第三十三話 こんなものではないんです
「ふう――ごちそうさまでした」
「はーい……」
三杯目を食べ終えた大樹が満足しながら手を合わせると、玲華が不貞腐れた顔で返事をした。
その声を聞いて、大樹は苦笑を浮かべずにいれなかった。
「いや、だからいつでも食べれるものじゃないですか」
「だーかーらー! 食べたい時に、目の前で見せつけられたのが辛いの!」
「そうは言ってもですね……なんなら明日の朝にでも食べればいいじゃないですか」
「ええ! 大樹くんが寝てる間に食べてやるもんね!」
やけくそ気味に言う玲華に、大樹は苦笑を深める。
「是非、そうしてください。俺は起きるのはゆっくりになると思いますし」
そこで玲華は気づいたような顔になった。
「あ、起きるのは本当にゆっくりでいいからね。無理して早く起きなくていいからね」
「ええ、そうさせてもらいます」
「うん――じゃあ、お風呂入る?」
「ええ、是非」
大樹が前のめりに返事をすると、玲華は噴き出し気味に頷いて、浴室の場所へと先導する。
「あ、そうだ。大樹くん、悪いけど、これ着て入ってくれる? あ、体洗った後でいいから」
そう言って手渡されたのは、短パンタイプで落ち着いた柄の水着である。
「別にかまいませんが……どうしてか聞いても?」
風呂に水着だと開放感が減るので、気が進まないながらも頷いて大樹は理由を聞いてみる。
すると玲華は得意気にその豊満な胸を張って、悪戯っぽく言うのである。
「ふふーん、露天風呂に浸かりながら……冷えたお酒飲みたくない?」
「!!」
大樹が目を見開いて驚きを表すと、玲華はウィンクして茶目っ気たっぷりに言った。
「大樹くんがゆっくり浸かり始めたタイミングで持ってきてあげるから。だから、これ着て待ってて?」
つまりは風呂に入っている大樹に玲華が酒を持ってきてくれるから、そのため素っ裸でなく水着を着ていろということである。
「お、おお……テレビや漫画ではよく見かけますが、現実的にはなかなか難しい、あのシチュエーションでの酒ということですか」
「そういうこと。納得した?」
「納得しました。それ着て待ってます」
即座に頷いた大樹に、玲華は微笑んだ。
「うん、じゃあ――私も用意してくるから。さあ、入ってて」
「わかりました」
そんな訳で大樹は水着を持って中に入ると、体を洗ってから水着を着て湯船に入ったのである。
「あああああー……」
少しばかり水着が鬱陶しく感じるが、やはり露天風呂は最高であった。その上――
「すげえな、この夜景……」
前に玲華と一緒に見たが、暖かい湯に浸かりながらの夜景はまた一味違うように感じた。
と言うよりも、前回夜景を見た時は夜景以上に綺麗だと思わされた存在が隣にいたので、そちらが気になって夜景に集中出来なかったという面があったが、今は一人なのでゆっくり夜景を堪能出来る。と言っても前の時が悪かったという訳ではない。
そして首から上には適度にいい風が吹いて、良い具合に涼しさをもたらしてくれる。
「あー極楽……」
背を岩に傾けて、体が浮かび上がりそうになるほど足を大きく広げて、一人だけのこの湯船をこれでもかと堪能する。
そして目を閉じて静かに湯に浸かり、疲れのせいでウトウトしそうになった時、この露天風呂に通じる扉からコンコンとノックの音が響き、すぐに玲華の声も聞こえてきた。
「大樹くん、水着着てるー? 入って大丈夫ー?」
ハッとして大樹は、自分の下半身を確認した。着心地が良かったせいか、湯に集中している内に水着のことをいつの間にか忘れてしまっていたようで、着ているのかわからなくなって、思わず確認してしまったのだ。
「大丈夫です、ちゃんと履いてますんでー」
大樹が声を返すと「はーい」と声が聞こえて、続いて扉が開かれ、玲華が姿を現したところで大樹は口を半開きにしてボケッとしてしまった。
「じゃーん――おまちどお」
玲華は髪を丸めてアップにして片手に酒が入っているであろう徳利を載せた盆を持ち、もう片手は自身の水着姿を披露するように腰に当てていた――そう、水着姿をだ。
トップは黒のビキニで、下には透けるような黒い生地に白い花柄が描かれたパレオを巻きつけていた。
大きいとはわかっていたが、ビキニで包まれているその豊満な胸は圧巻で、深い谷間を作っており、その胸部の大きさに反して、腰は見事にくびれている。そしてパレオからチラリと見える生足は白く、そして細いことはわかるがしっかり肉もついていて、下品にならない範囲でムッチリしていて――総じて、玲華からは洒落にならないレベルの色気がこれでもかと放出されている。
大樹は抜群のプロポーションを持つ玲華のそんな艶姿に文字通り悩殺されたかのようになって、ボケッとしながら、失礼になるということすら頭から吹き飛んで、凝視してしまっていた。
大樹がそうなって一分近くも経った頃だろうか、大樹の反応を待っていた玲華が頬を染め、腰に当てていた手で胸を覆い、身じろぎしながら恥ずかしそうに俯きがちに言ったのである。
「あ、あの――そ、そこまでジロジロ見られると、さ、流石に恥ずかしいんだけど……」
そこで大樹はようやく我に返って、慌てて目を逸らした。
「す、すみません……つ、つい……」
「う、ううん……私も驚かせようと思って言わなかったのもあるでしょうし……」
「そ、それですよ。その格好は一体――?」
大樹が疑問を口にすると、玲華は頬を染めたまま茶目っ気のこもった笑みを浮かべた。
「ほ、ほら、お酌しようと思ったら一緒に入った方がいいでしょ? それなら、水着着て一緒に入っちゃえって思って……一人の方がよかった?」
最後は不安そうに聞いてきて、大樹は勢いよく首を横に振った。
「そんな、とんでもない! 如月さんが酌してくれるのは嬉しいですし、ありがたいです。それに水着姿も見れて最高としか言えません」
「そ、それなら良かったけど……うう、ちょっと恥ずかしくなってきた……」
そう言ってモジモジと恥ずかしがる水着姿の玲華は、それはもうとんでもない破壊力で、大樹は一瞬理性が遠のきかけた。
寸でのところで踏み止まれた大樹は、顔を引き攣らせながらなんとか口を開いた。
「も、もうジロジロ見たりはしないので……」
「そ、それはそれで……」
玲華がボソッと呟いたようだったが、浴室だったせいかよく聞こえなかった。
「え? すみません、今なんと……?」
「う、ううん。何でもないわ――じゃ、じゃあ、隣失礼するわね……?」
「ど、どうぞ――と言っても、如月さんの風呂ですが」
大樹が苦笑しながら体をズラすと、玲華は気が抜けたように微笑んだ。
「ふふっ、それもそうだったわね」
そして玲華は湯船に浸かったままの大樹の傍まで来ると、段になっているところに盆を置いて、桶でかかり湯を済ませ、白くて長い綺麗な足を浴槽へ伸ばした。
その際に至近距離で見えた玲華の生足に、大樹の喉が思わずゴクリと鳴った。
「ああっ――ふうー……」
拳一個分ほどしか空いてないすぐ隣で体を湯船に沈めた玲華が、ホッとしたように声を漏らした。
その吐息が当たった訳でもなく、声を横で聞いただけだというのに、大樹の背中にゾクゾクとしたものが走る。
(――っく……お、落ち着け、我が息子よ)
大樹は自己主張を始めようとする自身の分身とも言える一部を戒めようとしていた。
流石にすぐ隣にいる玲華の前で、水着の下でとは言え、完全体を披露などみっともなさ過ぎて出来ない。
「ふー、何回も入ってるけどやっぱり露天風呂って気持ちいいわね」
大樹が激しい葛藤をしているなど露知らない玲華が無邪気に微笑みかけてくる。
「え、ええ。おまけに、ここはいい風が吹いて、本当に気持ちいいですね」
「ね。ここいい感じに風吹くよね」
大樹は頷いて同意を示しながら、外見では湯を堪能するように目を閉じた。
何故ならふと目を斜め下にやれば、玲華の見事な深い谷間が見えてしまうからだ。
(ここは温水プール、ここは温水プール……)
風呂だと思うから興奮してしまうと考えた大樹の苦肉の策だ。
プールなら、温水プールなら水着女性が近くにいてもおかしくなく、更には興奮するのはマナー違反なのだからと。
それが功を奏したのか、大樹の興奮は少しばかり落ち着いて、目を開いてホッと安堵の息を吐いた。
そこで玲華が頬を染めながらジロジロとこちらを見ていることに気づいた。
「……如月さん? どうかしましたか?」
「あ、ごめん! えと……大樹くん筋トレが趣味って言ってただけあって、すごい体してるなって思って――あはは」
誤魔化すように笑いながらそう言われて、大樹は自分の錆びれた筋肉に目を落としてため息を吐いた。
「そう言ってくれるのは嬉しいですが……如月さん、誤解しないでいただきたい」
「え、誤解って何が……?」
キョトンとする玲華に、大樹は真剣な顔になって言った。
「俺の筋肉は本来、こんなものでは無いんです。仕事が忙しくなって、筋トレの量も減らさざるを得なくなり、今はこんな貧相な体に……」
大樹が慙愧に耐えない顔で絞り出すように言うと、玲華の頬がヒクッと引き攣った。
「な、何言ってるのよ! 私から見たら十分マッチョマンよ! 間違っても貧相だなんて思ってないから!」
「いや、しかし……」
「大丈夫だから! さっきも大樹くんの体すごいなって見惚れちゃってたんだもん!」
「む、そ、そうですか……」
「うんうん。腹筋だって湯船越しでも割れてるのハッキリわかるし!」
「いや、しかし、この腹筋だって、本当なら――」
「あ、ねえ、大樹くん! それより、ほら、これ!」
そこで玲華が振り返って、盆を持ち上げて、湯船の上に浮かべてみせた。
「ふふっ、どう? すごく、ぽいでしょ?」
得意気な玲華の声に、大樹は筋肉のことを頭から片隅にやって強く頷く。
「ええ……! これが出来る日が来るなんて……!」
目の前の光景に目が釘付けになる大樹に、玲華はコロコロ笑う。
「あはは、大げさじゃない? さあ、これ持って?」
そうして手渡されたお猪口を大樹が持つと、玲華は徳利を持ち、大樹へ向けて傾ける。
トクトクと流れる音が響いて、お猪口が満たされる。
「はい、どうぞ」
「――いただきます」
大樹はお猪口を口につけると、グッと一気に傾けて中身を口に流す。
清涼で澄んだ香りが鼻を突き抜け、甘口の酒が喉を通っていく。火照った体に冷えた酒は正に甘露であった。
「――っはあ! 美味い――!!」
飲み干した大樹は堪らず、叫びかねない勢いで言った。
「ふふっ――よかった。さあ、こっち向けて?」
玲華が嬉しそうに微笑んで、次を注ごうとしてくれる。
「ありがとうございます――ああ、本当美味い」
お猪口を傾けてまた一口含んだ大樹はしみじみと言う。
「うんうん、大樹くんは本当に美味しそうに飲むよね。注ぎ甲斐があるわ」
ニコニコとしながら玲華は嫌な顔一つせず、大樹が飲み干す度に、酌を繰り返してくれる。
そうやって暫くは大樹が酒を飲み、玲華が注ぐという時間が静かに過ぎていったのである。
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