第五十二話 大樹と綾瀬
「先輩、お昼何か用意してきました?」
隣の席に座る綾瀬からそう聞かれて、大樹は首を横に振る。
「いや、昼にコンビニに行くつもりでな」
普段なら通勤途中のコンビニで適当に昼食を買って来るのだが、今日は近くでイベントか何かあったのか、軒並み売り切れだったため、後で買いに行くことにしたのである。
「そうですか。なら、一緒に外へ食べに行きませんか?」
「うん……? ああ、そうか。夏木も工藤もおらんからな。じゃあ、そうするか」
今日は土曜で、大樹は綾瀬と二人だけで休日出勤をしており、そのため綾瀬が普段昼を一緒に過ごしている夏木がいない。だから、大樹に白羽の矢が立ったのだろう。
「んー……まあ、いいか。じゃあ、もうお昼になりましたし、行きましょう?」
苦笑気味にそう促されて、大樹は時計を確認してから席を立った。
「……もうこんな時間だったか」
「ええ。先輩って指示出しさえなければ、相変わらず没頭して仕事しますね」
「む……そう言えば、お前に途中から何も指示を出していなかったか」
「私には必要ないことぐらいわかってますよね?」
「……まあ、そうだな」
茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべる綾瀬に、大樹は苦笑しながら頷いた。
「さ、行きましょう」
「ああ」
「先輩、木曜の朝は大丈夫でした?」
行く店を決めて二人で会社の外を歩いていると、綾瀬が僅かに緊張を顔に浮かべて聞いてきた。
この木曜とは綾瀬がクソ社長に出張のお供を命じられたが、大樹の言う通りに仮病でその難を避けた日のことだ。
「ああ、問題無かったぞ」
大樹が軽く答えると、綾瀬はホッと胸を撫で下ろした。
「ならよかったんですが……でも、連絡した時うるさかったんじゃないですか?」
「まあ……そうだな、隠さずに言うと、うるさかったな『どういうことだ! 何でこんな時間になって言う!? 社会人としての自覚があるのか!?』とな。まさか、社会人としての自覚があるのかアレに言われるとは、と思ったな」
「……私のせいで、申し訳ありません」
しゅんとして謝る綾瀬に、大樹はからからと笑った。
「はっは、何もかも悪いのは、あのクソ野郎だ。お前が悪いことなど一つもない」
最後に「だから気にするな」と言いながらポンと肩を叩く。
「……はい、ありがとうございます」
俯きながら消え入りそうな声で礼を述べる綾瀬に、大樹は頷いた。
「そういえば、電話した時にな」
「?……はい、まだ何かあったんですか?」
「ああ。お前の代わりとして、今度は夏木を来させろなどと言うかもしれんと思ったんでな」
「!――そ、そう言えば、その可能性を失念しておりました」
顔を蒼褪めさせた綾瀬を安心させるために、大樹は再び肩に手を置いてやった。
「大丈夫だ、それを言うかもと思ったから先手を打ってこう言ってやった『病欠した綾瀬の代わりに彼女の直属の上司である俺が責任を持って代理を努めます。今から参りますので、少々お待ちいただけるでしょうか』とな」
途端に目を丸くし噴き出しそうになった綾瀬に、大樹はニヤニヤと続きを言った。
「そしたらあのクソ社長、慌てて『ば、馬鹿野郎、お前など来んでいい! 社に行ってろ!』そう言って、電話を切りやがった――失礼な野郎だな? 俺が代理で行ったら誠心誠意、お供をしてやったのにな?」
肩を竦め首を振りつつやれやれと言うと、綾瀬は体をくの字にして爆笑した。
「せ、先輩……! ふっ、くくっ……こ、心にも無いにも、ほ、程がありますよ……あっははは!!」
「何を言うか、俺があのクソ野郎のお供をしたなら、財布が入った鞄も含めた荷物の全てを丁稚の如く持ってやって、そして前方に不審者がいないか警戒のために率先して前を早足で歩いて、やつを置き去りにした後に、スマホの電源を切って、翌日になってから帰りの新幹線の中で連絡をとってやるぐらいには誠意を持ってお供をしてやるぞ?」
それはもはやお供ではない。強盗まがいの悪い置き去りである。
そんな話を聞いた綾瀬は手で抑えた口の奥から、噴き出しそうになったのを堪えようとして失敗したのか、くぐもったような音がした。
そこで大樹が片眉を上げて「どうだ、やつには十分なお供っぷりだろう?」と追い打ちをかけると、今度は堪えかねたようで、綾瀬は土曜の真昼の最中、人がたくさん行き交う歩道上で呼吸困難に陥りかねないほど爆笑した。
「ちょっと先輩! あんなとこで人を笑わせないでください!!」
どこにでもあるような定食屋に入って注文をすませると、綾瀬からぷんすか文句を言われて、大樹はどこ吹く風と言い返した。
「俺は別に笑わせるつもりで話した訳じゃない。勝手に笑ったのはお前だろうに」
「何言ってるんですか! 私が笑い出すのを堪えてる時に止め刺すように言ってきたじゃないですか!」
「言いがかかりもいいところだ。俺は同意を求めて口にしたに過ぎん」
「もう! 先輩いつもああやって、飄々と私達を笑わせようとしてるの知ってるんですよ!?」
「ひどい誤解だ。俺はいつも真面目に話してるだけだというのに」
「~っ! くっ……あ、あんな話が真面目な話のはず無いじゃないですか!?」
また噴き出しそうになった綾瀬は顔を真っ赤にして堪えていた。
「何を言っている、社長の話だぞ? 社長に関しての話なら普通、社員である我々は敬意を抱きつつ真面目に話して当たり前ではないか」
大樹が心にもないことを言って反論すると、綾瀬は俯きがちに肩を震わせて耐えていた。
そして暫し経った後に、綾瀬は深呼吸をして息を整えてから拗ねるように言った。
「本当に先輩は……相変わらず妙な屁理屈が上手いですね」
「屁理屈とは失礼な……屁がつこうがつくまいが理屈に変わりはない」
「そういうとこですよ――!」
目を吊り上げて小さな声で器用に怒鳴ってくる綾瀬に、今度は大樹が堪えかねて、くっと低い声で笑い始めた。するとムスッとしていた綾瀬だったが、笑い続ける大樹に釣られたのか静かに一緒になって笑い合った。
「……そう言えば、先輩と二人っきりでお昼は久しぶりですね」
一頻り笑ってから綾瀬がそう口にして、大樹は思い出しながらゆっくり頷いた。
「確かにそうだな」
「ええ。前も土曜だったと思います」
「同じ休出の時だったか」
「はい……初めて先輩と二人でお昼した時のこと、覚えてますか?」
懐かしむような顔で聞かれて、大樹は記憶を探ってから頷いた。
「ああ、覚えてるぞ。ちょうど一年――いや、もう少しぐらい前だったか? その日、食事に手もつけずに、いつまでもお前は泣き止まなかったな」
言いながらより深く思い出した大樹の言葉に、綾瀬は顔を赤くして慌てたよう手を振った。
「そ、それは忘れてください――!」
「そうは言うがな……お前が食べずに泣く前で俺だけ食べ始める訳にもいかんかったから、なかなかにひもじい思いをさせられたのを忘れられんでな」
悪戯っぽく言うと、綾瀬は更に顔を赤くして少し涙目になった。
「も、もう――! だからそこは忘れてくださいって!! 私が話したいのはその前のことですよ! 何で二人でお昼に行ったかって話です!!」
大樹は苦笑を浮かべて、可愛い後輩をイジるのはここでやめてやることにした。
「仕方ない――ふむ、何故二人で行くことになったか……ああ、お前達がこの会社の実態を知ったからだったか」
「は、はい、そうです。それも私のせいで、穂香や工藤くんに迷惑をかける形で――」
口にしながら落ち込んでいく綾瀬に、大樹は小さく息を吐いた。
「その日にも言ったが、お前は何も悪くなど無かった。俺がもっと指示を徹底していれば、問題なかったのだからな。そのことで責任があるのなら俺だ。だから気に病むのはやめろ」
新卒の綾瀬達が入社して会社勤めというのに慣れ始めた頃はまだ、大樹が多く仕事を振ることもなかったために、後輩の三人は割とノンビリ勤めていた。だが、大樹が出張で三人の前からいなくなった少しの間に、彼らはこの会社のブラックぶりを知ることとなったのである。
その切っ掛けは――
「はい――いえ、やっぱりなかなか割り切れません。私が思い上がったバカで無ければ、先輩の言うことにもっと耳を傾けていれば、穂香と工藤くんに、あんな迷惑をかけること無かったと思うと……」
「あいつらならもう気にしてないのはわかっているだろ? それに俺の指示のせいだと――いや、悪いのはあのゴミだな。と言うか、どう考えても全部あのゴミが悪いだろ」
大樹が渋面を作って本気で言うと、綾瀬はクスリと笑った。
「はい、ゴミ課長が悪くないだなんてかけらも思ってませんが……それでも、偶に過去の自分を思いっきり殴りたくなる時があります」
大樹は複雑に眉を曲げた末に、零すように苦笑した。
「入社したての頃のお前は……確かに扱いにくかったな、プライドの高い女性そのものみたいな」
「うっ……た、確かにそうでしたけど、いちいち口に出さないでくださいよ」
穴があったら入りかねない様子の綾瀬に、大樹は机越しに身を乗り出す。
「今だから言うがな……あの頃のお前を見て何度か思ったことがある――聞くか?」
「え……な、何ですか――いえ、いいです。言わなくていいです」
ふるふると首を横に振って拒否を示す綾瀬に大樹はおもむろに頷いた。
「うむ。あの頃のお前には、こう――すごくとんがった眼鏡をかけると似合うんじゃないかと良く思ったものだ。お前は眼鏡をしてないのに、そう思わされるとは不思議なものだな」
大樹が手で高飛車な女性がかけてるイメージのある、凄まじくシャープな眼鏡を形作ると、綾瀬はかーっと耳まで真っ赤になった。
「そ、そんなこと思ってたんですか――!? てか、言わなくていいって言ったのに、何で言ったんですか!?」
「いや、さっきの『言わなくていい』はどう考えても『押すな、押すな』としか聞こえなかったからな」
「フリのはずがないじゃないですか――!?」
綾瀬の反応に気を良くして大樹がからからと笑っていると、二人の注文したものが来て、やむなく綾瀬は続きの文句を飲み込んだ。
「おう、美味そうだな。食べるぞ、綾瀬――いただきます」
「も、もう! 本当にいつも先輩は!!」
「うん? どうした、綾瀬? 今日も食べずに泣いて過ごすつもりか?」
大樹がニヤニヤしながら言うと、綾瀬は憤然と言った。
「そんな訳ないじゃないですか!?――いただきます!! 後それは忘れてください!!」
「さて、どうだろうな?」
「先輩!!」
二人は賑やかに昼を過ごしたのだった。
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