第六十四話 その言や良し

 

 

 

「どうしてこうなった……」


 大樹は文字通りに頭を抱えて唸っていた。


「どうしたのよ、急に?」


 玲華が不思議そうに小首を傾げた。


「どうしたも何も――」


 言いながら大樹は先ほどまでのことを思い出していた。

 ジムに並ぶ己を高めてくれるマシン器具の数々に思いを馳せた大樹が思わず、玲華のマンションでの同居を承諾してからのことだ。

 少し複雑そうでありながらも大喜びした玲華は、大樹の考えが変わらない内にと、テキパキと話を進めていったのである。

 どこからともなく取り出した数々の書類に大樹はサインを頼まれた。聞けばそれらは、大樹のアパートの解約を任せる委任状であったり、住民票の変更を届ける際に代理人であることを証明とするもの、引っ越し業者に代理で見届けるためのもの、このマンションの大樹用の鍵の申請書類だったりと――つまりは、引っ越しが完了するまでの手続きに必要なことを全て大樹の代わりに実行するための書類というものであった。


 これにサインすることによって大樹が引っ越しまでにしなければならないことは、自宅にある日常品や家具、荷物の中でいらないものを選別するだけということになった。それだって、『不要』の札を貼っておくだけということなのだから、楽なものだ。それとは別にしなければならないことと言えば、おいそれと見られたくないものを自分で処分するか、予めダンボールに詰めて密封することぐらいである。


 つまり引っ越しの際に考えなければいけないこと、しなければいけないことを九割方やってくれるということらしい。

 普通の引っ越しに必要な煩雑なことが全くなく、正に至れり尽くせりな引っ越しと言っても過言では無いだろう。


 これはいくらなんでも玲華に任せ過ぎで、玲華の負担ではないかと大樹が言ってみても、玲華は引っ越しを見届けること以外は、自分の顧問弁護士に任せるつもりなので、そんな気遣いは不要と笑って流された。

 サラッとそんな言葉が出てくる辺りに、改めて玲華の立場やら凄さというものを感じた大樹であった。


 そうして流れるように流されるように全ての書類にサインをし、引っ越しに関する一通りの打ち合わせが終わって、一息吐いているところで、大樹は徐々に冷静さを取り戻し、我に返ったのである。

 そしてサインした数々の書類を目にして、引っ越しと玲華との同居に関して改めて実感が湧き始め――唖然としてしまったのだ。

 そうなってから色々突っ込みたいことが出来た。やはり付き合っても無いのに――や、その用意されていた書類の数々は一体何なのかなど、だ。だが、それも既に遅く――思わず漏れたのが先の一言である。


「――今日一日で自分の人生に様々な変化が訪れたような……」


 大樹が呟くように言うと、玲華はキョトンとして笑い出した。


「あっはは。それはそうかもしらないけどね。でも、嫌な――嫌な変化じゃないのよね?」


 確認するように聞く玲華が少し不安そうだったので、大樹は複雑さから眉を曲げるも率直に答えた。


「ええ……それは、そうですが」

「そ。なら、いいじゃない!」


 安心したようにホッとすると、笑い飛ばしてくる玲華に、大樹はいいのだろうかと思いつつため息と共に頷いた。


「まあ……用意が良過ぎる書類について色々言いたいことはありますが――」


 途端にギクリといったように肩を揺らす玲華。


「それも詮なきことでしょう。でも、玲華さんこそいいんですか?」

「え? 私? 何が……?」

「いや、俺がここに住むことですが」

「ああ……そんなの勿論よ! 大体、一人で住むには広過ぎるしね、この部屋」


 苦笑しながら髪を揺らす玲華に、今更かと大樹も同じく苦笑を浮かべる。


「それについては人に因るかもしれませんが、広いのは確かですね。俺の住んでるアパートの部屋がいくつ入るかと考えてしまうほどですしね」

「あっはは……大樹くんのアパート見たことないから何とも言えないけど……でもね、広過ぎるって感じるようになったのは最近――ううん、広いと思ってたのは元からだけど、より強く思うようになったのは最近のことなのよ。何でかわかる?」

「……さあ、どうしてなんでしょう?」


 少し考えてもわからなかった大樹がそう返すと、玲華はクスリと微笑んでから茶目っ気を漂わせて大樹を指差した。


「それね――大樹くんのせいだから」


 その答えに、大樹はパチパチと目を瞬かせた。


「俺が――? ……何かしたでしょうか?」


 心当たりがまるで思いつかない大樹の様子に、玲華は仕方なさそうに苦笑してしみじみと言う。


「――大樹くんがいないから」

「は……?」


 思わぬ答えを耳にして、大樹が素っ頓狂な声を上げると玲華は困ったように眉を曲げた。


「大樹くんがいる時はいいのよ。体が大きいせいもあるのかしらね、存在感あるし、何より楽しいし」

「……」


 何となく察し始めた大樹は黙って続きに耳を傾ける。


「――でもね、前も、その前も、休みの日に来た大樹くんが帰る時に下で見送ってから、この部屋に戻ると、すごくガランって言うか……広く静かに感じるようになったのよね」

「……」

「こんなにこの部屋広かったっけ? こんなに静かだっけ? そう考えてしまって……そしたら、すごく寂しさが降ってくるように感じちゃって……」


 そこまで言ってしんみりとしかけた玲華がハッとして顔を上げて、慌てたように微笑む。


「ご、ごめんね? これじゃ、なんか大樹くん責めてるみたいね。あはは――」


 誤魔化すように明るく笑う玲華に、大樹は視線を逸らしながら頬を掻いた。


「先週――俺が忙しかったせいで会えませんでしたね」

「え? あ、うん、そうだったわね――?」


 何のことかと首を傾げる玲華に、大樹は恥ずかしさから頬が熱くなるのを自覚しながら言った。


「その――まあ、何ですか……俺も玲華さんに会えなかったのが、その、まあ……」

「あ……う、うん。先週は、私も――うん……」


 決定的な一言がお互いに欠けているがそこは言うまでもないという雰囲気か、また他人が見たら「爆発しろ」と言わざるを得ない空気を漂わせ、チラチラ視線を送っては、目が合うと慌てて逸らしたり、伏せたりと――突っ込み役がいないせいか、何とも言えない空間を形成してしまう二人であった。


 一分ほどか、二人からしたらもっと長い時間が経ったように感じた頃、玲華が改めるように「ゴホンッ」と咳払いをして口火を切る。


「――そ、その、だからね? 大樹くんがここに住んでくれると、私としてはす――っごく嬉しいかな、って……」


 それを聞いて、大樹はそう言えばそういう話をしていたのだったと思い出して、相槌を打つ。


「ああ、はい――まあ、その……俺としても、毎日玲華さんと顔を合わせられるようになるのは、その――活力になるといいますか……いえ、嬉しい――ですね。そして楽しくなる、と思います」


 率直に言い直すと、玲華はパアッと顔を輝かせる。


「う、うん――! そうね、楽しくなりそうよね!」


 くすぐったいものを感じながら大樹は苦笑を浮かべて頷く。


「ええ……あ、いや、でも――」

「え、な、何……?」


 途端、不安そうになる玲華に、大樹は頭を掻く。


「いや、一緒に住んだとしても、俺、朝は早いですし、帰りは遅いしで割とすれ違いになりそうな気がしまして……」

「ああ……うん、でもそれは仕方ないわね。それでも一切顔を合わせないこともないでしょ! それに遅いって言っても終電には帰るんでしょ?」

「ええ、それまでには帰るようにしてます。なので、風呂の用意をしてくれるのは嬉しいんですが、疲れてたら俺を待たずに寝てくれてていいですよ」

「うーん……別に――ううん、わかった。そうさせてもらうわね」


 気を使わせまいと言い直したのを察した大樹は、これ以上は野暮かと頷いた。


「なので、暫くは殆ど寝に帰るだけのような生活になるかと思います」

「まあ、仕方ないか……でも、それだと尚更家賃が勿体ないとこだったじゃない」

「……はは、確かにそうですね」


 これに関しては反論の余地が無かった大樹は苦笑すると、続けて言った。


「だから、まあ、一緒に住んでも暫くの間はあまり構えないと思いますが大丈夫ですか」

「ちょ、ちょっと何なのよ、その言い方は!? 子供じゃないんだから、そんなので拗ねないわよ!?」


 不本意そうな顔でプンスカする玲華に、大樹は苦笑を押し殺して頷いた。


「それと、そう顔を合わせる時間が少ないとは言え――」

「もう、何なのよ?」


 少しムクれ気味の玲華に、これはと思うことを言った。


「俺だって若いんですから、我慢が切れて襲いかかってしまうかもしれませんよ」

「わかってるわよ――! ……え?」


 勢いで頷いてから「今なんて?」と顔に書いてある玲華に対し、大樹は徐に頷いた。


「その言や良し――では来週からよろしくお願いします」


 そして大樹は座ったまま深々と頭を下げた。


「ちょ、ちょっと待って――!?」


 慌てふためく玲華に、大樹は首を傾げる。


「そ、そのワザとらしいすっとぼけた顔をやめなさい!!」

「そんなこと言われましても……」

「そ、その顔やめい――!!」


 慌て過ぎたせいか、変な口調になった玲華に、大樹は噴き出しそうになったのをなんとか我慢した。


「はあ、まったく……何ですか?」


 ワザとらしくため息を吐いて大樹が尋ねると、玲華が顔を赤くしてまごついた。


「さ、さっきのことだけど……」

「さっきのことが――何か?」


 それがどうしたのかと無駄に堂々とする大樹に、玲華はうっと怯む。


「だ、だから、さっき大樹くんが、私に――」

「はい、何でしょう」

「うう……わ、私のこと、その――」

「はい」

「う、うう……」


 見る見る内に沸騰するように顔を赤くしていく玲華。

 そこが大樹の我慢の限界だった。


「――っく、くくっ……」

「?……――!!」


 漏れ出した音に気づき顔を上げ、肩を小刻みに揺らす大樹を見て玲華はその大きな目を吊り上げた。


「だーいーきーくーん……?」


 バックに般若を浮かべたような玲華に、大樹は慌てて居住まいを正した。但し、笑いながらだ。


「くははっ――はは、いや、すみません。からかいが過ぎました……ははっ」

「……謝られてる気が全然しないのだけど……?」

「いや、ははっ――ふー……はい、申し訳ないです」

「む……また、からかってくれて……」

「いやあ、つい……」


 あまり悪びれずに大樹が言うと、玲華は更に目を吊り上げた。


「はは……まあ、でも、そうであって、そうでないような――ってところですが」

「……?」


 玲華が目を吊り上げたまま、眉を曲げて困惑を露わにする。


「いや、確かに、さっき言ったことは冗談です」


 そう言うと、玲華はしかめっ面を赤くしながら無言で頷いた。


「――冗談ではありますが、冗談で無くなる場合が無いとはちょっと言い切れないことも確かです」

「――!?」


 目を丸くする玲華に、大樹は苦笑を浮かべる。


「いや、当たり前でしょう、そんなの。玲華さんみたいに綺麗で可愛くてスタイルも良い人と一緒に住んで、何も思わずに――いえ、一切欲情せずにいられ続ける訳なんて無いでしょ。枯れてる年齢でもないんですから……特に憎からず想ってる人相手なら尚更でしょう」


 最後は小声になってしまったが、十分に聞こえているだろうそれと、一般的とも言える大樹の率直な意見を告げると、玲華は沸騰したみたいに顔を赤くして口をパクパクさせてから、絞り出すように口を動かした。


「――あ、う……で、でも、大樹くんは……」


 何となく言いたいことを察した大樹は、頷いて言った。


「ええ。確かに俺の都合で言うべき――申し込むべきことを言っていません。ですが――だと言うのに、同居を提案してきたのは玲華さんですよ? おかしくないかという俺の話を、そんなことないと否定し続けて」

「あ、う……」

「いや、勿論、俺だって我慢するつもりではありますよ。俺の都合で今の関係のままなんですから。待たせて申し訳ないと思ってます」


 心の底から述べると、玲華は躊躇いがちに頷いた。


「ですが、以前言ったように俺は色々と片付けてから玲華さんに話したいと言いました。それらが片付くのに――もう時期はほぼ確定したとは言え、俺の休養期間を含んだ場合……約三か月弱ですか。その期間、玲華さんと一緒に住んで我慢が続くのか……? と言わざるを得ません。いや、さっき言ったように勿論、我慢するつもりではありますが……だからと言って、出来るかどうかというのは、別問題だと思うんですよね」


 実際、昨日の大樹は理性が飛んで思わず玲華を抱きしめてしまったのだ。一緒に住んでる内に、思わずの行為が『抱きしめる』から『押し倒す』にならないとは言い切れないだろう。特に玲華は色々と魅力に溢れている上に、何より大樹にとって惚れている女性なのだから。

 首を振りつつ昨日からの己の所業を思い出しながら告げると、玲華は真っ赤になってから俯き、そして頭を抱え始めた。


(……以前からもしかしてとは思っていたが、玲華さんってやっぱり経験ないのか……?)


 確信し始めたのは昨日、今日と抱きしめた時の玲華の反応である。


(……初めて会った時の印象からじゃ、とても想像つかなかっただろうな……)


 そう考えると玲華のことをそれだけ知れたということなのだと実感出来て、少し感慨深くなった。


「……そ、そうよ。確かにそうだわ……ま、また麻里ちゃんに……」


 玲華がブツブツ唸っているが、整理がつくまで大樹は黙って待つことにする。

 最終的にジムに釣られたのは確かだが、押し切られ流されるようにペースに乗せられたことに対しての大樹の意趣返しみたいなものである。それに、大樹は我慢し切るつもりではあるが、この辺の覚悟一切無しに同居が始まるのは、いくらなんでもダメだろうというのが大樹の本音だ。

 なので、存分に悩んでもらうことにする。

 そんなつもりで傍観に徹していると――


「……でも、あー……うーん……うん……?……あれ?」


 パッと玲華が顔を上げる。

 何を思いついたのかと大樹が身構えていると、玲華は小首を傾げて言ったのである。


「別に――そんなに、問題ないんじゃないの……?」


 大樹はその言葉に目を剥きかけたが、「ゴホンッ」と咳払いをして口を開いた。


「――っ、ど、どうして、そのような結論に……?」

「え? だって……その――私としては、その、いつでも……」

「え」

「あ、違う! えっと、そうじゃなくて……その、何て言うか、私としては、えーっと……大樹くんからの話は、その――いつでもいいのよ?」

「? はあ……」


 この場合の『大樹からの話』とは、交際申し込みのことだろう。


「さっき言ってた期間の三か月ってのは、大樹くんの都合であって、身も蓋も無いことを言うと、私としてはいつでもいい訳で、寧ろウェルカム? だから、その、つまり……」

「……」


 何となく話が見えてきて、大樹は嫌な予感がしてきた。


「えーっと……つまり! そう! 私自身はもう、その話が来たと思って、この同居生活を始めたら、その、大樹くんの我慢が切れるってのは、ただ、そういう時が来たと思えばって……そしたら、別に問題無い――ような……」


 その言葉が頭に浸透するにつれて、大樹の口があんぐりと開いていく。

 そんな大樹の様子に構わず、玲華は続ける。


「――で、この場合の何が問題かって強いて挙げるとするなら、それは我慢出来なかった大樹くんの……えーっと、何だろ。プライド? みたいなものだけだし……うん、そうね。だから――そう! これは大樹くんの問題であって、私の問題じゃないわ!!」


 と、それはもう玲華は清々しい顔で言ったのである。


「……ば、馬鹿な……」


 大樹はそれだけ絞り出すのがやっとだった。


「あ、うん、その、大樹くんが色々ケジメ? つけて、話したいっていうのは勿論尊重したいけど……でも、大樹くんだって一緒に住むの同意したじゃない?」

「――っ、そ、それはそうですが……」


 そう、大樹は同意したのである。させられたのではない。自ら同意の声を上げたのだ。

 そこで幻聴か、大樹の耳に『攻守交替!』というアナウンスが聞こえ始めた。


「それに……うん、大樹くんの我慢が切れるっていうのは、それってつまり、それだけ私のこと――ってことでもあるし……そう考えると、嬉しい? かな……」


 チラと大樹を見てから恥ずかしそうに頬を染め、それでいて嬉しそうに玲華は視線を落とす。


「……っ、そ、それは確かにそうかもですが、ですが、それだけという訳でも――」


 恋愛感情とは別に、男には抗い難い性欲というものがあるのだと大樹は声を大にしたかった。


「……うん、そう、そうね」


 しかし、大樹の声など聞こえていない様子で、玲華は何やら呟いては頷いている。

 もう、嫌な予感しかしなかった。

 そして玲華は拳を力強く握って叫んだのである。


「そうよ、寧ろ大樹くんに手を出させたら私の勝ちってことじゃない――!」


 大樹の耳に今度は『玲華ポンコツが暴走を始めました』というアナウンスが流れたのであった。

 

 

 

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