第四十四話 そのようなことはありませんが
「先輩、SK社の要件定義まとめてサーバーにアップしました」
「おう、助かった。後で確認する。続けて悪いが、OJ社の方頼む」
「OJ社……QA表の更新でしたね。了解です。その後、添付して先方にメール飛ばしておきますね」
詳細を伝えずともやってもらいたいことを察してくれた綾瀬の返事に、大樹は頼もしく思いながら頷く。
「先輩、AR社の画面仕様書の更新、終わりましたー」
「ああ――もう終わったのか?」
「むふふーん。続けてテスト仕様書の更新の方、やればいいですか?」
「そう――だな、頼む」
「了解でーす」
上機嫌に返事をする夏木に、大樹は頬を綻ばした。
「はー……先輩、FK社から頼まれてた修正、終わりました」
「お疲れさん。三班の方にダブルチェック頼んでから、AR社のコーディングに戻ってくれ」
「了解っす……」
妙に元気のない工藤の返事に、大樹は顔を上げた。思えば朝から元気が無かったというか、苛ついているように見える。
「どうした、工藤。何かあったのか?」
「あ、いや、何でもないっす」
工藤はそれで終わらせようとしたが、隣にいる夏木が許さなかった。
「何でもないってことないでしょー。朝からなんか苛ついてるでしょ。そのせいか、今日の工藤くん、いつもより仕事遅いじゃん」
「そうね、私も気になってた。何かあったの?」
綾瀬にも水を向けられ、工藤は逃げ場が無いと悟ったのか、ため息を吐いた。
「いや、実は朝に嫌なもん見ちゃって……」
夏木と綾瀬が揃って首を傾げる。
「何よ、嫌なものって……」
夏木に問われて、工藤は再びため息を吐いた。
「いや、朝来る時に社長が――」
「社長」の単語が出た途端に、それだけで揃って嫌なことを聞いたと言わんばかりに顔を顰める綾瀬と夏木。
工藤も口にしながら嫌になったように、苛立ちを表に出しながら続きを口にする。
「社長が車に乗ってるの見たんだけど、その車がレクサスだったんだよ。それもどう見ても新車。去年にアルファード買って自慢げに見せびらかしてた癖に」
その言葉の意味することにすぐに気づいた夏木と綾瀬が憤慨する。
「何よ、それ! 私達の給料満足に払わずに、自分は高級車乗り回してるって訳?」
「会社のお金と自分のお金の区別つける頭が無いって本当、嫌になってくるわね……」
二人の言葉は憶測であるが、概ね間違っていないだろう。
普段から派手にお金を使っている様子のクソ社長が貯金をして、自分の給料の範囲で新車を買ったとは到底思えないからだ。
「――んで、その新車がさ、俺たちに支払われるはずだった残業代や、先輩の出した利益から買われたって思うと、もう――腹が立って腹が立って――!」
呪詛を吐き出すかのように話す工藤に、夏木と綾瀬は同調して歯を食いしばる。
「本当、すぐに事故ればいいのに……」
「ねえ。自分は社長室で威張ってるだけの癖に……」
夏木と綾瀬も揃って悪態を吐くのを聞いて、大樹はため息を吐いた。
「二人とも、その怒りはよーくわかるが、切り替えろ――工藤もな。愚痴なら、今日も早めに切り上げて居酒屋で聞いてやるから」
「うーっす……ちょっとやる気出ました」
「先輩、たまにはカラオケとか行きませんか?」
「穂香、それならカラオケ出来る居酒屋とか良くない?」
「あ、そういう店もあったわね、恵! どうですか、先輩!?」
「構わんぞ。俺はあんまり歌は得意ではないが……」
「俺、先輩のあの渋い歌声けっこう好きっすよ」
「私も! 上手いんだけど、なんか笑っちゃうんだよね」
「穂香、それは失礼でしょ? もっと、こう、ほら――中年っぽい格好良さがあるとか」
「恵が一番失礼なこと言ってるじゃん! 私達と先輩一つしか違わないのに!!」
ケラケラと笑う夏木の横で、工藤が顔を背けて肩を震わせている。
「――綾瀬、俺が老け顔だと思うのは構わんのだが、そうハッキリと口にするのは流石にやめてくれんか」
見た目以上の年齢だと思われることがよくある大樹なので、それほどダメージは受けてないが、だからと言ってゼロでは無い。苦笑して告げると、綾瀬は慌てて手を振る。
「せ、先輩! あの、私、そんなつもりじゃ――!?」
「えー、言ったじゃん、恵。先輩が中年っぽいって」
「ほ、穂香! 私そんなこと言ってない!」
「えー言ったよー? ねえ、工藤くん?」
「あ、あの、そこで俺に振らないで欲しいっす」
「そ、そもそも、声の話だし! 先輩! 私先輩のこと中年っぽいだなんて思ってませんから!!」
綾瀬が必死な様子で詰め寄ってきて、大樹は気圧されつつ頷いた。
「お、おう――わかったから。落ち着け、綾瀬」
大樹はなんとか綾瀬を宥めると、未だ笑っている夏木と工藤にも向けて、気を取り直すように言った。
「まあ、今日はとにかく飲みに行くぞ。だからそれまでは切り替えて仕事に集中してくれ」
「はーい」
「うーっす」
「……了解です」
綾瀬が若干縮こまってしまった点を除けば、三人ともクソ社長への苛立ちは収まったように見え、大樹はホッとした。そして、いざ仕事を再開しようとすると――
「おい、柳、社長がお呼びだ――来い」
威圧的で乱暴な口調でそう呼びかけたのは、五味課長である。
盛大に出足を挫かれたような気分を味わいつつ、大樹は苛立ちも隠さず振り向いた。
「社長がですか?」
「おう、そう言ってんだろ。さっさと来い」
大樹は舌打ちするのを隠さずに、立ち上がった。
見れば、後輩三人が心配そうな目を向けてきているので、大樹は落ち着かせるように手を振った。
「心配いらん。気にせず、仕事を続けておけ」
三人が躊躇いがちに頷くのを見て、大樹はニヤニヤと嫌らしい笑を向けてくる五味と共に、社長室へと向かった。
五味がノックをしてからすぐに「入れ」の声が聞こえて、大樹は五味に続いて社長室に入る。
「失礼します。柳を連れてきました」
「失礼します――お呼びだと聞きまして」
室内に足を踏み入れた大樹は、先代が使っていた時と比べて嫌な意味で見違えた社長室を見て、思わず顔を顰めかけた。
奥には洒落者を気取るように、見ただけで高級品とわかるブランドのスーツに、色付きの眼鏡、髪は明るく染め、手にはゴテゴテと悪趣味な指輪をつけ、無駄に豪奢な机の前でこれまた無駄に豪奢な椅子にふんぞり返り、「軽薄」が服を着たような三十半ばのこの男が、この会社の二代目のクソ社長――
(相変わらず、部屋も使ってる主人もクソみたいだな……)
この二代目が社長に就任してしまって、一番張り切った仕事というのが、この社長室の改造である。「社長である俺に相応しい部屋にしないとな」などと言って、社長室として不足のなかった内装を取っ払い、無駄としか思えない豪奢な調度品や机、ソファを並べて、出来上がったのがこの悪趣味な社長室である。
先代が使っていた時は、調度品が無かったとは言わないが、それは社長として侮られないための最低限に止まっており、部屋に迎えられた人が落ち着けるような安心感を抱かせるものに重きを置いていた。
(それが今となっては……)
もう嫌悪感しか沸かず、大樹はそれを意識しないように努めて、森社長の前まで足を進めた。
「はっ、来たか、柳――呼ばれた理由はわかるな?」
椅子にふんぞり返ったまま、睨め付けるように問われた大樹は、「知るか」と口から出かかったのを堪えて、言葉少なく首を横に振った。
「いえ、窺ってませんで」
すると森は露骨に舌打ちをして、顔を歪めた。
「ああん? お前、言われなきゃわかんねえのか――これだから高卒は」
吐き捨てるように言われた大樹であるが、もうそれは聞き飽きている。
大樹を目にしては気に入らないことがあれば、何かと言ってくる上に、この社長一派以外には、もうそれでバカにする者もいなくなったことを知っている大樹からしたら、バカの一つ覚えしか受け取れず、もう反感も覚えない。
それに高卒なのは純然たる事実であることを考えると、もう気にもならない。
聞き返すことも言い返すこともせず、無言で待ち続けると、それが癪に触ったようで――ワザとである――森は再度舌打ちをした。
「いいか、察しの悪いお前に教えてやる。お前、最近五味の言うことを聞いていないようだな」
「いえ、そのようなことはありませんが」
そのことかと思いつつ、大樹は飄々と返した。事実、大樹は五味の命令をきいてはいないが、話は――言うことは耳にして聞いている。詭弁とわかっているが、それを意識して大樹は堂々としている。
「何を堂々と嘘吐いてんだ、柳!!」
当然のように、横槍を入れてくる五味に大樹はため息を吐きそうになるのを堪えた。
「嘘なんか吐いた覚えはありませんが。いつも話は聞いています」
然りげ無く、「言うこと」を「話」に置き換えて切り返す大樹に、五味は更に憤慨する。
「そういう意味じゃねえ! 俺がやれと言ったことをやらねえだろと言ってんだ!!」
「そう言われましても……出来ないことをやれと言われて、出来るとはとても言えません」
「――っざけんな! 出来んこともないだろうが! やれと言ったらやれ――!」
本当に何でこんなバカの相手をしないといけないのかと思いつつ、大樹は淡々と返す。
「課長、何度も言いますが、出来ないことは出来ないんですよ」
全ての休日を犠牲にし、毎日終電までやれば出来ないことはないが、それは「出来る」と言ってよいことでは無い上に、もうやるつもりもない大樹の返事は素っ気無かった。
「このっ――」
「まあ、待て、五味」
再度怒鳴ろうとした五味を、森が大物ぶってるかのように鷹揚に手を振って宥める。
「なあ、柳、今から俺のする質問に一つずつ答えてみろ」
「……はい」
「この会社の社長は誰だ? うん?」
「……森社長です」
何を言い出すんだこの阿呆はと思いながら、大樹は返す。
「そうだな、俺がこの会社の社長だ――社長と言えば、この会社の頭、頭脳と言っていい存在だ。違うか?」
「……そうですね」
話が読めてきた大樹は、時間の無駄をこれでもかと意識した。
「そして社長である俺が頭脳なら、お前ら社員は手足だ――そうだな?」
「おっしゃる通りです」
大樹はこの無駄としか言いようがない時間を少しでも短くするために、森が望む答えを返す方針に切り替えた。
そんな大樹の返答に気を良くした森は、調子良く続ける。
「手足である社員は頭脳たる社長の俺の命令を聞かないといけない立場だ。何しろ手足が勝手に動いたら場が混乱するしな? そうだな?」
「ええ、正にその通りで」
「ああ、そこで話を戻すが、お前の課の采配は五味に任せている。これは俺の命令で、五味がそうする立場になっている。つまりは五味の命令は俺の命令に等しいってことだ。わかるな?」
「わかります」
「つまり手足であるお前は、頭脳である五味の言うことには絶対だ。お前の考えなんざいらん。五味がやれと言ったならやれ」
「かしこまりました」
よくまあこんな中身のない話をそんなドヤ顔で言えるものだと呆れないようにするのが精一杯だった大樹は即座に、自分でも驚くほど心のない返事をした。無論だが、この後、五味の命令を聞くつもりは一切ない。
嫌らしくニヤニヤする五味に、森がまた大物ぶったかのように手を振って告げる。
「これでいいだろ。またお前の言うことを聞かないようなら、言ってこい」
「はい! ありがとうございます、社長!!」
(……本当にくだらねえな、こいつら。いい歳して)
何のために大樹が呼ばれたかというと、五味の理不尽な命令を無視する大樹のことを、社長にチクったからだということだ。
(……はあ、これほど時間の無駄と思えることもそうはねえぞ……)
頭脳が無能だと困るのは手足なんですが、と言い返さなかっただけ大樹は偉いと言っていい。それを言えば、無駄な時間が長くなるだけなのは今までの経験上でわかりきっているからだ。
「じゃあ、もう行っていいぞ、柳――ああ、待て。お前のところに、若い女――綾瀬と言ったか? いたな?」
「……はい、綾瀬が何か……?」
その物言いと綾瀬が社内一の美人であることを意識した大樹は、嫌な予感を覚えながら退室しようと向けた足を止めた。
「今週の木金に箱根の方に用事――出張があってな、手伝いがいるから、そいつを連れて行くことにした。伝えておけ」
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