第五十八話 話があります

 

 

 

「んん……朝か……」


 目が覚めて見慣れぬ光景に戸惑いかけたが、それもすぐ治ると大樹は体を起こしてぐっと体を伸ばした。

 そうして眠気がスッキリし始めると同時に、大樹は自分の体――正確には浴衣から慣れない匂いを感じた。


「……?」


右手の袖口を鼻に近づけてみると、どこかホッとするような、それでいて胸が騒ぐような良い匂いがした。反対に左手の袖口を匂ってみると、そうでもない。


「……? いや、洗剤の匂い、か」


 ここは玲華の家でこの浴衣は玲華が愛用しているだろう洗剤で洗濯されたものだ。ならば、自分が嗅ぎ慣れず、そして良い匂いがするのも当たり前かと思い直した。

 匂いが偏っているような気がするのは、寝ている間に汗が集中して匂いが薄れてしまっただけなのだろう。加えて、昨夜に気付かなかったのは、着替えると同時に眠りに落ちたためだろう。


「ふむ……いい匂いだな、何の洗剤なのか教えてもらうか……? いや、やめとくか、きっと高いやつだろう」


 大樹はため息を吐いて断念した。




 リビングに入ると、まっすぐ目に入ったのは、予想通り期待通りに玲華であった。が――


「お……は……よ、う、大、樹くん」


 少し苦しそうに声を紡いでいるのは、玲華がヨガマットらしきものを敷いて、その上でヨガっぽいストレッチをしていたからだ。

 手をついて上半身を思いっきり逸らしている。


(……けっこう柔らかいんだな……)


 なかなか堂に入っている。普段からやっているのだろう。

 問題はそれよりも、玲華の格好である。タンクトップにレギンスっぽい薄手のパンツと、玲華のスタイルの良さがこれでもかとわかる格好だった。

 特に今は上半身を思いっきり逸らしているため、ただでさえ大きな胸が零れんばかりに強調されてしまっていて、非常に眼福――いや、目のやりどころに困るものだった。


「……ふうー……おはよう、大樹くん」


 やっていたポーズをやめて、座り直した玲華がニコッと再び挨拶をしてきて、大樹は我に返った。


「お、おはようございます……」

「あはは、ごめんね。こんなところ見せちゃって」

「いえ、とんでもない。日々のトレーニングは大事です」


 大樹は真顔で言った。

 そう、トレーニングは大事である。

 大樹は日々錆びついていく己の筋肉のことを嘆いて、重苦しいため息を吐いた。


「あ、あはは……あ、ちょうどよかった。押してくれない?」


 長座で座り直した玲華は、自分の背中を指差した。


「構いませんよ」


 快諾して大樹は玲華の背後に回ると、背に手をつけてゆっくり押した。


「んんーっ……」


 少し色っぽい声を出しながら、そして予想した通りに、抵抗なくググッと玲華の顔が膝あたりにペタッとつく。それも背が曲がる形でなく、ちゃんと腰から倒れている。


(……柔らかいな)


 大樹は二重の意味を持って内心で呟いた。

 柔軟的な意味で一つ、もう一つは背中自体が柔らかいということだ。適度にムッチリしているというべきか。

 そこで大樹は昨日の玲華の抱き心地を思い出して、少し顔を赤くしてしまった。玲華が顔を伏せているために、見られずに済んで幸いであった。


「んにい…………も、もう、いい、わよ、大樹くん」


 なかなかに長い時間が経った頃に玲華がそう言ったので、大樹は押すのをやめる。


「ふうー……」


 体を起こした玲華は汗を拭うと、ニパッと笑って「ありがとう」と告げてきた。


「いえ……毎朝やってるんですか?」


 そう尋ねると、もう終わりなのか、玲華が立ち上がろうとしたので大樹は手をとって助けてやる。


「ありがと。んー……平日はやってない時もあるかな。土日はなるべく毎週やるようにしてるわ」

「なるほど。立派なことです」

「あっはは。でも今日は特に長めにやってたけどね」


 それが決して大げさに言ってることでないのは、玲華の肌に光る汗が物語っていた。

 そして、今日長めにやっていた理由は何となく察せた。恐らくは昨日食べ過ぎた夜食のせいだろう。


「ふーっ、うん、いい汗かいた。じゃあ、シャワーしよかな。大樹くんはお風呂入ってきたら? 昨日入らずに寝たから汗気持ち悪いでしょ? 露天風呂用意してるわよ?」


 首にかけてたタオルで汗を拭う玲華の言葉に、大樹は目を丸くした。


「え、この朝も用意してくれたんですか?」

「うん。そう言っても、昨日入ってないから洗う手間もなかったし、お湯入れ替えただけよ」

「ああ……いや、ありがとうございます」


 ありがたさから大樹が思わず頭を下げると、玲華は苦笑して手を振る。


「もう、そんなのいいから。さ、行きましょう?」


 頷いて共に浴室へ向かおうとしたところで、玲華が突然思い出したように立ち止まった。


「あ」

「? どうしました?」


 大樹も一緒に立ち止まると、玲華は悪戯を思いついたような顔になると大樹を見上げてからニコッとして――


「えい」


 そんなかけ声と共に、正面から大樹に抱きついてきた。


「――っ!? ちょ、ちょっと玲華さん――!?」

「んー……」


 大樹の驚き慌てる声など聞こえないとばかりに、玲華は両手をしっかり大樹の背に回してガッチリ掴み、そして大樹の厚い胸板に頬擦りした。


「れ、玲華、さん――?」


 大樹が混乱しながら声を出すと、玲華はスーッと息を吸い込んでから、体を離した。

 そうして現れた玲華の頬は赤く染まって、目は少しトロンとしていた。が、すぐに首を振って、目が正気に戻る。


「――ふ、ふ、ふっふーん、き、昨日の仕返しだもんね」


 大樹を見上げながら、引きつりそうな頬でぎこちなく言ってきた。


「!……そ、そうですか……」


 そういうことかと腑に落ちた大樹は肩を落として脱力した。寝起き早々の出来事だったので、えらく疲労を覚えた。


「ほら! やっぱりいきなり抱きつかれたら驚くでしょ!? 私の驚きがわかったか!」


 我が意を得たりとばかりに、ふんすと腕を組んで玲華がそんなことを言うので、大樹は顔を上げると、玲華をジッと見下ろし――


「へ……ふきゃあああああ!?」


 仕返しとして無言で思いっきり抱きしめてやった。







「はあああああ……」


 湯に浸かった大樹から、何かが抜けるような声が漏れていく。

 朝に入る露天風呂は最高である。朝というにはもう昼に近い時間であるが、陽のある内の露天風呂は夜に入る時とはまた違う趣きというか、夜とどちらが上という問題ではなく、一味違うよに思える。

 玲華からは、自分はシャワーの後にドライヤーやら化粧やらがあるから、ゆっくり浸かってくれていいとのことで、大樹はその言葉に甘えて朝(昼?)風呂をゆっくり堪能している。

 昨日からの睡眠で睡眠不足は解消され、残っていた疲労はここで出来得る限り抜けてくれと言わんばかりに、大樹は体を大の字にして弛緩させている。


「しかし……いかんな、色々と我慢がきかなくなってるような気がする」


 正式に申し込むまでは、迂闊なことは避けようと思っている大樹である。それが昨日から二回、思わず玲華を抱きしめてしまったのだ。


「いや……両方とも、玲華さんが悪い。うむ、間違いない」


 先の二回目は大樹自身もどうかとういところもあるが、やはり玲華が魅力的過ぎるせいだろうと、大樹は思い直した。

 ちなみに先ほど抱きしめた後の玲華は怒らなかった。機嫌を損なっているようにも見えなかった。目を泳がせ少しフラついた足取りで、大樹への文句もなくシャワーに向かっていったので、少し拍子抜けした大樹であった。


「もう、気つけねえとな……」


 玲華は見たところ、驚きはしたが嫌がってはいなかった。だからと言って、まだそういう関係になっていない内は避けるべきだろうと大樹は反省する。


「はーあー……」


 そうして出た吐息が嘆息なのか、風呂に入っている時特有のアレなのか、大樹自身にも判断がつかなかった。







「あ、おかえりー。ちょうどコーヒー入ったとこだけど、飲む?」


 リビングに戻ると、言葉通りに淹れたばかりだろうコーヒーポットを手に持った玲華が聞いてきた。


「ああ、いただきます」

「はーい」


 シャワーをして落ち着いたのだろうか、その前のような戸惑いはもう見えず、いつも通りの玲華で、大樹は思わずホッとしてしまった。

 椅子に座ると、両手にカップを持った玲華も対面に腰掛けて大樹に片方を差し出してくる。


「はい」

「ありがとうございます――いただきます」


 そして口につけると、ああ二週間ぶりだなと懐かしく思ったのも束の間。


「あつい……」


 二重の意味で大樹は思わずそう漏らした。

 何せ大樹は風呂上がりで体は火照っている。そんな状態で最初の一口に熱々のホットコーヒーなど、なかなかに苦しいものがある。

 そこで大樹は違和感を覚えた。いつもの玲華なら風呂上がりには冷たいものを出してくれるのにと、不思議に思って目を上げると――


「ぷっ――くくっ」


 玲華はこちらを見て肩を震わせていた。


「玲華さん……」


 そうか、これはワザとなのかと大樹は悟り、ジトっと玲華を見つめた。


「あっはははは! ご、ごめんごめん! 熱いよね?」

「そりゃ、そうでしょうが」

「あははは!」


 腹を抱えて一頻り笑ってから玲華は説明し始めた。


「はー、笑った。うん、これはさっきの仕返しだから」

「やっぱりですか……」

「昨日から大樹くんに驚かされてばかりだしね、いいでしょ、これぐらい?」


 最後にウィンクまでされて、大樹は両手を上げて降参の意を示した。


「ふっ、ふふっ――うん、ごめんね。コーヒは飲みたくなってから飲めばいいから。冷たいの持ってきてあげる、何がいい? やっぱりビール?」


 そう聞かれて大樹は反射的にビールと答えかけたが、今日は真面目な話があるのを思い出して踏み止まる。


「いえ――冷えた水かお茶でもいただけたら」


 答えると、玲華が意外そうに目を瞬かせた。


「あれ? 珍しいわね、ここで大樹くんがビールを選ばないなんて――もしかして、まだ疲れてる?」


 そして心配そうに窺ってくる玲華に、大樹は苦笑する。


「いや、それはもう大丈夫ですから」

「そう――? お茶でいいの?」

「ええ」

「はーい」


 どこか腑に落ちないように小首を傾げている玲華に、大樹は再び苦笑を浮かべる。


(すっかり飲兵衛に思われてんな……)


 だが、それは否定できないことでもあったのだ。




「――ふー……、それで玲華さん、今日は話したいことがあるんですが……」


 冷えた麦茶を飲み干し、人心地のついた大樹はグラスをテーブルに置いて早速切り出した。


「……話? 私に?」


 キョトンとする玲華に、大樹は真剣な顔で頷いた。


「ええ、玲華さんに、です」

「?…………!」


 何の話だろうと玲華が不思議そうになったが、すぐに何かを察したようにハッとすると、じんわりといったように頬が染まっていき、口をパクパクとさせる。


「え? 今……?」


 小さくそれだけ呟くと、緊張したように座り直し、残像が出そうな勢いでパパっと髪を整えた。


「は、はい……な、何かしら……?」


 未だ頬は染まったままで、緊張気味に俯きがちになって、そして何か期待するようにチラチラと大樹を見上げながら問い返す玲華。


「……えーっと……」


 大樹は何か盛大な誤解が起こっているような気がした。

 なので、「ゴホンッ」と咳払いをして、こう言い直した。


「『SMARK'S SKRIMS』の社長(・・)である玲華さんに、話したいことがあります」

「…………へ……?」


 大樹はこの時、鳩が豆鉄砲を食らったらこんな顔をするんじゃないかと思った。

 そして、たっぷり30秒ほど経ってから、玲華は再起動した。


「へ、あ……あ、そう。あ、はい、えっと……社長である私に話……?」

「そうです」


 真面目な顔で頷いて返すと、玲華の顔が徐々に沸騰したように赤くなっていく。


「あ、そ、そう……あ、はい。わかったわ、ちょ、ちょっと待ってくれる……?」


 そう言って玲華は大樹から目を逸らして、パタパタと自分を扇いでクールダウンを始めた。

 そしてコーヒーをググッと飲むと、すーはー、と深呼吸をしてからキリッと大樹を見つめた。


「ええと……『SMARK'S SKRIMS』の社長としての私に話したいことがあるのね……?」


 その瞬間、大樹は玲華から厚みのある『威』を感じさせられ、思わず唸った。

 玲華がポンコツの皮を脱いで社長へ――いや、ポンコツの奥底にある社長の顔を出したためだろう。


(ここでたまに見たことあるが……やっぱり社長なんだな)


 そう思ってしまう辺り、大樹の中で玲華=ポンコツの図式が成り立っているのがよくわかる。


「……はい」


 気合いを入れ直して大樹が頷き返すと、玲華はゆっくした動作で片手を頬に当て小首を傾げた。


「何かしら……?」


 そんな特になんてない仕草なのに、普段とは違う『品』みたいなのを感じさせられて、玲華の一挙手一投足に注目してしまいそうになる。


 そんな――紛れも無い、カリスマがそこにはあった。


 大樹はツバを飲み込んでから言った。


「はい、話――というより、お願いしたいこと、というのが正しいかもしれませんが……」


 そこで一度区切ると、玲華は再度首を傾げる。


「ん? お願い……?」


 おうむ返しに呟き玲華は少し考えたように視線を彷徨わせたが、すぐ大樹と目を合わせ、不敵にニヤと笑ったのである。


「そう……じゃあ、そういうことなら私からも大樹くんに話したいことがある、かな」


 見透かしたように言われて、大樹は確信を深めた。


(やはりか……)


 玲華は大樹のこの相談を待ってくれていたのだ。


(だが、玲華さんからも話……? 何だ……?)


 大樹は疑問に思いながら、口を開く。


「はあ、俺に話……ですか?」

「ええ、そうね。けど、その話はゆっくりしたいから、その前に――」


 そこで区切ると、首を傾げる大樹の前で、キリッとしていた玲華の顔がふにゃりと崩れた。


「大樹くん、私お腹空いたー!」


 なるほど、時計を見ればもうすぐで正午。

 そして大樹が猛烈に脱力したのは言うまでもないことだ。

 

 

 

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