第六十九話 明るい空

 

 

 

「おはようございます、社長」

「はい、おはよー」

「お、おはようございます、社長」

「あ、おはようございます、社長!」

「はーい、おはよー!」


 誰がどう見てもわかるほどに上機嫌な顔と声で玲華が挨拶を返している。

 そんな中で、またすれ違う男性社員が挨拶をするためか、フラフラーっと玲華の前に立った。

「しゃ、社長!!」

「あ、はい、おはよー」


 どこか興奮したような様子が見受けられる男性社員へ、玲華が反射的に挨拶を返すと――


「け、結婚してくださっ――!? あ、違った――お、おはようございます!!」


 その言い間違いに玲華は頬を引き攣るのを止められず、されど笑顔を維持しつつ、聞かなかったことにした。


「は、はい、おはよー……」


 何事もなかったように男性社員の脇を通り過ぎる。

 そうして玲華が角を曲がった途端、先ほどやらかした男性社員へ同僚が集まる。


「玉木……お前までやらかすとは」

「おはようの挨拶とプロポーズ間違えるって、どういうことだよ」

「やめてくれ! 気づいたら口走ってたんだよ――!?」

「お前、昨日やらかしたやつ見て笑ってたってのに……」

「見事なブーメランだったな」

「あああ――!?」

「……まあ、やらかしてしまう気持ちもわからんでもないけどな」

「だ、だよな!?」

「まあな……今週入って何人目だ?」

「……俺の知ってる限りじゃ、このアホ含めて四人……?」

「いや、俺は昨日時点で四人って聞いたぞ」

「じゃあ、このアホで五人目か」

「……アホアホ言わないでくれ……」

「馬鹿野郎、場合によっちゃセクハラにとられかねないアレを黙ってやり過ごしてくれる社長に感謝しろ、このアホ」

「うう……」

「……しかし、最近の社長は浮き沈み激しかったけど、今週入ってからは飛びきりだな」

「なあ、ちょっと、アレだわ――」

「可愛い過ぎる」

「ああ、その上、何だ――フェロモンみたいなのがダダ漏れだな」

「おかげで、アホが量産されてるな」

「あと、何かな、今までに無い感じの色気っつーか、艶って言うか、な……」

「なあ? ヤバいな、あれは」

「もはや歩くテロみたいなもんだな」

「言い得て妙だな」

「……週末によほどいいことあったんだろうな……」

「はあ……俺達の社長も遂に結婚してしまうのかな……」

「言うなや……」

「……すまん」

「はあ……」


 このように、ガックリと肩を落とす男性社員達の光景が今週に入ってからアチコチで見られるようになった玲華の会社である。




「……またですか」


 呆れを隠そうともしない麻里に、玲華は乾いた笑みで返した。


「あ、あはは……」

「昨日も言ったじゃないですか、浮かれるのもほどほどにしてくださいと」

「ご、ごめん……」


 項垂れる玲華に、麻里はため息を吐く。


「まったく……いいですか、大樹くんとの同棲――いえ、同居が決まったのが嬉しいからって、そう無差別に愛想を振り撒くと、社員達が戸惑うと――」


 朝も早くから麻里の説教が玲華へ向かう。


「――大体、何ですか。抱き着いてから挑発の意味も込めて大樹くんにキスするのはいいですが、そこでどうして頬なんですか。社長は自分がおいくつかわかってますか!? どうして唇へブチュッといかないんですか! まったく嘆かわしい……」


 説教の内容がいつのまにか会社と関係ない方向に入ってきたが、それを突っ込む者はここにはいない。


「ほ、ほっぺでも大樹くん、すごく動揺してたし……」

「それもどうなんでしょうね。もしかしたら、何故、口でなくほっぺなのかと呆れてただけかもしれませんよ」

「!?」

「社長、ご自分の年齢をお忘れでありませんか? もうずっと前からアラサーですよ、アラサー!」

「わ、わかってるわよ! って、麻里ちゃんもアラサーじゃない!!」

「今、私の話をしてるんじゃないんです。今はいい歳したアラサーがどうして唇でなくて、ホッペにチューなんて、中学生みたいな真似をしたのかという点について話しているんです」

「う、うう……わ、私なりに頑張ったのに……」


 ベソをかきそうな玲華を見て、麻里は仕方なさそうに息を吐いた。


「……まあ、そこは先輩にしては頑張ったと認めないこともありません」


 玲華の顔がパアッと輝く。


「そうよね!?」

「ええ。ポンコツの先輩にしては、ですが」

「ぽ、ポンコツ言うな!」

「それよりも、大樹くんもよく同居に同意されましたね」

「む、無視するな――!」

「もしかしたらとは思ってましたが、決め手がジムというのがまた……」

「ぐぬぬ……はあ、そこはジムだけでなく、サウナにもかなり心惹かれてたようにも見えたけどね」


 諦めのため息を吐いて、玲華は抗議するのをやめて捕捉の話をする。


「なるほど、サウナの流行はかなりのものですしね」

「『サウナー』『整う』……これらが広まってから層注目浴びるようになったものね……うちでも何かサウナ関連の製品とか考えてみる?」

「……今から参入するには遅いような気もしますが、一考の価値はあるかもしれませんね」

「ね。と言うより、流行以前から好きな人は好きだし、流行が廃れても需要はあるはずよ」

「確かに」


 いきなり話の内容が仕事に転じるのもこの二人ではよくあることだ。

 それからサウナ関連の話を少し煮詰め、ひと段落したところで麻里が思い出したように言った。


「サウナに関してはこれで企画開発部に投げるとして――大樹くんの後輩達の面接は今日でしたよね」

「ええ、そうね。時間は19時――その時は対応お願いね?」

「かしこまりました」


 スッと一礼する麻里。

 結果が既に決まっている形だけの面接である。

 なのでわざわざ玲華と大樹の関係性を悟らせるリスクを増やす必要性も無いということもあって、面接をするのは玲華だけである。

 なので大樹達が到着した際の受付、案内を担当するのは当然のように麻里で、彼女にはもう一つ仕事がある。


「面接中は大樹くんの相手お願いね。雇用条件とか、会社説明もよろしく」

「承知しています」


 玲華が口にした通りに、後輩達が面接をしている間、雇用条件について大樹と詳細を詰めるのが麻里の仕事である。ここに玲華が関わると、玲華が無意識に甘い判断をしてしまいかねないということで、玲華は麻里に一任している。

 麻里なら妥当な評価をすると玲華は信じて疑っていない。


「と言っても、話自体はすぐ終わると思います。少なくとも、そちらの面接よりかは……終わったら、適当・・なとこで待機してもらう形でいいですか?」

「んー、そうね。恐らく、後輩達と一緒に帰るだろうし……それで、お願い」

「かしこまりました」


 その時頭を下げた麻里の口端がわずかに吊り上っていたことに、玲華は気づかなかった。




◇◆◇◆◇◆◇




 定時になった途端、大樹達は一斉に席を立った。

 その際に立った音で周囲が訝しげに顔を上げる。そして怪訝に眉を寄せる。

 何故ならば、大樹達が鞄を手に持っていて、まるでこんな時間・・・・・に帰る様に見えたからだ。

 そう思ったのも束の間、大樹達は一言も発さずに扉まで歩みを進めると、そこで堂々と言ったのである。


「お先に失礼します」

「お疲れ様っしたー」

「お疲れ様ですー」

「お先に失礼します、お疲れ様です」


 まさか、そんなと課長の五味含めて他の社員が呆気にとられる中、大樹達は退社してしまったのである。

 それから次第に「ああ、そういや定時か」と我に返る社員がチラホラ出て、「俺達も今日は上がるかー?」なんて声も出始める。

 そんな中で、こういう時に一番うるさそうな課長の五味に注目が集まり始めるが、彼はいつまで経っても呆けていたままであった。




 社のある、築ん十年のビルから出た大樹は、盛大な違和感を覚えた。

 それが何なのかとふと空を見た時に、思い至った。


「……陽がまだ落ちてないのか……」


 冬も目前で秋も深まった今日この頃であるが、この時間はまだ暗くないのだ。

 会社がブラック化して遅い時間までの残業が当たり前になってから、大樹が退社して外に出ると、陽が沈んで空が暗くなっているのが当たり前であった。

 なので、外に出てまだ陽が沈んでいないことに大樹は驚きを覚えずにはいられなかったのだ。


「……明るいっすね……」

「……明るいわね……」

「……暗くないことに違和感を覚えるなんて……」


 見れば、後輩達も揃って空を見上げて口を半開きにして呆けていた。

 大樹も後輩もこの時間に外に出たことが無いなんてことは無い。夜食や、小腹を満たすためにコンビニなどが目的でこの時間に外に出ることはよくある。

 だが、帰り支度をした状態・・・・・・・・・で、この時間に外に出たのはもう暫く無かったために、違和感を覚えてしまうのだ。


「……さあ、いつまでもこんなところに突っ立ってないで、行くぞ」

「あ、そ、そっすね……」


 ビルの入り口で我に返って恥ずかしそうにする後輩達と共に大樹は駅へ向かい始める。


「……この駅までの道って、けっこう人多かったんだね」


 歩き始めて数分した頃に、夏木がポツリと言うと、工藤、綾瀬と一緒に大樹も思わず頷いて同意してしまった。

 いつもの帰る時間だと、この通りを進む人の数はもっと少ないからだ。

 朝の通勤時間時に、人が多いことは知っているが、慣れからか実感しない。対して帰り道ではいつも遅い時間のために、人が少ないのが当たり前で、今は違うことが大樹達の認識を攻めてくるのだ。


「……ブラックで働いていると、知らない内に何だろ……常識って言うか……色んな認識が狂わされるんですね」


 続いて夏木の放った言葉に、大樹達は先ほど以上に重々しく頷き、ため息を吐いたのだった。




「次で降りるぞ」


 電車のアナウンスを耳にしてから大樹が呼びかけると、後輩達は色めき立った。


「マジっすか、先輩!?」

「本当にここで降りるんですか!? 今まさに恵とこんなところで働きたいなって話してたとこなんですよ!?」

「本当ですよ! ここって都内のオフィス魅力度ランキングでいつも上位にくるところなんですよ!?」


 興奮を隠せない後輩達に、大樹は苦笑しながら頷いた。


「ここで間違いないから落ち着け」


 そう言ってわっとなる後輩達に、大樹は苦笑を深めた。


「……しかし、ここで降りるからと言って、さっき見かけたような綺麗なオフィス街に向かうとは限らんぞ? 人の少ない路地裏に回る可能性だってまだあるんだぞ……?」


 悪戯心が湧いた大樹がニヤッとしながら言うと、後輩達の顔が面白いほどに固まる。


「う、確かに……」

「いや、でもこの先輩のおちょくり顔を見るに……」

「そ、そうよ。そ、そうじゃない可能性の方が高いわ……!」


 大樹の言葉を真に受ける工藤に対し、願うように大樹のからかいだと否定する夏木と綾瀬に、大樹は肩を竦めるだけでそれ以上は何も言わなかった。


「うう……お、お願い……!」


 諦めきれないと夏木と綾瀬が手を組んで祈り始めたのを見て、再び苦笑を浮かべずにはいられない大樹であった。




 話していたオフィス街に入ってから、キャッキャと嬉しそうにしている綾瀬と夏木を背に連れて、大樹がそのビルの前に立った時、大樹は思わず玲華の名刺をコッソリ取り出して、もう一度住所に記載されているビル名を確認してしまった。


(……わかってはいたんだが、すげえな……)


 呆然と最近建てられたばかりのそのビルを見上げてしまっていた大樹である。

 そうしている大樹を見て後輩達も察したようで、「マジで?」という顔で見上げている。


「えーっと、マジっすか、ここなんすか、先輩……?」


 工藤が恐る恐る尋ねてきて、大樹は言葉少なく頷いて「身だしなみを整えておけ」と付け足した。

 すると後輩達は言われた通りに身だしなみを整えながら、感嘆したような声で「はあ……」と漏らして、再度ビルを見上げる。


「……え? あれ? もしかして、ここって……」


 綾瀬が呟いている。恐らく『SMARK'S SKRIMS』がここにあることを思い出したのだろう。

 折角の驚きをこんなところで台無しにしたくない大樹は足早に呼びかけた。


「さあ、行くぞ」

「は、はい……」


 高層用のエレベーターホールを見つけ、エレベーターに乗り込んでから、行き先の階を大樹が押したところで、綾瀬が目を見開き慄いた。


「う、嘘……!?」


 流石というべきか、どうやら綾瀬はわかったらしい。


「え、何、恵?」

「ん? 綾瀬、行き先わかったのか?」


 夏木と工藤の言葉に返さず、綾瀬が大樹へ振り返って喘ぐように言った。


「ほ、本当にここなんですか、先輩!? 私達はここを受けるんですか――!?」

「え、恵もうわかったの? てか、階数わかったからって、どこ入ってるかわかるもんなの?」

「そうっすね。ワンフロアに複数の企業入ってるのが殆どだし」


 そんなことを言う同期に、綾瀬はマジマジと見つめて信じられないように言った。


「何言ってるの……? 今先輩が押した階は一つの企業がその階含めて四フロアに渡ってまとめて借りてるのよ……!?」

「え……」


 なにその剛毅な企業はと固まる夏木と工藤。

 そんな二人と同調したかのようにエレベーターも止まる。


「降りるぞ」


 大樹がそう言うと同時にエレベーターが開かれ、その正面の壁に立てかけられた玲華の名刺にも記載されている『SMARK'S SKRIMS』の社名ロゴが見えたのであった。

 

 

 

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