第五十三話 整理

 

 

 

「そうか……君もついにあの会社を辞めることにしたのか……」

「はい。まだいつかはハッキリとはわかりませんが……栗林さんにはお世話になったので、こうしてご挨拶に伺わせていただきました」


 とある喫茶店で大樹は、自分より一回り以上は年上の男性に頭を下げた。


「ふっ、やめないか、メールでも電話でもいいようなことをわざわざ……いや、そもそも退職するからと営業でもない君が、取引先とはいえこうやって挨拶をする義務も無いと思うがね、はっはっは……」


 考え直してから、おかしそうに笑う栗林に、大樹は苦笑する。


「いえ、栗林さんとは打ち合わせや、その後の飲み会でも散々お世話になりましたし」

「それこそ、わざわざ挨拶するまでもないことだよ、柳くん。何せ君と飲みたくて、打ち合わせの数を多くしたことだってあるのだから」

「ああ、道理で打ち合わせのペースが早いなと思いましたよ――まったく、敵いませんね、栗林さんには」


 腑に落ちた大樹が苦笑を深めると、栗林は一本取ったような顔で更に笑い声を上げた。


「はっはっは――で、どうだ、この後、久しぶりに飲みに行くかね? 勿論、奢らせてもらうが」

「はは……大変ありがたいのですが、この後まだ予定がありまして……申し訳ありません」


 大樹が心から残念に思いながら軽く頭を下げると、栗林はがっくりと項垂れた。


「やはりそうか……残念だが、こんな時間だものな。もしかして、この後も私にしたように他の取引先の方へ挨拶に向かうのかね?」

「はは、実はそうです。あと二人ほど約束させてもらっていて」

「まったく……本当に義理堅い男だな、君は」


 今度は栗林が苦笑を浮かべる。


「ふむ、まあ……君の用向きはわかった。あの会社に頼んでも君に仕事を頼むことはもう出来ないということだな? 私が知らずに頼まない内にと、そう話しに来た訳だな?」

「ええ……勿論、俺以外の社員に任せてもいいと言うのなら、俺のことなど気にせず、それは栗林さんのご自由になさってください」

「ふっ……君のいないあの会社に仕事を頼むなど、もうある訳もない。義理堅い君に辞める決断をさせるとは……まったく呆れた会社だ、本当に……」


 その痛烈な物言いには大樹への最大級の賛辞が含まれており、それを察せない訳でもない大樹は無言で頭を下げた。


「――それで? 今の会社を辞めてからどうするかはもう決めてるのかね?」

「いえ。まだ何も決まっていません」

「ふむ……まあ、君のことだから何かしら考えがあるのだろうが……」

「はは……」


 特に大した考えは無いとは何となく言えず、大樹は苦笑混じりに愛想笑いを浮かべた。


「ま、ともあれ、君が今の会社を辞めても私は付き合いを続けたいと思っているのでな。転職したのなら、また連絡をもらえると嬉しいかな。会社によっては、また君と仕事が出来るかもしれんしな。そうでなくとも――偶に飲みに付き合ってくれよ?」


 手で酒を飲む仕草をしながら茶目っ気をこめて笑う栗林に、大樹は頭を下げる。


「はい、是非」

「それで、まあ、仮にだが、仕事に困ったのならいつでも言ってくれ。私に採用の権限は無いが、人事課に口をきくことぐらいはいつでも出来るのでな。君なら大歓迎だ」

「あ――ありがとうございます」


 今日そう言ってくれたのは栗林だけでは無い。

 挨拶しに行った人、皆同じようなことを言ってくれるのだ。


(頭が下がる思いというのは……こういうことを言うのだろうな……)


 大樹は自然と傾く頭を意識しつつ、しみじみと思った。




「14時か……」


 栗林と別れた大樹は、次の待ち合わせ場所へ向かいながらスマホで時間を確認して呟いた。

 日曜の今日は、仕事を通して大樹の中でも特にお世話になった人への挨拶回りをしていたのである。

 先に栗林が言ったように辞める旨を伝えるだけなら、メールや電話でよいのだろう。大樹は営業では無いのだから。

 だが、それでは何となく気が済まなかった大樹である。

 特に、大樹に仕事を頼みたいからという理由で、付き合いのある人なんかには、もう今の会社ではこれ以上、自分は仕事を受けられないことを伝えなくてはならない。

 そういった人達には直接話したいと大樹は思ったために、休日の日曜を利用して、相手にとっても貴重な休日だというのに、嫌な顔をせず時間をとってくれたため、こうやって足を運んでいるのだ。


 今大樹は五味からの仕事を制限しているが、受けているのは大樹にとって付き合いの深い会社に限定している。それは今日挨拶したような人達に迷惑をかけたくなかったためだ。

 なので今やっている仕事が片付けば、大樹が辞めることを知っている、馴染み深い所からはもう仕事は来なくなるため、完全に会社に心残りは無くなる。

 後は後輩達次第という訳だ。

 そのために大樹は玲華と会うのをぐっと我慢して、今日という日をこのように使っている訳である。


「……会いてえなあ……」


 会社で仕事をしていれば然程気にならなかっただろうが、日曜に私服を着て動いていると、どうにも玲華の顔を見たくなってしまう。だけでなく、玲華の楽しげに語りかける声が聴きたい。あのポンコツぶりに癒されたい。嬉しそうに笑う顔が見たい。大樹の作ったものを幸せそうに食べている姿を見たい……と、次々と欲求が沸き出る。

 それだけ玲華にまいってしまっていることに気づかされて、大樹は苦笑した。

 スマホを操作して、玲華の写真を表示させると、その美しい笑顔をたっぷり眺めてからスマホをポケットにしまうと、大樹は自分の両頬を叩いて気合を入れた。


「――っし、後二人だ。最後はそのまま飲みに誘われるか? 芦田さん酒強えからな。ほどほどにしてもらおう」


 独り言ちると、次の週末は絶対玲華に会おうと改めて決心した大樹であった。




◇◆◇◆◇◆◇




「はー……」


 大樹は首をコキコキと鳴らし、重苦しいため息を吐きながら社長室から戻ってきた。


「あー……大丈夫っすか、先輩」


 顔を上げた工藤が、苦笑と共に聞いてくる。


「うん? ああ、まあな。相変わらず、無駄に偉ぶりながらネチネチ言われただけだ」

「……簡単にその光景を想像できるのがまた」


 苦笑を深める工藤の隣で、夏木が顔を上げる。


「やっぱり、出張の件ですか、先輩ー?」

「ああ。お前は後輩に体調管理の大事さも教えれてないのかと言われたな。後は――聞き流して覚えとらんな」

「あっはは、三十分はいたのにそれだけって」


 噴き出す夏木の斜向かいで、綾瀬が申し訳無さそうに頭を下げる。


「すみません、先輩。私のせいで……」

「もういいと言っただろう、綾瀬。そもそも、お前のせいでは無いし、あのクソ社長が俺に叱ってきた内容だって的外れもいいとこではないか。体調管理もバッチリだったしな。ただ、あのクソ野郎と二人っきりの出張など体調管理以前の問題だったという話なだけだ」


 大樹が肩を竦めて言うと、揃って噴き出す後輩の三人。


「それに、何も無駄に時間を過ごしただけでないぞ。これからは、綾瀬が体調不良になった時のように社長に迷惑がかからないよう、次からの出張のお供には何が何でも俺が責任を持って務めさせていただくと言っておいたからな。もう、そうそう声はかからんだろ」


 ここで堪らないとばかりに笑い声を上げたのは後輩三人一緒であるが、綾瀬のは一際だった。


「せ、先輩――!? 卑怯ですよ、そのネタ――!!」

「何だ? 何が卑怯だというんだ? 俺が誠心誠意、社長のお供をすることがか?」


 大樹が真面目な顔を作りながら戯けたように言うと、綾瀬は机に顔を伏せて苦しそうに肩を震わせ始めた。


「なになに? 恵、どったの? 先輩、恵どうしたんですか、これ?」


 夏木が面白がるように聞くと、大樹は肩を竦めた。


「さてな。どうも俺が社長のお供をすることに、何か思うところがあるらしい」

「いや、まあ、思うところというか、違和感しか無いと思うんすけど」

「あっはは、本当よね。先輩のことだから、ここぞとばかりに嫌がらせしそう」

「おい夏木、人聞きの悪いことを言うな。俺が敬愛する社長にそんなことをする訳ないだろう」

「敬愛してないのはわかりきってるから……つまりは、するんですよね?」


 ニヤつく工藤からの鋭い問いに、大樹は真面目ぶった顔で顎を擦った。


「ふむ、そうだな、逆説的に言うと……そうなるのだろうな」


 再びどっと爆笑を始める後輩の三人達であった。

 そうして笑いが落ち着き始めて、各自仕事を再開しようとしたところで、大樹達の机に近づく者がいた。


「おーい、柳、ちょっと休憩行くんだが、ちょっと付き合わねえか。コーヒー奢ってやっからよ」


 そう言って手で煙草を吹かす動きを見せている彼は、この会社にいる中でも最古参と言っていい定年も間近な年配の男で、違う部署ながら後輩達とも幾らか付き合いがあり、彼らの先輩である大樹はより世話になったこともある。


「館林さん? ええ、構いませんよ。ちょうど喉が渇いたとこでもあったし、ご馳走になります」


 大樹は逡巡することなく、席から立って館林に快く承諾した。


「おう。じゃあ、ちょっと借りてくからな、お前らの班長」


 後輩達にそう言い添えて、館林が快活に笑いかけると、それぞれ会釈して後輩達は大樹と館林を見送ったのであった。

 

 

 

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