第三十四話 な、なな、何のことだか
湯船で飲む冷えた酒は文句無しに美味かった。本音を言えば、徳利一本だけでなく、二本三本と飲みたかったところであるが、それは断念せざるを得なかった。
何故なら、湯船で体を暖めながらの飲酒は酔いが回るのが非常に早かったためだ。
なので、大樹は一本を飲み終えた頃には、一旦シャワーで冷たい水を浴びて、軽く酔いを覚ました。そして酔いが落ち着き始めた頃に、再び湯船に体を沈めて玲華と雑談を交じえながらゆっくりしていた。
「――じゃあ、有馬温泉行ったことあります?」
「あ、あるわよ。あそこも良いわよねー」
「ええ。温泉だけでなく、あの温泉街も楽しいですしね」
「あ、いいわよね、あそこ! 夜にお風呂入った後に、浴衣着てブラブラってね」
「それがまた醍醐味ですよね。ちょっと歩いて、足湯に浸かったり」
「あー、あったあった! 足湯も気持ちいいわよねえ。特に歩き疲れた時に入るのがまた、ね!」
「わかります。それに買い食い出来る店もけっこうありますしね」
「あるわね。あ、有馬温泉って言えば、やっぱり炭酸煎餅よね」
「ああ、ありましたね。クリーム挟んだやつもまた美味いですし」
「あるある! あー、話してたらまた行きたくなっちゃった」
「はは、じゃあ今度――」
言いながら大樹は自分が口走ろうとした内容を考えて、ピタッと口を閉ざした。
(危ね……いやいや、ダメだろ、それは)
ここから有馬温泉に行くことは日帰りでは厳しく、必然的に泊まりの旅行になるということで、それに誘うのはいくらなんでも、と思ったのだ。今日泊まりに来といてという話にもなるが、それはそれ、これはこれだ。
気安い関係になってきたとは言え、軽々しく言ってはいけないと大樹は止まったのだ。が――
「じゃ、じゃあ今度――で、な、なに?」
玲華は大樹が止まった理由を察したのか察してないのか、湯で暖まったからというだけでなく染めた頬で、チラチラと大樹を期待するように見上げてきた。
「い、いや、あの、えーと……」
「う、うん……」
「あ、いや――何でもないです……」
「……そう」
心なしか玲華が肩を落としたように見え、大樹は間違えたかと思い、困って頭を掻いた末に、一つ思い出して、ここで聞いてみることにした。
「あの、そういえば一つ気になってたんですが、如月さん」
「ん? なーに?」
どこか拗ねたような声色に苦笑して、大樹は問いかけた。
「いや、あの、別に構わないんですが、どうして急に俺への呼び方が変わったのかな――と」
「え……? 何のこと?」
玲華がキョトンと小首を傾げている。その様子からどうやら、無意識にやっていたのかと大樹は不思議がった。
「いや、俺のこと先週までは苗字で呼んでいたじゃないですか。それが今日――というより、前のメッセージのやり取りから急に名前で呼んでくるようになっていたので、少し不思議に思いまして……」
大樹がそこまで言うと、玲華はボケッとした顔になったかと思えば、再び首を傾げた。
「――え……?」
つられて大樹も首を傾げた。
そこから十秒ほど固まっていた玲華は、口をパクパクとした末に、目に動揺の色を浮かべて、恐る恐る聞いてきた。
「わ、私、今日、大樹くんのこと何て呼んで――……え」
恐らく大樹をどう呼んでいたか聞こうとしたのだろうが、聞きながら玲華はその呼称を口にしたことに気づいたようだ。
「今言った通りに、その――苗字でなく俺の名前を」
その瞬間、玲華が口をあんぐり開けて固まったかと思うと、見る見る内に顔が真っ赤になった。
「ええ、嘘!? な、なんで――!?」
どうやら本当に無意識だったようで、玲華はそのことに気づいてテンパり始めた。
「え、どうして!? なんで――ああ、ううん。そ、そのごめんなさい! 大樹くんの了承もなく――ああ、また!?」
見てわかるほどに取り乱し始めた玲華に、大樹は苦笑しながら落ち着かせるように言う。
「あの、さっきも言いましたが、別に構わないんです。ただ、急に変わったものだったから、驚いて、どうしてって思っただけで――」
そう言っても玲華はアワアワと口を動かし、落ち着く気配が無く、大樹はとりあえず、待つことにした。
「な、なんで? なんで私、大樹くんのこと大樹くんって呼んで――ああ、また!? え、何で――そうよ、確かに柳くんって呼んでたはずなのに――」
玲華は慌てながらもブツブツとし始めて、一人考え込み始めたかと思うと、急にハッとなった。
「あ、ああ――!? 麻里ちゃんね!? だから、麻里ちゃんあんなに大樹くんって――」
何やら思い当たることがあったようだが、どこかショックを受けている様子の玲華に、大樹は静かに声をかけた。
「えーと、如月さん? 何でか聞いても――?」
そこでハッと我に返った玲華は、気まずそうな顔になったかと思えば、決まり悪げにボソボソと話し始めた。
「えっとね……? そ、その――いつの間にか移っちゃったみたいで……」
その答えを聞いても大樹は首を傾げるしかない。何故なら大樹が玲華と一緒にいる時に他に誰かが一緒にいた覚えなどないからだ。強いて言えば、このマンションのコンシェルジュである、鐘巻ぐらいである。
「……? 一体、誰から移ると……?」
「うっ……そ、その、私の秘書の子なんだけど……」
「はあ……どうして、その秘書の子から俺の名前が……?」
大樹からのもっともすぎる疑問に、玲華はますます気まずげな顔になった。
「――そ、その……大樹くんとのこと色々話してたら、その子が大樹くんのことそう呼び始めたりして……」
「はあ……」
言ってることはわかった気もするが、どうしてそうなったのかはサッパリわからなかった。
「と、とにかく、そのせいで移っちゃったの! ごめんなさい! 大樹くんの断りもな――ああ、また!」
謝ろうとした玲華がまたそう呼んだのを見て、大樹は思わず噴き出してしまった。
「ふっ、はは――いや、いいですよ。さっきも言いましたが、別に構いませんって。好きに呼んでください」
「う、うう……いいの、本当に――?」
消え入るような声で俯きがちに問われて、大樹は微かに笑みを浮かべてしっかりと頷いた。
「構いませんよ――大体、地元の友達なんかは大樹で呼び捨てが殆どなんですから、如月さんがダメなんてことありませんよ」
「そ、そっか……でも、断りもなく呼んじゃって――ごめんね?」
しおらしくそう言ってくる玲華は可愛すぎた。だけでなく、玲華は水着姿であり、更には湯船に浸かっているせいで、軽く汗ばんでおり、色気が過剰放出されている。ふと気づけば、首元に浮かんだ汗が水滴となっていて、そのすぐ下にある深い谷間へと吸い込まれるように流れるのを目にしてしまい、大樹はまたも目が釘付けになりそうになり、慌てて目を逸らした。
「い、いや、あの気にしてないので、如月さんもどうか気にせず好きに呼んでください」
「……うん、ありがと」
そう言ってニコッと微笑んだ玲華がまた、女神の如く美しく見えて大樹は意識ごと目を奪われてしまった。
「……大樹くん?」
小首を傾げた玲華にそう声をかけられて、呆然としていた大樹はハッとする。
「あ、ああ、すみません。ボーッとしちゃって」
「ううん。のぼせちゃった? もう出る?」
「ああ、いえ……一回冷水でシャワー浴びましょうかね。その後もう一回だけ、湯で暖まってから出ることにします」
「そっか。私も一回水浴びたいかな。ねえ、一緒にシャワー浴びようか」
悪戯っぽく言ってくる玲華に、大樹は一瞬回答に詰まったが、なんとかニヤリと返した。
「いいですよ――では、先に出ますね」
言ってから大樹は素早く湯船から出ると、一つしかないシャワーまで足早く移動する。
「あ、ちょっ――ズルいわよ!」
ザバッと玲華も出てきて、大樹を追いかける。
以下、音声のみで二人のバカ(ップル?)ぶりをご鑑賞ください。
「キャー! やると思った! 冷たーい!!」
「水も滴るいい女ってやつですね」
「待って待って、止めて――!」
「水を浴びに来たんですから、止める必要性がわかりませんね」
「気持ちいいけど、そんな風に向けられ続けるのは嫌ー!!」
「かけて上げてるのに、何を言うんですか」
「面白がってやってる人が何言ってんの――!」
「そんな面白がってるだなんて――」
「その惚けた顔やめなさーい! この――!」
「うわ!? っははは! ちょ、くすぐるのは無しでしょ!?」
「そんなの聞いてないしー! いえーい、攻守逆転ー!」
「うわ、ちょっ――ふふん、水を浴びたかったとこだったんですから、何とも心地よいですね」
「ほほう――? これなら、どうだ!?」
「ああ! ちょ、耳は反則でしょ!!」
「反則なんてありませーん! へいへーい!」
「ちょっ――!? 交代! もう交代!!」
「ダメー! ずっと私のターン!」
「ここでそのフレーズを聞くとは――!?」
「悔しかったら、私からとってごらんなさーい」
「この――」
「きゃははは!? ちょ、ちょっと、セクハラよ、セクハラ!」
「如月さんから先にやってきたというのに、良く言えますね……」
「この場合、男と女じゃ、違うのは当たり前でしょー!?」
「そんなの知りませんね」
「何よー! 知ってるんだからね! 大樹くんが私のおっぱいチラチラチラチラ見てたの知ってるんだからね!」
「な、な、なな、何のことだか、わ、わかりませんね……」
「わかりやすいほど、動揺してるんじゃないわよ! このおっぱい星人!」
「し、仕方ないでしょうが! そんな立派なもん目の前にして見ずにいれる男なんて男じゃありませんよ! 大体、如月さんが綺麗過ぎるんですよ! プロポーション良過ぎるんですよ! そんな人が水着になったら目を奪われるなんて当たり前のことでしょうが!」
「ひ――開き直ったわね!?」
「自分から振っといて、何で赤くなってるんですか」
「う、うるさーい!!」
その後もギャーギャー騒ぎながら水を浴びせ合った二人はグッタリしながら、冷えた体を湯船で暖めたのであった。
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