第三十五話 だから天国
大樹が風呂を出てリビングに戻ると、先に出たはずの玲華はいなかった。
「……ドライヤーで髪を乾かしてるとかか……?」
風呂上がりの身支度は玲華の方が時間がかかるということで、玲華は先に上がり、そしてまたゆっくり一人で湯を堪能してから大樹は上がったのである。
「しかし、用意してくれた着替えがこれとは……」
大樹は手を広げて、自身が身に纏う服を――浴衣を見下ろし苦笑した。
そう、玲華が用意してくれた着替えは、温泉旅館に置いてあるような浴衣だったのである。サイズもXLと大樹の体格に不足のないものだった。
下着もメッセージでやりとりしたように用意されていた。
下着ばっかりはと大樹は遠慮したのであるが、玲華はそれを予想していたかのように大樹に気を使わせまいとしたのか「もう二種類とも買っちゃったから」と言ってきて、それならばと大樹は諦めてトランクスを所望したのである。もう一方のボクサーブリーフは、使いたくなったらいつでも出すからと言われてそのままにするようだ。
そして脱衣所で浴衣と共に置かれていた下着であるが、タグを良く見てみると大樹でも知っている有名ブランドのものだった。普段使っている下着など、三枚で千円とかの特売ものを愛用している大樹からしたら、ブランドものの下着なんてものを初めて目にして唖然としてしまった。
ちなみに大樹が今日一日使っていた下着は、カッターシャツや靴下も含めて玲華が洗濯しておいてくれるとのこと。また泊まりに来た時に使えばいいと、あっけらかんにメッセージで伝えられてしまった。
玲華の中では大樹がまた泊まりに来るのは当たり前のようであるらしいことが、どうにも大樹にこそばゆいような、どこか落ち着かせない気持ちにさせた。
そして玲華の心配りは下着を含めた着替えで終わりではなかった。大樹がすっかり失念していた歯ブラシも用意してくれていたのである。それが玲華の赤い歯ブラシの横に並んでいるのを見て、更に大樹を落ち着かない気持ちにさせたが、有難いことこの上ないことなのは間違いないことであった。
「……なんで、これだけ気配りとか出来る人が料理出来なくて、ところどころポンコツっぽいんだろうな……?」
大樹は不思議で堪らず独り言ちた。
ただ、何となくであるが、こういう出来る面を覗かせる時は社長としての思考が働いているのではないかと大樹は思った。
大樹はプライベートの時の玲華しか知らないから、時折、玲華が優良企業の社長を務めていることを忘れがちだ。
「……まあ、いいか。後でまたお礼言っとかねえとな。にしても、あんな立派な露天風呂入った後に浴衣来てると、すげえ旅行に来た感があるな……おまけに、リビングの照明がなんか、それっぽく薄暗くなってるし」
もう夜中と言える時間だからだろうか、照明が普段より薄暗く、何か旅先に来たような雰囲気を出しているのである。
結論として、非常に居心地が良かった。旅行に行った時のような浮き立つようなワクワク感と、色々と用意がされていることからのリラックス感。正に温泉旅行に行った時の気分になっていた。
大樹はソファに腰かけ、もたれて堪らず呟いた。
「やはり、ここは天国だったか……」
今まではジムやサウナがあるからこそ、このマンションは天国ではないかと思っていた大樹だったが、評価を改めざるを得なかった。玲華の心配りがあってこそ、このマンションは天国になるのだと。
そんなことを考えていると、扉が開く音が耳に入って、大樹はそちらへと首を回し、目を見開いた。
「あ、もう上がってた? あれ、ビール出てないわね。出して飲んでてよかったのに」
そうニコやかに言ってきた玲華であるが、大樹と同じく浴衣を着ていたのである。
風呂上がり故に赤く火照ったような頬、わずかに汗ばんだ肌、少し湿り気のある髪は簡単に縛られてポニーテールになっており、後ろに回れば容易く見えるだろううなじ。
浴衣は当然のように似合っており、玲華の艶やかな黒髪と相俟って、これでもかと大和撫子というものを感じさせ、つまりどういうことかというと非常に色っぽかったのである。
今日何度目になるかわからないが、大樹は呆然として目を奪われた。
そんな大樹に気づいたのか、玲華は悪戯っぽく笑い、手を少し広げてくるりと回った。
「じゃーん、どう、似合う? 大樹くんだけ浴衣じゃ、つまらないじゃない? 私も合わせて着てみたんだ」
そう言ってクスクス笑う玲華に、大樹はハッとなって、なんとか口を動かした。
「非常に――非常に似合ってます」
大樹が何度も頷きながら力強く言うと、玲華は赤かった頬を更に染めて、はにかんだ。
「ふふっ、ありがとう。ビール飲もっか。そこで待っててね?」
「は、はい――」
大樹はその玲華の女神を思わせるような笑顔に見惚れながら弱々しく返事をし、力無くソファに身を任せて悶えた。
(だーもー! 着替える度に、こっちの意識奪いにかかるのやめてくれ――!)
大樹は先ほどのマンションへの評価を再び改めた。女神の如く神々しい玲華がいるからこそ、ここは天国なのだと。
「かんぱーい!」
「乾杯!」
玲華はグラスで、大樹はなみなみに入ったジョッキで乾杯し、ゴクゴクとビールを喉に流す。
「――っはあ、美味い……」
「うん……やっぱりお風呂上がりのビールは美味しいわよね」
「ですね……二杯目、いりますか――?」
見れば玲華のグラスが空になっていたので、断られること前提で大樹が瓶を持ちながら聞いてみると、玲華は少し考えた末に頷いた。
「……そうね。もう一杯だけ飲もうかな」
その答えに大樹はわずかに眉を上げるだけで驚きを露わにしつつ、玲華のグラスにビールを注いだ。
「――ん、ありがと」
コクと一口だけ飲んだ玲華はグラスをローテーブルに置くと、感心したように大樹を見上げた。
「それにしても、大樹くんって浴衣似合うわよねえ。予想はしてたんだけど」
「……そうですか? いや、俺より如月さんの似合いっぷりの方がすごいと思いますが」
「あはは、ありがとう。大樹くんだって浴衣姿、素敵よ?」
ニッコリとそう褒められて、大樹は頭を掻いた。
「……どうも」
そんな褒められ慣れてない大樹の反応に、玲華は苦笑すると、ふと思い立ったように手を伸ばして、大樹の胸板や腹筋にペタペタと触れてきた。
「えっと――何ですか?」
「んー……大樹くんってもしかして、着痩せする方?」
「……どうなんですかね? 言われたこと無い気がしますが」
「そう? でも、そうだと思うわよ。お風呂で見て、あんなにマッチョだなんて思ってなかったもの」
「……それはやはり、俺の筋肉が錆びついていたということですね……」
大樹は重苦しいため息を吐いた。やはり今の会社は許し難いとの思いを新たにした。
「あはは。そうじゃないって、着痩せするかどうかの問題は」
「いや、そうは言ってもですね……」
「だから、そうなの! それに例え錆びついていたとしても、私はこの筋肉に助けられたんだから、そうガッカリしないでよ」
苦笑して宥めるように言ってくる玲華に、大樹は励まされていることに気づいて、同じく苦笑を浮かべた。
「そういえば、如月さんを受け止めたんでしたっけね」
「そうよー? 大樹くんが受け止めてくれなかったら、きっと入院してたんじゃないかしら。今でも感謝してます。ありがとう」
ニッコリと告げられて、大樹は頷いた。
「その後に倒れた俺も如月さんに助けられましたけどね……拾ってくれて感謝してますよ」
「あっはは! 拾うって――! でも、そうね。あの時に大樹くんを介抱してなかったら、今みたいな関係にはなってなかったと思うと……うん、私グッジョブね」
そう言って、サムズアップしてきた玲華に大樹は思わず噴き出した。
「はは、そうですね。グッジョブでした」
「でしょー?」
茶目っ気たっぷりに玲華が相槌を打つと、二人は声を揃えて笑い合った。
「ははは――そういや、如月さん、明日は――」
笑っている途中で大樹が明日の予定を聞こうとしたところで、玲華に遮られた。
「――ねえ、待って」
「……何ですか?」
急に不機嫌そうな声を出されて、戸惑う大樹に、玲華は拗ねたような顔をして言った。
「ねえ、私だけ?」
「……何がでしょう?」
「その――」
「……?」
どこか言い辛そうに口篭もり、わずかに顔を赤くして意を決したように玲華は口を開く。
「名前で呼ぶのは私だけ――? 大樹くんは?」
「へ……? あ――」
言っている意味が最初はわからなかったが、最後に名前で呼ばれたことで理解する。
「あっと……その――そうした方がいいですか……?」
そう問いかけると、玲華は不満そうになった。
「そうした方がって……それはそうだけど……」
最後は俯いての小声だったので、聞き取りにくかったが、大樹は玲華の反応から自分が大きく間違えたことにすぐ気づけた。なので、言い換える。
「――すみません、言い間違えました……俺も名前で呼んでいいですか?」
すると玲華はパッと明るくなった顔を上げた。
「う、うん――!」
その如何にも嬉しそうな顔を見て、大樹は内心で再び悶えることになった。
(だー!! 可愛過ぎか――!!)
頬が引き攣りそうになるのを堪えながら、大樹は咳払いして口を開いた。
「そ、それでは、れ、玲華さん――と」
すると玲華は目を丸くした。
大樹が、あれ? と思った直後には玲華が不思議そうに言った。
「え――? あれ? さん、なの?」
「へ……? いや、だって年上ですし、今までも如月さんでしたし」
「え、あ、うーん……じゃ、じゃあ、そ、それ――で」
玲華は渋々な様子で了承したが、そのすぐ後には期待するように大樹をチラと見上げてきた。
流れ的に玲華が何を期待しているのかすぐに理解できた大樹は、体中がこそばゆい感覚と照れ臭さを覚えながら、何度も口を開け閉めした末に、玲華へ呼びかけた。
「えっと――れ、玲華さん」
「は、はい――!」
何故か教師に呼ばれた生徒のように背筋をピンと伸ばして返事をした玲華に、大樹は思わず噴き出した。
「ふっ、くくっ――そ、そんな緊張しないでくださいよ。俺まで緊張するじゃないですか」
「ちょ、ちょっと笑わないでよ――!」
言いながら緊張が溶けたのか、大樹の腕を軽く叩きながら玲華も笑って返す。
「と、とにかく、これからはそう呼んで――ね?」
期待の籠った目で見上げてくる玲華がこれまた可愛過ぎた。
大樹はそろそろ吐血してしまうんじゃないかと思いながら、それは顔に出さずに頷いて見せた。
「わかりました――玲華さん」
「う、うん――あ、そうだ。写真撮ろ? せっかく浴衣着たし」
まだどこか漂う緊張感を払うように玲華がそう誘いかけてきて、玲華の浴衣姿の写真が欲しい大樹は一も二も無く同意した。
「いいですね、撮りましょうか」
「ええ。じゃあ、大樹くん、持ってくれる?」
「はい」
渡された玲華のスマホを自撮りの形で構えて、大樹と玲華は何枚か撮る。
揃って確認してみると、大樹の表情はいつも通りであるが、玲華の方も相変わらずの美しい笑顔だった。
「ね、大樹くん、またこっち――手回してよ」
玲華のリクエストを受けて大樹は玲華の肩に手を回す。すると玲華はコツンと大樹の肩に頭を乗せてきた。そのため、大樹の鼻のすぐ傍まできた玲華の髪から殆どダイレクトに良い匂いが伝わってきた。
その時大樹は何故だか無性に玲華を抱きしめたくなり、抑えようと思っても止めきれなかったその衝動は、玲華の肩に回した手に力が入ってしまい、必然的に玲華を抱き寄せるように引き寄せてしまった。
「――っ!?」
玲華が動揺したように肩をピクッと揺らしたが、何も文句は言わず、されるがままに大樹の体に寄り添うようにして、もう大樹の肩でなく、胸板に頭を乗せるように体を預けた。
「――っす、すみません、その――」
言い訳をしようとした大樹であるが、玲華は大樹にもたれたまま首を横に振って遮った。
「んーん……いいから、このまま撮って?」
「――そ、そうですか」
「うん」
そうしてその写真は撮られた。
確認してみると、玲華は決して嫌がっている顔はしていなくて、大樹はホッとした。多分だが、前に肩へ手を回した時と同じ表情のように見えたのだ。反対に、玲華はそれを見て、苦笑しながら頬を掻いてボソッと呟いた。
「うーん……やっぱりこうなるのね」
その言葉の意味が大樹にはわからなかったが、何となく聞く気になれなかった。
それから、大樹は頼んで玲華一人の写真を撮らせてもらった。素晴らしい笑顔であるが、ちょっと恥ずかしがってるのがまた最高な写真だった。
その後はまたお約束のように大樹が一人の写真を玲華が撮り、それを見て笑い合っている内に、なかなかな時間になっていたので、今晩はもうお開きにすることになった。
と、そこで玲華が大樹用の布団を用意しているという和室へ案内しようとした時に、大樹は先ほど聞きそびれたことを尋ねた。
「あ、きさら――玲華さん、明日なんですが、行きたいとこってどこなんですか?」
癖で苗字で呼ぼうとして、即座に言い直したのは、耳にした玲華がすぐさま拗ねたように唇を尖らせたのが見えたからだ。
「ああ――明日のこと? あ、そっか、まだ言ってなかったわね。えーっとね、大樹くんが良ければだけど――」
申し訳なさそうに玲華は、明日の行きたい場所を告げたのである。
「――映画行かない?」
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