組織図とその概要が記載された書類をお渡ししますので、それを確認した上で一度希望を聞きたいと思っています」
「……な、なるほど」
会社側が決定するのでなく、希望を聞かれるとは思っていなかった大樹である。
「希望は聞きますが、それが絶対に通るとは限りませんことは承知ください」
「それは当然のことかと」
「ご理解いただけて助かります――ああ、一言添えておくと、柳さんは企画開発事業部へは希望を出さない方がいいでしょう」
「企画開発事業部というと……確か残業をしたがる社員が多いという……?」
確か玲華が愚痴っていた部署の筈だ。
「聞き及んでましたか。そうです……が、それだけではありません」
「と言うと――?」
「あそこは、社長を女神と仰ぎ社長のためなら三徹も平気で行う狂信者の集まり――いえ、魔窟です」
「……」
大樹の頬が思いっきり引き攣った。
「この部署の社員は揃いも揃って優秀な方ばかりで、そして我が社に大いに貢献してるだけに……ブラックから脱出した柳さんが、あの部署へ行くと社長が心配されるでしょうから、お勧めできません」
「……き、肝に命じておきます」
それだけ返すのがやっとの大樹であった。
「結構――他に質問はありますか?」
「……今のところは。聞きたいことは概ね如月社長に聞いていましたので」
大樹がそう答えると、麻里は徐に頷いた。
「はい、また何か質問等出来ましたらいつでもお聞きください」
「わかりました」
「今日のところ、柳さんにお伝えしなくてはいけないことは以上になります」
大樹に見せるために広げていた書類をトントンとまとめる麻里に、大樹は体から力を抜く。
「そうですか、ありがとうございました」
頭を下げると、麻里は「いえ」と首を横に振り、コーヒーに口をつけた。
同じく大樹もコーヒーを飲んで一息吐いていると、ふと脳裏に過ぎる。
(……あいつらはちゃんとやれてるんだろうか……?)
後輩達の面接はまだもっとかかるだろう。三人いるのだから。
「……あちらの面接が気になりますか?」
見透かされたように声をかけられて、大樹は思わず苦笑を浮かべる。
「ええ、まあ、それは……大丈夫だとは思いますが」
そう言うと、麻里は頷いた。
「そうですね。社長は面接してる時に相手が緊張していると見れば、まずその緊張を溶かしてから話を聞く方です。圧迫面接なんて馬鹿げた真似はしないので、安心していいかと」
麻里の話しぶりから、玲華への敬意を大樹は感じ取って、内心で唸った。
麻里とは少ししか話していないが、それでもわかる。恐ろしく有能なのだろうと。そんな彼女が当たり前のように玲華を信頼している様子から、玲華の社長としての有能さを感じさせる。
「そう言えば……柳さんは、社長が仕事をしている姿は見たことが無いのですよね……?」
思い出したように問われて、大樹は頷いた。
「ええ。話している時に、そういった雰囲気が出たのを見かける時はたまにありますが、仕事をしている、という姿を見たことはありませんね」
「ですよね……つまりは、私生活のポンコツなところしか碌に見たことがない――と」
真面目な顔でそんなことを言うものだから、大樹は危うく噴き出しかけた。
「え、ええ、まあ、そうなりますね……」
そう返すと、麻里は思案げに「ふむ……」と漏らした。
「では、いい機会ですし、見て帰られますか?」
そんな提案をされて大樹は首を傾げた。
「……この面接の後に仕事があるんでしょうか?」
問うと、麻里は首を横に振った。
「いえ。今日の業務は今の面接で終了です。私も社長も」
「? では、どういう……」
意図が掴みきれず、大樹が更に問うと、麻里は言ったのである。
「ちょうど隣の部屋で社長が仕事をされているのです。見て帰られては――?」
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