第四十五話 こういう時のためにある

 

 

 

「出張に綾瀬……ですか?」

「ああ。泊まりになるからな、しっかり伝えておけよ」


 どうにも碌でもない未来しか思い浮かばない大樹は、反論を試みた。


「お言葉ですが、綾瀬は未だ新人の域を越えず、社長の仕事の補助が務まるとは到底思えません。ご再考を」


 勿論、本心ではない。綾瀬なら社長を足手まといのレベルで仕事をこなすだろうことはわかり切っている。寧ろ、本当に用事があるなら綾瀬一人に任せた方が良い結果を出すだろう。それがハッキリとわかるレベルで、この社長は無能なのだ。


「おい、柳――さっき俺が言ったことをもう忘れたのか……?」


 森にギロリと睨まれて、大樹は舌打ちを堪えるのにかなりの意志を総動員した。

 さっき言ったこととは、まるで中身のなかった話のことだろう。


「……いえ。ですが、今やってる仕事に関して綾瀬が二日抜けるのはかなりの痛手になるのですが」

「口説いぞ、柳。お前は俺の命令に黙って従え。その綾瀬もな。それにお前の仕事と俺の仕事。どっちが大事かなんて明白だろうが。集合する時間と場所は追って伝える。話は終わりだ、出ろ――」


 大樹は少しの間森を見据えた末に、無言で会釈して社長室を出た。


(……くそっ。綾瀬が二日抜けるのは痛いな)


 綾瀬がいるのといないのとでは仕事の効率がまるで違う。

 大樹の班の中で采配を振るっているのは無論、大樹であるが、仕事がより効率よく回るよう、大樹が口にする前から、色々手配してくれてるのが綾瀬である。大樹が班のリーダーであるなら、実際に決めてもいないのに、皆がサブリーダーと暗黙に認められているのが綾瀬なのだ。

 その綾瀬が二日抜けるのは大樹達にとって、かなりの痛手なのは間違いなかった。他の後輩なら問題ないという訳ではないが、痛いのに代わりは無い。


 苛立ちを抑えながら席に戻ると、後輩達が心配そうな目を向けてくるのに気付いて、大樹は自分で自分の両頬を叩いて気を入れ直した。


「心配いらん。相変わらず中身のない話を聞かされただけだ」


 うへえ、と嫌そうに顔を顰める後輩達を見て、大樹は苦笑しつつ少し気が和んだのを感じた。

 後輩達を守っているという意識を持っている大樹ではあるが、やはり大樹自身も後輩達から助けられているのだと、こういう時に良く思わされる。


「ああ、綾瀬」

「はい?」

「後で話が来ると思うが、今週の木金、お前にクソ社長から出張のお供の命令が入った」

「は――? 木金って……もしかして、泊まりですか?」


 顔色を蒼白にする綾瀬に大樹は頷く。

 無理もない。これまでも綾瀬はその美人さ故だろう、クソ社長から社長秘書にならないかと誘われ、その都度大樹が断るか、綾瀬が断るかで凌いできたのだ。椅子にふんぞり返るだけで、碌に仕事をしない社長には、どう考えても秘書など必要としないのに。

 そんなクソ社長が泊まりの出張の共に綾瀬を選んだ理由は推して測れる。最悪、夜に何かしら命じられて食事に付き合わされ、酔い潰され、部屋に連れ込まれるのがオチだろう。でなくとも、嫌な目に合わされるだろうことは間違いないだろう。


「そ、そんな先輩――!? 嫌ですよ、私! 行きたくありません――!!」

「わかってる。落ち着け、綾瀬」

「そ、そう言われても先輩!!」


 涙目で縋ってくる綾瀬に、大樹は話す順番を間違えたかと反省する。


「すまん、綾瀬。驚かせるつもりは無かったんだ。行きたくないのなら、勿論行かんでいい」

「で、でも、社長命令で、先輩でも断れなかったんですよね――?」


 大樹がここで話していることからそう推測し終えている綾瀬の聡明さに、大樹は思わず苦笑する。


「ああ、そうだ。だからと言って、お前が行かなけりゃならん訳ではないだろうが」


 落ち着かせるように言うと、綾瀬だけでなく彼女を心配していた後輩二人も首を傾げた。一体、どういうことなのかと。


「なに、簡単なことだ――当日の朝に体調不良になれ、綾瀬。俺はお前からその連絡を受けたことにして、クソ社長には集合時間に――いや、その30秒ほど前にそのことを伝える。あのクソ社長の用事なら、どうせ大したこと無いのはわかり切っていることだ。お前がいなくとも何の問題もない」


 力強く言うと、後輩三人は揃って口をあんぐりと開けて固まった。


「だから、綾瀬、木金は来なくていい。お前がいないのは痛いが、この際だからとゆっくり体を休めるか――土日も含めると四連休だな。実家に帰るか、旅行にでも行ってきたらどうだ?」


 呆れの色を深める後輩達に大樹は更に言う。


「体調不良が嫌なら、そうさな――親戚の危篤にでもするか? 親戚の親戚の親戚のそのまた親戚を辿れば、もしかしたらその日、危篤な人がいるかもしれない。いや、辿り続ければきっと一人はいるだろう。『遠すぎてもはや完全に他人な親戚』を親戚と略すだけだ。これも何の問題もない。絶対に嘘という訳でもないから気も楽になれるぞ」


 どうだ? と悪戯っぽく笑って目を向けると、綾瀬だけでなく夏木も工藤も揃って噴き出した。


「せ、先輩。それは強引過ぎますよ――でも、そうですね。はい、私はその日、体調不良になります」

「そうか。じゃあ、熱があるとでも言っておくか。平熱でも熱は熱だ。あるのに変わりは無いしな」


 更に「ぶふっ――」と噴き出す後輩の三人。


「ほ、本当っすね、先輩。平熱でも熱は熱っすね。確かに熱があると言っても――う、嘘じゃないっすね。き、詭弁もいいとこだけど」


 工藤が体をくの字にして震わせている。


「せ、先輩って、たまにこんな裏技っていうか、力技も、ど、堂々と使おうとしますよね。仮病しろって……ぷくくっ」


 夏木が工藤と似た態勢で、緩く机を叩いている。


「夏木……こんなのは裏技でも力技でも何でもないぞ。大体、仮病というのはこういう時のためにあるようなものではないか」

「そ、その通りですね、先輩……」

「うむ。だが仮病は必ずしも褒められた行為でないというのは弁えておけよ、三人共。今回はあのクソ社長だけに迷惑が向かうから、進んででもやって然るべきことだとは思うが、褒められた行為でないのは確かだ」

「ふ、ふふっ――仕事を休んで先輩や皆に迷惑をかけるのは心苦しいですが……」


 綾瀬が目尻を拭いながらしみじみと言うのに、大樹は頷いた。


「ああ、お前がいないのは痛いが、こればっかりは割り切るしかあるまい。それに俺達はあらかじめ知っているのだから、迷惑には思わん。今回は致し方なしだ。そもそも諸悪の根源は全て、あの下衆ゲス社長だ。気にするな」


 大樹が言うと、工藤と夏木も揃って綾瀬に頷いた。


「ふふっ、ありがとう、二人共……あ、先輩、木金休むなら、私土曜日出ますよ。先輩、なんだかんだ言って、ずっと土曜出てますよね?」

「……休まんでいいのか? 折角、四連休に出来るというのに」

「ええ、構いません。そういう連休はこの会社を辞めてから楽しむことにします」

「だが――」

「いいんです。今の状況で木金と休んで土曜まで休んだら、落ち着かなくなりそうで……なので、先輩の仕事、手伝わせてください」


 如何にも仕事中毒者ワーカーホリックな発言に、大樹は苦笑を漏らした。だからこそ休ませたい気持ちもあるが、綾瀬の参加はハッキリ言ってありがたい。それに土日も休んだら落ち着かないというのは本音のように思える。


「では……すまんが、頼むとするか」

「はい、お任せください」


 大樹が頷くと、夏木が唇を尖らせた。


「えー……恵が出るなら、私も出ようかな……」

「お前は土日しっかり休みながら、転職情報を探しておけ。綾瀬はお前らを待っているのだから」

「むう……それを言われると痛い……でも、先輩私達けっこう目ぼしい会社リストアップしましたよ!」

「ほう……そうなのか?」


 綾瀬を見ながら問いかけると、綾瀬は二コリと頷いた。


「ええ。私の方でまとめてあります。今晩にでも――」


 飲み会の場でそのリストを見せるということだろう。大樹は頷きで応えた。


「さあ、今週は綾瀬が抜けてしまうからな、急ぎで仕事進めるぞ」


 大樹がそう言って後輩三人が返事をしようとした時だ。


「――おい、柳。RI社の方、お前らの方でやれ」


 五味がニタニタと嫌らしい笑みを伴ったドヤ顔で寄ってきて、大樹は隠すこともなく大きく重苦しいため息を吐いて見せた。後輩三人へは気にせず仕事をしろという意味を込めて手を振る。


「あん? なんだ、その態度は。さっき聞いただろうが、俺の命令は社長の命令と一緒だってな。その俺の命令だ――やれ」


 大樹は呆れと憐れみをこれでもかとこめた目を五味に向けた。


「やる訳無いでしょうが、それよりその仕事まだやってなかったのか? 前にも言ったが、自分のケツぐらい自分で拭けって言ったでしょうが」

「ああん!? お前、社長命令に従わないつもりか!?」

「従う訳ねえだろ、馬鹿かお前は」


 素っ気無く告げると、後輩の方からだけでなくアチコチから小さく噴き出す音が聞こえた。


「ばっ――馬鹿だと、貴様!?」

「ええ、聞こえませんでしたか?」

「このっ――てめえ、さっき社長室で言われたこともう忘れたってのか!? 命令に従うって言っただろうが!? 社長に歯向かう気か!?」


 顔を真っ赤にして怒鳴る五味に、大樹はこれ見よがしにため息を吐いた。


「あれは無駄な時間を少しでも減らすために、適当に返事をしてただけでしょうが。何でそれすらもわからねえんだ?」

「お、お前――!? 無駄!? 社長に対して適当に返事だと!?」

「ええ。仕事の内容なんて碌に把握して無い適当な社長なんだから、こっちの返事も適当で構わんでしょう」

「お、お前……じゃあ、社長の命令でもある俺の命令をきかないって訳か……?」


 歯ぎしりが聞こえてきそうな形相になる五味に、大樹は淡々と返した。


「それについてだが……前々から俺は勿論、皆が思ってたことだが、お前が出すのは命令じゃない。ただの無茶振りって言うんだよ――聞けるはずもない無茶振り、な。それを聞けと言われても無理がある。何度も言ってると思うが」

「そんな屁理屈聞いてんじゃねえ! お前みたいな大学も専門も出てねえ、高卒のクズは黙って俺の言う事に従ってればいいんだよ!!」


 醜く怒りに歪んだ顔から出たその怒声の大きさは、室内の殆どの人間を驚かせたようで、ビクッと肩が揺れる。だがすぐに、その言葉の内容は聞き捨てならないと反感の視線が五味に集中する。

 周囲だけでなく、背後の後輩達も息を呑んだ末に、五味へ鋭い視線を向けたのを、振り返らずともなんとなくであるが大樹にはわかった。

 対して、五味の怒声を正面から受けても表情に細波一つ起こさなかった大樹は、呆れのこもった特大のため息を吐いた。


「――なあ、おい、課長」

「てっめ……誰に向かって――」

「うるせえ。なあ課長、前々から思ってたことなんだが、お前って考える頭あるのか……?」


 大樹のその遠慮が無さすぎる発言というか、もはや暴言に近いそれに、すぐ傍にいる三人の後輩だけでなく、聞き耳を立てていた他の同僚まで動揺を表すように肩を揺らした。


「てめえ、柳!! 誰に向かってそんな口きいてやがるか、わかってんのか!?」


 その怒声はここ最近のなかでも飛び切りのもので、五味の怒り様が室内中の者に伝わり、静かな緊張感が拡がった。

 そんな中でも大樹は些かも態度を変えず、五味に向ける目は呆れ果てていて、挙句には何も感じていないと伝えるために己の耳に指を突っ込んだりして見せた。


「誰も何も――考える頭のない課長に決まってんでしょうが」


 突っ込んだ指をフッとするのを見せながら返すと、五味の顔が一層凶悪に歪み、思わずといったように大樹へと足を一歩進めた。


「貴様はほんと……ど、どこまでも舐めた口を……!」

「はっ、今のが舐めた口? 純然たる事実でしょうが、課長に考える頭がないなんてことは」

「てめえ、柳――!!」


 堪らず再び怒声を放つ五味に、大樹は鬱陶しいという意味を込めて手をヒラヒラと振る。


「うるせえうるせえ――なあ、いい加減学習しろって……お前がいくら怒鳴ろうと、いくらすごもうと俺がまったくビビってないってことに。それで俺がお前の言うことを聞く訳でもないってことに」

「おまっ――」


 五味がまた一歩詰め寄りながら怒鳴ろうとしたところで、大樹は今まで溜めたストレス、怒りを解き放たんとばかりに強い意志を持って睨み上げた。

 それによってか五味の肩がビクッと揺れ、詰め寄ろうとした足は思わずといったように後ろへ下がる。

 同時に大樹は立ち上がって、五味へ静かに詰め寄った。

 

 

 

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