第五十六話 仕方なかった……
「すっかり遅くなってしまったな……」
土曜の休日出勤を終えた大樹は玲華の家へ直行した。
次の日の日曜でなく、この夜に向かってるのは夜の露天風呂に楽しむためとか、そういう理由でなく、メッセージをやり取りしてる内になんとなくそう決まったからだ。と言うより、前も泊まったんだから、今回も泊まるよね? と玲華が当たり前のようにメッセージを送ってきて、強く否定する理由もなく、会う時間が早まる誘惑を大樹が拒めなかったためだ。
そして例によって手ぶらで来てくれていいということなので、その言葉に甘えて大樹は仕事を終えた足でそのまま玲華のマンションに向かっているのである。
時刻はもう間もなく午前零時という深夜。前回も遅い時間での到着だったが、今日はもっと遅い。仕事に集中し過ぎて、気づけば帰ろうと決めていた時間がとっくに過ぎていたのだ。そのため、大樹の歩みはせかせかと慌ただしい。
マンションに到着すると、いつものようにこのマンションのコンシェルジュである鐘巻に迎え入れられ、特に説明も受けずにカードキーを貰い受けた大樹は足早にエレベーターに乗り込むと、そこでホッと一息吐いた。
そうしたところで大樹は、自分がけっこう疲れていることに気づく。
思えば前に玲華の家を訪れてからの二週間、碌に体を休めていなかったのだから無理もないなと、肩に手を当て首をゴキゴキと鳴らしてからため息を吐いた。
広々とした格調高さを感じさせる廊下を渡り、玲華の部屋のインターホンを鳴らす。ここに来るのが久しぶりに感じるためなのか、どこかむず痒いような緊張感を覚えてまた一息吐こうとすると、扉は開かれた。
「おかえりー」
ニパッと表現するのが相応しいような笑みを浮かべた玲華にそう迎えられて、大樹は一瞬息を呑んだ。
そうなってしまったのは、扉が開くまでの時間が数秒と早かったからか、今の玲華の笑顔があまり見た覚えの無いタイプのものだったからか、それか疑う余地が無いほどに玲華が嬉しそうに見えたからか、前に顔を合わせた時よりも玲華が眩しく見えたからか……それか全てが要因か。そのため、大樹は口ごもってしまい、どうにかこの場に相応しい挨拶を絞り出した。
「た――ただ、いま」
するとその言い方がツボに入ったのか、玲華が噴き出し気味に肩を震わせた。
「なに? ちょっと、ぎこちなくない? さ、入って」
大樹は何となく感じた照れ臭さを誤魔化すように頭を掻きながら、玲華の背を追って中に入り靴を脱いでスリッパを履く。
「そう――でしたか?」
「ええ、ふふっ」
振り返った玲華は、はにかむように微笑んで、大樹を見上げる。
「久しぶり――ね?」
「そう――ですね」
「うん」
嬉しそうでありながら、少し照れ臭そうに頬を染め、手は後ろに組んでモジモジとしながら微笑みは絶やさずニコニコと玲華が見上げてくる。
「……」
数秒ほどか、そんな玲華を黙って見て大樹は、呆けてしまっていた。
(……な、何だ、この可愛い人は……!?)
いや、玲華が超がつく美人で可愛い面があることも重々承知していた。だが、今日の、今の玲華の可愛らしさは今までで群を抜いているように思えたのだ。
そのため魂を抜かれたように大樹は見惚れてしまい――
「へ……? うわきゃああああ!?」
突然、玲華が自身の
(ん……?)
どうしてそんなところから、そんな声が聞こえたのかと大樹が目を落とすと、玲華の綺麗な黒髪が生えている頭頂部があった。そして自分の体の前面部が妙に柔らかい。特に自分の胸元から下の方にはボリューム感がありつつとても柔らかい何かが潰れているようなそんな感触がある。
「な、ななななな、な――何なの、大樹くん!?」
また玲華の盛大に慌てた声が自分の胸元から聞こえてきて、大樹はようやく状況を理解する。
「な、なに!? きゅ、急に何なの――!?」
呆けている間に、大樹は知らずの内に玲華を抱きしめていることに気づいたのである。
疲れもあったせいだろう、玲華の顔を見て気が抜けてしまい、自制できなかったのだろう。
(不味い……)
今更ながら、どっと背中に冷や汗が流れ始めた。
「ね、ね、だだだだ大樹くん!? きゅ、急に、どどどど、ど、どうしたの――!?」
だが、大樹は玲華が慌てまくっているせいか、逆に落ち着けた。
慌てている人を見ると、却って冷静になれるというのは本当だったようだ。
(あー……まずは……)
そこで内心で深呼吸するように更に自分を落ち着かせると、大樹はジタバタしつつも離れようとの抵抗はしてない玲華から、ガッシリ抱きしめていた腕をゆっくり離す。
そして露わになるのは真っ赤になって涙目の玲華の麗しい顔である。
そのまま再び抱きしめたくなった大樹は大きな自制心を働かせ、そっと玲華の肩に手を置くと、ジッと玲華を見つめた。
「え、え……?」
見たことないほど戸惑っている玲華に、大樹は静かに頷く。
「……っ!?」
そして何かを察したような玲華が目を閉じようとしたところで、大樹はそっと手を離し、静かに玲華の脇を通り過ぎた。
「………………へ?」
そんな間の抜けたような声を背に、大樹は無言でリビングへ向かう。
(……誤魔化せた……か?)
当然そんな訳もなく、リビングへの扉へ手をかけようとしたところで、大樹は火山が噴火したような気配を感じた。
「ちょ、ちょっと、待ちなさい――!!」
そしてドスドスと足音を立てて、振り返った大樹の前に立った玲華は、真っ赤な顔で憤然と大樹を見上げた。
「何、しれっと中に入ろうとしてるの!?」
「……中に入ってと言ったのは玲華さんだったと思いますが」
惚ける大樹に、玲華はくわっと目を吊り上げた。
「んな話してんじゃないわよ!? さっきのは一体何なのよ!?」
「……何のことでしょう?」
目を逸らしつつ大樹は更に惚けた。
「何って――! い、いきなり、私のこと――そ、その――」
思い出したせいか、顔を更に染めて口ごもる玲華。
「はい、玲華さんのことを……何か?」
「な、何かじゃないでしょ!? い、いきなり人のこと、だ、抱きしめておいて!!」
そこまで言われたのなら仕方ない。大樹は開き直ることにした。
「ああ、それについては……仕方なかったことかと」
無念さをたっぷり込めて首を振りつつ紡がれた大樹の言葉に、玲華はボケッとしたように口を半開きにし目が点になった。
「…………は、はあー!?」
たっぷり10秒経ってから玲華がそのように声を上げると、大樹は重々しく頷いた。
「いや、あれは玲華さんのせいでしょう」
「は? え? ちょ、ちょっと、何言ってるの!? どうして私のせいなのよ!?」
「どうしても、こうしても疲れてる時にあんな風に迎えられたら……」
大樹の本心であった。我を失って、抱きしめてしまったのは玲華が可愛すぎたせいである、と。
「え、えー……? ほ、本当に何言ってるのよ……」
「とにかく、さっきのは大体、玲華さんのせいです」
大樹はこれで押し通すことにした。
「ええええ……? え、私のせいなの?」
「ええ、間違いありません。あれは仕方なかったです」
首を傾げて混乱し始めた玲華に大樹がここぞと強く頷くと、更に首を捻る玲華。
「えー? あれー……?」
混迷を深めていく
「――って、んな訳ないでしょ!?」
腕を引っ張られ、大樹はつんのめりながら足を止める。
「そ、そんな訳のわからないこと言って誤魔化せると思ってるの!?」
もう少しで誤魔化されそうだった玲華に、大樹は向き直る。
「ああ、そうだ。一つ言っておかなかいといけないことがありました」
「……ひ、一つどころじゃない気がするけど……聞こうじゃない!」
虚勢を張るようにつんと顎を上向け腕を組み憤然とする玲華に、大樹は淡々と言った。
「抱き心地、非常に良かったです。率直に言って幸せでした。ごちそうさまです」
一体何を言われたのかとキョトンとし、次第に理解が走り始めたのか、見る見るうちに顔を赤くしていく玲華に背を向けて、大樹は今度こそリビングへと足を踏み入れた。
「こ、こらー――!?」
遅れてそんな声が聞こえる頃には、大樹はジャケットを脱いで椅子に腰を落としていたのであった。
「ほんと訳わからない、何で私のせいなのよ……それに私は突然のことで慌ててただけなのに、大樹くんだけ幸せ感じてたとか、それもなんかズルいし……」
玲華が隣でお湯を沸かす準備をしながらブツブツ愚痴っているのを、大樹は聞こえない振りしながら、夜食の準備を進める。
例によって、夕飯を満足に食べていない大樹は玲華に米だけ炊いてもらっていたのだ。
そして準備といっても、そう手間のかかるものではない。
梅を一つだけ、種をとって包丁で叩くだけで終わる。
「よし――」
そして、勝手知ったるとばかりに納戸を開け、前に卵かけご飯でも使った塩昆布と、未開封の箱に入っていたダシ粉の袋と、カツオ節の入っている小袋を取り出す。更に冷蔵庫から、これは未開封ではなかった鮭フレークも引っ張り出す。
最後に丼ほどではないが、大きめの器にご飯を盛って終わりである。
以上、その他全てをテーブルの上に置くと、玲華から不満を隠せない声が発せられる。
「はい! お湯沸いたわよ――!」
「ああ、どうも」
突き出すように差し出されたお湯の入っているであろうケトルを、大樹は苦笑を浮かべて受け取ると椅子に腰掛ける。
そしてムスッと拗ねた顔で、いつものように対面に座る玲華。
今は恐らく何を言っても藪蛇になりかねないため、敢えて大樹は声をかけない。それに玲華は怒ってはいるが、本気では怒ってはいないのがなんとなくわかる、というのもある。
(拗ねた顔しても可愛いだけだしな……)
先の一件が玲華のせいだというのは、今も変わらない意見であるが、自分が悪いというのも、もちろんある。
(でも、疲れてて、久しぶりに会う時にあんなに可愛く迎えられたら……うむ、やっぱり玲華さんが悪いな)
だから言えない――玲華が可愛すぎて我を失ったから気づいたら抱きしめてしまっていたなどと。
なので、この詫びは明日の食事を頑張ることで、相殺とさせてもらおうと大樹は勝手ながらに決めている。
だから大樹は何も言わず、淡々と夜食の仕上げを進める。
ご飯の上に、叩いた梅、カツオ節、鮭フレーク、塩昆布と乗せ、最後にダシ粉をパラパラとかける。
不機嫌さを出しつつも興味を隠せないようにチラチラと黙って見ていた玲華が、ダシ粉をかけたところで驚き目を見開く。
「え、え――!? それって、ご飯にかけちゃっていいの!?」
思わずといったように問いかけてくる玲華。好奇心を押し隠せなかったようだ。
「まあ、乱暴なやり方なのは否定しません」
計算通りと内心で呟きながら答えた大樹は、最後にケトルを傾けてお湯を注ぐ。
「そこでお湯――!? あ、ダシ粉を溶くため……」
「その通り。本来なら出汁は出汁で作ってそれをかける方がいいんですが……」
頷いた大樹は、お湯の浸かった白飯を乗せたおかずと共にかき混ぜる。
するとダシ粉も混ざり、お湯に溶けて、ただの湯がダシ汁となる。
「あ、出汁とご飯と、おかず! だから――!」
そこで正解に至った様子の玲華に、大樹はニヤリと笑う。
「ええ、超簡単のダシ茶漬けです」
予想もしてなかったように完成したものを見つめる玲華の喉がゴクリと鳴った。
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