第四十三話 待ってもらっていいでしょうか
「んぐ――!?」
口の中にハンバーグを収めた玲華が、途端に目を丸くしてそんな驚いた声を出した。
そして何か伝えようとしたのか口に手を当てたが、何も発さずどこか必死な様子でモグモグとハンバーグを噛みしめている。
玲華が何を言いたいのかは、大樹も予想がついている。一口目を飲み下した大樹は、急かされるように手を動かして、もう一口分を箸で切り取り口に放り込んだ。
するとソースの香りが口から鼻を突き抜けて暴力的に動き回る。その濃厚さ故に一瞬飲み込みたくなる衝動が襲いかかるが、我慢して口の中のハンバーグに歯を突き立てると、今度は肉汁がジュワッと溢れ出てくるのだ。それがソースと混ざり、より一層凶悪的に口の中を暴れまわる。またも飲み込みたくなる衝動を押させて顎を動かすと、肉厚な食感が満足感を与えてくる。そして更に口を動かしていると、玉ねぎがシャキシャキとした存在を主張してくるのだ。これは熱を通したのと、生のままのを混ぜて入れた効果である。熱の入りが違うために、固さが違うから互いの食感を引き立てあって強く感じさせているのだ。そして飲み込むと、最後にソースの上に乗っていたミルクがほんの少しのまろやかさをアクセントのように置いていく。
こうなると出てくる言葉は一つだ。大樹も玲華も、ほうと満足感からの息を吐いて――
「美味い――!」
「美味しい――!!」
玲華はそれだけ告げると目を輝かせ、いそいそと二口目を頬張り、幸せそうに目を細めて頬を緩ませた。
そしてゴクリと飲み込んだ音が聞こえたと思うと、再び満足そうに息を吐いた。
「――あ、飲み込んじゃった。今度はご飯も一緒に食べようと思ってたのに」
しまったと言わんばかりの顔でそう零した玲華に、大樹は思わず笑みを浮かべた。
その一言にどれだけ自分の作ったハンバーグを美味いと思ってくれたか十二分に窺えたからだ。
それがどれほどの満足感を大樹に与えてくれるか、その笑顔がどれほど大樹に喜びを与えてくれるか、玲華は知りもしないだろう。
グイッとビールを傾けて一気に飲み干し、体から湧いてくる力が漲ったような息を吐く。
「――っはあ! 美味い!!」
玲華は気合いが入ったような大樹のその声に目を丸くすると、クスと微笑んでビール瓶を傾けてきた。
「ふふっ、本当に美味しいものね、このハンバーグ」
「……ええ、そうですね」
ビールを美味しく感じさせたのはそれだけではないが、それを言うのは何か勿体ない気がして言わないでおく。
ビールを注いでもらった大樹はまたハンバーグを頬張ると、米を寄越せという衝動のままにガツガツとライスを口に運ぶ。
それを見て玲華も幸せそうにハンバーグとライスを頬張る。
「――ああ、これはご飯が止まらなくなるわ。抑えないと太っちゃう」
「サラダはまだたっぷりあるので、どうぞ」
「……今更だけど、至れり尽くせりね」
それを聞いて大樹は思わず苦笑する。
「それは昨日からの俺のセリフなんですがね……」
用意してくれた露天風呂、風呂での酒、玲華の艶姿、浴衣、布団、着替えと、これこそが正に至れり尽くせりだったろうとの大樹であるが、玲華はピンと来なかったようで小首を傾げている。
「そう……?」
「ええ、風呂と酒の用意に、歯ブラシや細かいものまで用意してくれていて……それに服もですか。俺は本当に手ぶらで来ただけで済みましたよ」
「ああ……でも、それは私から言ったんだし、泊まるのなら必要なものでしょ? 服なんかは大樹くんに似合いそうなの選ぶの楽しかったしね、私自身は特になんてした気は無いかな」
サラッとそう言えるのがまたすごいものだと、大樹は苦笑を浮かべた。
「ありがとうございます」
「どーいたしまして!」
大樹が礼を告げると、玲華はまた魅力溢れた笑顔で返してきた。
そうして和やかな空気の中で、二人は食事を進める。
サラダをつつき、スープを啜り、最初から少なめだったライスが無くなった玲華はパンと一緒にハンバーグを食べてと、互いに舌鼓を打つ。
「んんっ――……このニンジンすっごく美味しいわね? バターの香りと甘みが堪らない」
「ああ、ニンジンのグラッセですか。美味いでしょ」
「ええ、本当に美味しい――ふふっ、ハンバーグのソースがちょっとかかってるのもまた美味しいわね」
「ポテトも皿の上の分だけでなく、まだあるので、入るのならどうぞ」
「……食べたいけど、今ある分以上は流石に食べ過ぎかも……」
そう言って玲華が悔しそうに唸るのを見ながら、大樹もニンジンのグラッセを口に入れる。
すると口の中にバター風味の甘みが広がる。噛むと、熱が通ったニンジン特有の甘みも出てくるがスッキリとした甘さで、くどくなく食べやすい。これはポテトと同じく、まさにお菓子感覚で食べれる付け合わせである。
「うん――上出来だな」
「ふふっ、うん、美味しいね」
そうやってニコニコして幸せそうに食べてくれる玲華がいるから、また飯とビールが美味く感じれる。大樹はポテトを齧って、口の中に塩気を感じながらまたビールを傾けて飲み干す。
「美味い――」
まったく文句のつけようの無い夜だった。
「――それでね、何度言っても、残業やめてくれないのよ」
「ははあ……聞けば聞くほど、うちとは違うなと思わされますね。うちの会社だと、仕方ないから残業やってるのに対し、そっちは仕事をもっとしたくて残業してる訳なんですよね? よほど働き甲斐を感じてるんでしょうね」
「そうは言ってもねえ……経営者としては社員の平均残業時間が増えるのは好ましくないのよ?」
「確かにそうかもしれませんが……それもこれも、玲華さんの手腕のおかげなんでしょうね。よほど会社の居心地が良いんでしょう。羨ましい限りですよ」
「そう思って働いてくれてるのなら私も満足よ? でもね、納期がまだずっと先にある仕事を残業して早く終わらせて、余った時間で会議して新しい企画考えて企画書作って提出してきて、また仕事してって――エンドレスで残業するのよ?」
「……何か執念を感じますね」
「でしょう? 注意しても全然堪えてくれないし、何より厄介なのが、どれもこれもいい企画ばっかりで……!!」
「……優秀な人が揃ってるみたいですね……」
「そうなの!! 実績があるからまた強く言えなくて……! 言っても堪えてくれないけど……」
そう言ってため息を吐く玲華に、大樹は苦笑を浮かべる。
「言ってもダメなら時には強引にその人達のタイムカードを切って、部署の電気切ったりして追い出したりするのもいいのでは?」
「……無理矢理だけど、一考の価値はあるわね……」
目に真剣な色を浮かべて、考え始める玲華。
こうやって仕事の話を聞いていると、本当に社長なんだなと今更なことを実感する――いや、出来る。
テーブルの上の食事は既にあらかた片付いている。
大樹は多目に作ったポテトをビールと一緒にチビチビやっているが、玲華はもう食べ終えている。食べ過ぎたとお腹をさすっていたが、大樹からしたらそう膨らんでいるようには見えなかったのが印象的だった。
そうして食後の余韻と共に雑談をしていると、今日映画を観に行ったきっかけが会社の企画だということで、玲華の会社の話に流れて行き、その話が経営者目線ということもあって面白く、大樹は夢中になって話を聞き、そうやって大樹が熱心に聞くものだから玲華も張り切って話をしてと、二人の会話は大いに盛り上がっていたところだった。
だが、楽しい時間に終わりはつきもので――
「――あ、もうこんな時間か」
ふと時計を見ると、もう22時を過ぎていたのだ。
いい加減、帰って明日に備えなくてはいけないなと、大樹はグラスをテーブルに置いた。
「……そっか、もう帰らないといけないか、大樹くんは」
玲華は大樹の気のせいでなければ寂しそうに呟いたが、すぐ笑顔になった。
「後片付けは私の方でやっておくから。気にしないで」
「……すみません、お願いします」
「はい、まっかせなさい!――……じゃあ、帰る?」
「……そうですね」
大樹はどこか言い様のない重りを体に覚えながら、腰を上げる。
「そういや、この服どうしましょうか。着替えて置いていった方がいいですか?」
また泊まりに来た時のことや、もしくは会社に戻したりするのだろうかという二重の意味で問いかけると、玲華はきょとんと首を傾げた。
「え? なんで? そのまま着て帰ればいいじゃない」
「えーっと、会社に戻したりする必要とかは?」
「あはは、そんな必要無いわよ」
「また泊まりに来た時用に置いておくとかは?」
「その時はまたその時に用意するわよ。それに今からスーツに着替えて帰るなんて大樹くんだって嫌でしょ?」
「それは、まあ……そうなんですが」
サラッと言われて、大樹はそんな風にしか返せなかった。
「ほら、そんなこと気にしないでいいから。鞄は和室に置いてるのよね?」
そう促されて大樹は鞄を、玲華は大樹のスーツが入った紙袋を取りに行くために席を立ったのである。
そうして玄関を出て、玲華と共に廊下を歩いていると、視界の端で玲華がチラッチラッと見上げてくるのに大樹は気付いた。見上げた後に、鞄を持つ大樹の手に視線をやるのもだ。
(……流石にこれは勘違いとかじゃなくアレだよな……)
大樹は密かに気合を入れると、心臓が波打つのを感じながら鞄を反対の手で持ち直すと、空いた手を玲華の手へ、そろそろと伸ばす。
すると玲華は速やかにそれに応えてくれて、しっかりと繋がれる二人の手。
足を止めず安堵の息を吐きながら玲華の方へ振り向くと、玲華は頬を染めて嬉しそうにはにかんだ。
「ふふっ――」
その時、大樹は一瞬心臓が止まったのをハッキリと自覚した。顔が真っ赤になったことも同時にだ。
慌てて正面を見据える。その調子につられて足を早めそうになったが、それは寸でで堪えた。この時間を少しでも縮めたくなかったからだ。
それはどうやら玲華もだったようで、二人は言葉も少なく、いつもよりゆっくり歩いて、エントランスへと向かったのであった。
何か眩しいものを見るような目を向けてくる鐘巻に、大樹はカードキーを返却し、玄関口について、二人は足を止めると、大樹は未だ手は離さずに体を半転させるだけで玲華と向き合った。
「その――昨日から色々と世話になりました」
「んー? どちらかというと、私の方が、な気がするんだけど。ご飯とか」
「いや、それしかしてないじゃないですか、俺は」
「何言ってるのよ……そう言うなら、私だってよ。大したことした覚えは無いわ」
「いや――まあ、もういいですか。また水掛け論になりそうで」
大樹が苦笑を浮かべてそう言うと、玲華も噴き出し気味に苦笑を浮かべた。
「そうね――あ、でも、ハンバーグ本っ当に美味しかった! 他のおかずももちろんだけど! 今日は本当にありがとうね、ご馳走さまでした!!」
「お粗末さんで――あれぐらいなら、いつでも作りますよ」
そう言うと、玲華はマジマジと大樹を見上げ、何か言おうとしたのか口を半開きにして少し固まったかと思うと、俯いて耳を赤くしていた。
暫し静かな空気が流れた末に、玲華は顔を上げて言った。
「ねえ、考えてみたら、殆ど丸一日一緒にいたわね」
「……そうですね。寝る時以外は一緒にいた感じですか」
「ね、だから――その、だから……」
そこで玲華は言い淀んだが、言葉にせずとも大樹は玲華が何を言いたいのかわかったような気がした。
「ちょっと離れ難い、ですね……」
思わず大樹がポツリと口にすると、玲華は勢いよく顔を上げた。
「う、うん――私も、そう思って……」
「はい……」
大樹が頷いて玲華と目を合わせれば、玲華も静かに見つめ返してくる。
そして二人の顔に、じんわりと照れたような笑みが浮かんでくる。
「――あ、ねえ、来週末ってまた、会える――?」
期待と不安が入り混じったような顔で聞かれて、大樹は複雑な気持ちで眉を曲げた。
「すみません、次の週末は色々とやることが出来て……」
そう答えた途端、玲華の顔がわかりやすいほど絶望に彩られた。
「そ、そう――そうよね、当然よね。大樹くん週一回しか休みないんだし、用事が出来たのなら、し、仕方ないわよね……」
声を震わせ、しゅんとする玲華に、大樹は激しく胸を痛めつつ、無意識に握る手に力を入れていた。
「あの――玲華さん」
「……?」
小首を傾げる玲華に、大樹は言い淀みながら口を動かした。
「その、俺はあなたに伝えたいことがあります」
「?……! っは、はい……」
一瞬何のことかと再び首を傾げた玲華だったが、すぐ何か察したような顔になって、居住まいを正した。
「ですが、知っての通り、俺の今の状況は周囲も含めてひどく不安定で落ち着いていません」
「……」
「なので――色々と片付き、落ち着いたら聞いてもらいたいと思っています」
「――っ!」
「それまで、待ってもらっていいでしょうか……?」
大樹がそう尋ねると、大樹を見上げていた玲華の目がジワリと潤んだ。
「う、うん……待ってる……」
コクコクと頷く玲華に、大樹は心底からホッとした安堵の息を吐いた。
「一部ですが、その用事を片付けるためにも来週末は用事があるのですが――」
「う、うん。そ、それじゃ仕方ないわね」
先ほどと違ってニコッとした顔を見せてくれて、安心した大樹は続けて言う。
「再来週は会えると思います。玲華さんの都合はどうでしょう?」
「だ、大丈夫! 何か予定があっても空けるわ!」
大樹は苦笑して頷いた。
「社長なんですから、周囲に迷惑にならない範囲でお願いします」
「も、もちろんよ! わかってるわ!」
意気込んで頷く玲華に、大樹が思わず怪しんだ目を向けると、玲華はうっと怯んだ。
「だ、大丈夫よ! 仕事の調整ならお手の物よ!!」
「……一応は敏腕社長と言われてるみたいですしね、信じましょう」
「い、一応って何よ!? 歴とした敏腕社長です!!」
「……自分で言いますか」
肩を震わせながら大樹が言うと、玲華は口を詰まらせたが、すぐにその大きな胸を張って言った。
「な、何か文句ある――!?」
大樹は笑って首を振った。
「いいえ、ありませんとも」
「そう言って、すごく笑ってるし……」
ジト目を向けられて、大樹はよくわからないままに笑いが込み上げて、我慢せずに声を立てて笑う。
「もう――ふふっ」
次第に玲華にも移ったのか、二人して笑い声をあげる。
そうして一頻り笑ったところで、大樹は切り出した。
「それじゃ――帰ります」
「うん、気をつけてね」
そう言われて思い出すのは、初めて会った日に倒れてしまったことだが、大樹は笑い飛ばした。
「はは、体調は問題ありません。玲華さんのおかげで元気いっぱいですから」
「そう」
微笑を浮かべる玲華から、大樹は手を離そうと動かすが、玲華がそれをさせまいかのように強く握ってきた。
「ねえ、大樹くん」
「? はい?」
そこで玲華は更に大樹の手をギュッと強く握った。
「大樹くんがその用事を片付けるのに――私で力になれることがあったら何でも頼ってね?」
「……」
思わず大樹が口を閉じると、玲華は口調を強くして言った。
「それがベストだと大樹くんが思ったら、本当に遠慮せずに言って。私は絶対に大樹くんの味方だから――ね?」
首を傾け、見てるだけでホッとするような笑みを向けられて、大樹はどこか安心できるような大きな何かに包まれたような感覚を覚えた。
「はい――その時はお願いします」
玲華は頷くと、そっと大樹から手を離した。
「遅くまでごめんなさい。それじゃあ――またね」
玲華は寂しさを感じさせない柔らかな笑みで、大樹へ片手を振った。
「いいえ、俺のほうこそ。それでは、また――」
会釈して歩き出した大樹は、一度だけ振り返って未だ見送ってくれている玲華に手を振り返して、マンションを出た。
外に出て歩きながら、大樹は先ほどまで玲華と繋がっていた手を見下ろした。
そこに残る温もりを体の内に溶かすように、一度強く握りしめる。
そして立ち止まり振り返って、先ほどまでいたマンションを見上げる。
以前は無機質に感じた高層マンションが今では暖かな光を照らす灯台のように思える。
「――ああまでされて、どうやったら惚れずにいれるってんだよ……」
苦笑気味に零すと、踵を返して大樹は歩き出す。
初めて玲華と会った時に感じた格差を意識していたからこそ気持ちに蓋をしていたが、玲華はガンガンその蓋を蹴破ってくる。
だけでなくとも、その蓋は溢れ出るものをそろそろ受け止めきれなくなっていた。
玲華を長く待たせたくないが、後輩達次第なところが多分にある。だからと言って、彼らを急かす真似など出来ない。
どれだけ時間がかかるか大樹にはわからないが、大樹に出来ることは今まで通り後輩達を見守り導くだけだ。
「さて、焦らすつもりはねえが、どれだけ時間かかるもんかねえ……あいつらの新しい転職先は」
短くても一ヶ月、長くて半年はかかるのではないかと大樹は踏んでいるが、それが思いもしない形で、思いもしないほど短くなることを、この時の大樹は知らなかった――。
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