第六十三話 大樹の渇望
素晴らしいことを言ったような、それでいて興奮も入り混じった顔で目をキラキラとさせている玲華に、大樹は唖然としたまま声を漏らした。
「……は?」
玲華が何をを言ったのかはわかるが、理解がまるで追いつかなかった。
「……は――?」
もう一度声を漏らした大樹に対し、玲華は興奮そのままに身を乗り出す。
「だから! 大樹くん、ここに住めばいいのよ! そしたら家賃浮くでしょ? あ、大樹くん、今住んでるとこ家賃いくら払ってるの?」
「ろ、六万ですが……」
この辺の割にかなり安かった物件だが、それでも六万するその家賃を、大樹は機械的に返した。
「そっか、じゃあ、会社を辞めるまでの間の二ヶ月近くで十二万浮くじゃない? 加えて、辞めてからの休養期間、ここにいれば家賃の心配はいらないわ。だから浮いた十二万でゆっくり休養すればいいし、それでも何か支払いがあったりして心許ないって言うなら、週一、二回のバイトで十分になるんじゃない? ね、色々解決するじゃない!」
素晴らしい提案でしょうと言わんばかりに、パンと柏手までしてニコニコとする玲華を目にしながら、大樹の頭はぎこちなく再起動を果たしてから、たっぷり三十秒ほど経ってからゆっくりと口を開いた。
「な――なる、ほど……それだと、確かに……色々解決し――ますね」
色々と言いたいことはあるが、提案された内容についてだけ(・・)考えると、確かに玲華の言う通りのような利点はある――そう、あるのだ。玲華の提案通りに大樹がここに住めば、家賃は浮き、大樹はバイトの日数を最低限に抑えられるだろうし、玲華も安心出来る。それは確かだろう……。
「でしょう!?」
「ええ……」
頭を抱えるように額に手を当てた大樹は唸るように続ける。
「ですが――……ええと、ちょっと待って下さい?」
「? ええ?」
「そうですね。とりあえず……もう一度、言ってもらっても――?」
「? 何をかしら?」
「先ほどの提案? みたいなの、ですか――」
「? ああ――」
一瞬、何のことかと小首を傾げた玲華であったが、すぐ思い至ったようでニンマリとして言った。
「大樹くん、ここに住めばいいのよ――!!」
「……」
再びいいこと言ったように得意げに笑む玲華を見ながら大樹は内心で呟いた。
(……聞き間違いじゃ、なかったのか……)
大樹は瞼を強く閉じて、コンコンと己の額を指で叩いた。
「ええと……玲華さん?」
「うん?」
「その――まず、前提としてですね……」
「うん」
「俺達、まだ、その――付き合ってないのですが……?」
「うん? ええ、そうね」
それがどうしたと言いたげな玲華に、大樹は悩んでしまった。
(……? あれ、俺がおかしいのか……?)
「えっと……一応聞きますが、俺がここに住むというのは、玲華さんとここで一緒に過ごす、ということですよね? 玲華さんは別のとこに住んで、俺だけここに住むという訳じゃないですよね?」
「え!? そんな訳――」
「あ、いえ、いいです。一応の確認ですので」
玲華の表情から自分の質問が玲華にとって的外れな考えだということがわかった。わかったが――大樹は余計にわからなくなった。
(付き合ってないにも関わらず、一緒に住むのは普通のことだったか……? いやいや、そんな訳ねえだろ――そういえば、工藤が最近のアニメでは同棲のような同居する高校生カップルの話が流行っているとか言っていたような……いや、俺達は高校生でも無いし――いかん、落ち着け)
大樹は頭を振って、混迷を深めていく思考を無理矢理落ち着かせた。
「?」
そんな大樹を見て不思議そうにする玲華に、大樹は言ってみる。
「あの、玲華さん――」
「何かしら?」
「その――付き合ってもない、夫婦でもない男女が同じ屋根の下で住むというのは、些か話がおかしい気がするのですが……」
「そうかしら――?」
心底不思議そうな玲華に、大樹はまたも自分の一般常識がズレてるのかと悩みそうになる。が、大樹はなんとかそれを顔に出さず、強く頷いて見せる。
「ええ、おかしいと思います」
玲華の思考が正常に働くことを祈りながら大樹は目でも強く訴える。が――
「そう……? そんなことないと思うけど」
調子を一切崩さない玲華に、大樹は動揺する。
「な、何故そんな……」
「だって、一緒に住むっていうのは、つまるところ、毎日大樹くんがここに泊まるってことよね?」
「? それはそうですね……?」
何を言うつもりなのかと首を捻りつつ大樹は頷いた。
「じゃあ、おかしくないじゃない。昨日も、二週間前も大樹くん泊まったんだし――ね?」
可愛らしく小首を傾げる玲華のその極端な論理に、大樹は呆気にとられた。
「は? いや、その、たまの一泊と住むのとはまた違うかと――」
「どうして? 泊まるっていうのが毎日になるだけじゃない」
「え、いや、だから――」
「何かおかしい? 私の家に泊まるの大樹くん、嫌な訳ない――のよね?」
最後に少し不安そうな顔を見せられた大樹としては、首を横に振ることしか出来ない。
「でしょ? それに次の休みでまた会えるってなったら、また前日に泊まりに来てって、私言うつもりだったけど――大樹くん、断ったりする?」
「……いえ、そんなことは――」
少し考えてから大樹は答えた。大樹としても昨日からの宿泊を諾と答えたのは、早く会いたかったのと、一緒にいる時間が増えるから、というのが理由だったのだから。次の休みも誘われたら大樹は断らないだろう。
すると玲華は嬉しそうに、再びパンと手を叩いた。
「でしょ? つまり大樹くんは私の家に泊まるのが嫌じゃないんだから、それが毎日になっても嫌じゃないってことでしょ?」
また極端な意見を聞いて、大樹は呆気にとられかけた。
「いや、だから、その、泊まるのと住むのとでは根本的に――」
「ええー? 何か違う? 大樹くん、私の家に泊まるの嫌なの……?」
「いや、そんなことは――」
「じゃあ、いいじゃない」
曇りのない目でニコリと言われて、大樹はその勢いに流され危うく頷きかけた。
「いや、だから――」
これでは堂々巡りになる、と思いかけたところで大樹は違和感を覚えた。
(おかしい、妙に強い……)
今の玲華は社長オーラなど出していない、つまりポンコツ寄りの玲華だ。実際言ってることは筋が通っているようでいて、滅茶苦茶なのだから。
社長モードの玲華と弁論したら大樹は勝てる気がしないが、ポンコツ寄りの玲華であれば、今まで大樹が大抵言い負かしてはおちょくっていたのだ。だが、今の玲華はポンコツの雰囲気なのに妙に強い。まるで――
(そう、まるで――後ろで誰かが玲華さんを操っているような――)
ふと唐突に、大樹はポンコツ玲華の人形を、その頭上で誰かがマリオネットの如く操って不敵に笑っている姿を幻視してしまった。
(……何だ、今のは……?)
ポカンとしていると、玲華が不安そうに拗ねたように聞いてきた。
「ねえ、大樹くんは、私と一緒に住むの嫌なの……?」
呆気にとられていた大樹は率直に答えてしまった。
「え? いえ、そういう訳ではありませんが……」
言ってからしまったと思った時には玲華は満面の笑みを浮かべて、先ほどまで以上に強く手をパンと叩いた。
「じゃあ、決まりね!」
「あ、いや、ちょっと――」
「何? 嫌じゃないんでしょ?」
「ど、どちらかと言えばそうですが、ですが――」
「なら、いいじゃない。決まりね。いつにする? 早い方がいいわよね。次の休みの日に引っ越し終わらせちゃおっか」
「は? いや、次の休みの日って――」
「そう? 次の家賃の支払いが発生するまでにって考えたら早ければ早い方がいいでしょ? 今月分の支払いっていつになるの?」
「それは、再来週ですが――」
「じゃあ、来週中に引っ越しが終われば問題無いのかしらね? あ、荷物の梱包とか考えなくてもいいわよ。大樹くんそんな時間無いだろうし。最近の引越し屋さんは大して準備せずにやってくれるし――」
テキパキと話を進める玲華に、大樹は珍しくも目を白黒させている。
「え、いや、そんな引っ越し屋に頼むようなお金は――」
「もう、そんな野暮なこと言わないでよ。私の家への引っ越しなんだから私が出すわ」
妙な理屈に押されて、大樹が否定する間もなく矢継ぎ早に玲華は続ける。
「それで、こっちに来たら来たらで、いらないものも出てくるでしょうから、大樹くん、仕事で忙しい中に悪いのだけど、処分してもらいたいものだけ、それとわかるように札とか貼ってもらえるかしら? こっちにもあって、二つもいらないようなやつとか、いらなくなりそうな家具とか」
「は、はあ……」
「来週って大樹くん、休めそう?」
「え、ええ、恐らく日曜だけは――」
「そっか。んー……ねえ、土曜の内に私が引っ越し終わらせておくから合鍵預けてもらっていい? そしたら、日曜はまだゆっくり出来るでしょ?」
「は、え?」
「だから、合鍵。大樹くが土曜出勤してる間に、引越し屋さんに荷物運んでもらうわ。ついでにアパートの契約も解約しておくわ――だから、後でその際に関しての委任状のサインもらうわね。あ――合鍵、いつ受け取るか考えた方がいいかしらね。今持ってたりなんてしないわよね?」
「え、ええ。合鍵を持ち歩くなんてのは流石に――」
「んー……どうしようかしら……あ、今日大樹くんが帰る時に私も着いて行けばいっか。そしたらアパートの場所もわかるし、一石二鳥かしらね。ね?」
いい考えでしょ? と言わんばかりに微笑んでくる玲華に、大樹は相槌を打ちかけ――
「は――いやいや、ちょっと待ってください!?」
またも危うく流されるように頷きかけた大樹はハッとした。
「何? どうしたの?」
一体何なのかと玲華は不思議そうに目をパチパチとさせている。
「いえ、だから一緒に住むのはおかしいのでは――ということなんですが」
「え、何で? さっきいいって言ったじゃない?」
「……? 言いましたか?」
「言ったわよー」
心外そうな玲華に、大樹は文字通り頭を抱えた。
「もうー、何が不満なの?」
仕方なさそうな玲華の声に、大樹は段々と自分が間違っているのかと思えてきた。
「えーっとですね……」
「うん、何?」
「っ…………」
「?」
加えて大樹はどう否定したらいいのかわからなくなってきた。
確かに玲華の言う通りではあるのだ。金銭面で大いに助けられる上に、無理にバイトをする必要も無くなるだろう。それによって、大樹はしっかり休養をとれて、玲華も安心出来る。
(――だが、何と言っても一緒に住めば毎日顔を合わせられる……)
それはハッキリ言って甘美過ぎる誘惑であった。
惚れている女性だからというのを別にしても玲華と一緒にいるのは楽しいのだ。
だが、自分達はまだ付き合っていないのだから、一緒に住むなんてことは――と、今度は大樹の思考が堂々巡りを始めたところで、玲華が思いついたように言った。
「んー……あ、じゃあね、一緒に住んだら良い点をもう少し挙げましょうか」
「……?」
大樹が胡乱な目を向けると玲華はニコニコしながら指折り数えていく。
「まず――大樹くんがここに住んだらうちの露天風呂使い放題!」
「っ――!」
大樹の目が大きく見開く。
「今の会社いる間は忙しくて疲れが溜まるし帰りも遅いでしょう? だから、大サービス! 大樹くんが帰ってくる時間に合わせて、お風呂の用意をしてあげましょう!……それだけでも、疲労は減るでしょ?」
大樹の喉がゴクリと鳴る。
「……減りますね、確実に」
入浴での疲労軽減はハッキリ言ってバカにならないことを大樹は体感として知っている。それだけでなく、入浴後の睡眠は深くなるからより一層になるのだ。
「それと――洗濯も任せてくれていいわ!」
「……っそ、それは普通に助かりますね……」
「でしょー?」
ニコニコと玲華は更に続ける。
「後は……食事は、まあ――ゴホンッ、アレだけど……ご飯を炊くぐらいならまっかせなさい!」
「食事については、全く期待は――ああ、いえ、飯炊きだけでもしてくれるのは確かに助かります」
大樹の言葉で途中ムスッとした玲華だが、気を取り直すように咳払いをする。
「ゴホンッ――それと……ああ、そうだ。このマンションの住人用の、あそこ使えるようになるわよ?」
「……住人用の……?」
何があったかと大樹が首を傾げると、玲華はニシシと笑って告げる。
「ほら、初めてここに来た帰りに説明したじゃない? このマンション住居者用の大浴場に、サウナに――」
そこまで聞いて思い出した大樹は目を見開き、身を乗り出した。
「――ジムが、ね。それも使い放題よ。大樹くん確か――」
長時間の残業、休日出勤、給与の減少、以上の理由により泣く泣くジムを退会し、ジム欠乏症に陥っていた大樹は、玲華が話している途中で反射的に言ってしまったのである。
「ここに住みます」
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