第三十二話 後になってこの時に落とされたと彼は語った

 

 

 

「気を使ったりして何か買ったりせず、真っ直ぐ手ぶらで帰ってきて、か……」


 大樹は仕事を終えて、駅からの帰り道を歩きながら呟いた。

 それを言った玲華が住む高層マンションは既に目に入っている。

 と言うより、駅を降りて少し歩けばすぐに見える。何せ高いからだ。


「いくら、アパレル系でもある会社だからって、着替え全て任せるのはどうなんだ……?」


 心中の複雑さを吐き出すように、ため息も漏らす。だが、苦笑気味にだ。

 玲華は大樹の風呂に上がってからの寝るためのラフな服に、明日出かける時に着る服も一式会社から持ってくると言い張り、遠慮しようとしたが、大樹は結局それに甘えることになった。


「まあ、会社に転がってるやつだって言ってたしな……そう大したものじゃない……だろ」


 大樹は自分でもあまり思っていないことを敢えて呟いた。自分に言い聞かせるように。

 そうこうしてる内に、マンションのエントランスの正面玄関に着く。


『いらっしゃいませ、柳様』


 そんな鐘巻の声が、どこにあるかわからないスピーカーから聞こえてきて、同時に扉が開く。

 思わず苦笑を浮かべて、大樹は中へ入る。

 そして前に来た時と同じようにカードキーを渡されて、エレベーターへ促された。

 前回と違うのは説明が簡略化されていたことともう一つ、カードキーの効果が今日と明日の二日間あるということだった。


 そしてエレベーターを降りて、長い廊下を歩き、玲華の部屋のインターホンを鳴らす。

 するとそれが鳴り終わる前には、扉が開かれた。


「いらっしゃーい」


 輝くような笑顔で玲華に迎えられて、大樹は胸が高鳴ると同時に、どこかホッとするような矛盾を感じてしまった。


「こんばんは」


 大樹が会釈しながら告げると、招かれるまま足を進めて、扉を潜る。そこで今日の玲華の全容がようやく見えるようになる。

 紺のノースリーブのワンピースを着て、黒く艶やかな長い髪は背に垂らしている。

 家の中で見る時はいつもノースリーブなのは、部屋の温度が常に快適に設定されているからだろうか、楽そうだからか。単に好みの問題か。

 何にせよ目に麗しいことに変わりなく、そして今日も玲華は美人だった。


「ええ、こんばんは。そして、お疲れ様。さあ、靴脱いで入って?」

「はい――お邪魔します」


 ネクタイを緩めながら靴を脱いで上がったところで、玲華が気づいたような顔になる。


「そういえば、くんは、仕事終えて帰ってきたとこなのよね?」

「え――あ、は、はい」


 RINEでメッセージをやり取りした時と同じように名前で呼ばれて驚きながら、大樹は今更なことに頷く。すると、玲華は少しおかしそうに微笑すると、ふんわりと言った。


「じゃあ、ここは『いらっしゃい』じゃなくて――おかえり、かな? おかえり、大樹くん」


 その言葉を受けて大樹は何故だか、呆けてしまった。


「――大樹くん?」


 小首を傾げる玲華に、大樹はハッとして声を返す。


「あ、は、はい。どうも――」


 すると玲華は軽く噴き出した。


「もう。違うでしょ? こっちはおかえりって言ってるんだから――」


 そう促されても半ば呆けていた大樹には何と返すべきなのかわかなかったが、悪戯っぽい笑顔を向けてくる玲華を見て、次第に冷静になり、そして返す言葉がわかって苦笑する。


「はい――ただいま」

「ええ、おかえり!!」




 ――後になって大樹は述懐する。玲華に完全に落とされてしまったのは、この時――「おかえり」と声をかけられた時だったのではないかと







「ねえ、頼まれてた通りにお米だけ炊いといたけど、それご飯にするの? 何か作るの?」


 大樹から預かったジャケットとネクタイをハンガーにかけながら聞いてくる玲華に、大樹は首を横に振る。


「いえ、こんな時間ですからね。ご飯と何かで簡単に食べようかと思いまして」

「そっか。疲れてるもんね。お昼から何も食べてないの?」

「ええ。さっさと終わらせようと集中してたらいつの間にか時間経ってまして。帰る時になって腹が減ってることに気づいたんですよ」

「あ、だから、一時間前にお米炊いてって言ってきたんだ」


 大樹の会社からここまで一時間かからないほどだ。玲華がそれを知ってる訳ではないが、そういうことなのだろうと察したのだろう。


「ええ。ご飯以外に何かもらっても構いませんか?」

「もう、そんなの一々聞かなくてもいいわよ。家にあるのなら何でも好きに使って」

「ありがとうございます」


 礼を返して大樹は勝手知ったる台所と冷蔵庫の中を確認し、次によく玲華がお菓子やらインスタントやらを引っ張り出す納戸の中にも目を通した。


「――お、この塩昆布もらいますね。あ、この煎餅も一枚だけ」


 大樹が手にとってかざすと、玲華は目をパチパチと瞬かせた。


「え、うん、いいけど――塩昆布に煎餅が一枚だけ……? え、煎餅食べるなら何も一枚だけでなくてもいいと思うんだけど……」


 煎餅はよくスーパーやドラッグストアで見るような、醤油煎餅が個別包装されて大きな袋に入っているやつだ。その内の一枚だけを手にとっているから、玲華はそのように言っているのだ。


「煎餅はそのまま食べる訳じゃないですからね。一枚でいいんですよ」


 大樹は悪戯っぽく笑いながら断ると、茶碗に白米を盛り、冷蔵庫から生卵を取り出した。そして醤油はかき醤油があったので、それを使うことにする。

 それらをテーブルに並べると、玲華の顔に理解の色が浮かぶ。


「あ、卵かけご飯するの? かき醤油でやると美味しいよね」


 白米、生卵、醤油を見たからだろうが、その後に疑問系になったのは、煎餅と塩昆布も目に入っているからだろう。


「ええ――あ、ごま油もいるな、と」


 ごま油も持って来て並べると、玲華が納得したように頷く。


「あ、ごま油かけるのも美味しいよね」

「ええ。流石、卵かけご飯をよく食べてるだけありますね」


 玲華の卵の使用用途が卵かけご飯オンリーと知っての言葉である。


「ふっふーん」


 得意気に笑う玲華に大樹は苦笑すると、ご飯の上で卵を割る。

 そして醤油をかけてかき混ぜる。この前に気になる人は白い塊――カラザをとるのだろうが、これが体に良いものだと知ってからは大樹は自分が食べるのに関しては取り除くのをやめたのである。


「……ごま油はかけないの?」


 大樹がまだ醤油しか入れてないことに玲華は疑問を持ったようだ。


「ええ。それは二杯目に入れます。一杯じゃとても足りませんからね」

「あ、そっか。そうだよね、くん、私よりよっぽど体大きいもんね」


 そろそろ突っ込んだ方がいいのだろうかと大樹は思ったが、今は食べることを優先することにした。かき混ぜる手を止め、次に大樹は醤油煎餅を手にとり、それを自慢の握力で握り潰した。


「――え? ちょ、ちょっと何してるのよ!?」


 目を丸くする玲華の前で大樹は簡単に潰し、小さな塊でいっぱいになった煎餅の袋を開け、それを卵かけご飯の上に乗せたのである。


「ええ!? お煎餅を卵かけご飯にかけちゃうの!?」

「ええ。いけるんですよ、これが――いただきます」


 少しかき混ぜながら答えて、大樹は手を合わせた。

 固唾を飲んで目を向けてくる玲華の前で、一口分を掬って、口に入れる。

 かき醤油で甘く感じる卵かけご飯はそのままに、そこに煎餅の食感が加わるのである。

 大樹が口を動かすと、ボリボリと煎餅が砕かれる音がリビングに響く。

 その音が響く毎に、玲華の目が食い入るようになっていく。

 味に問題ないことを確認できた大樹は、茶碗を口につけてカッカッカと箸で音を鳴らしながら中身をかきこんだ。

 更にボリボリと煎餅が砕けていく音が響き、ついに玲華の喉からゴクリと鳴る。


「お、美味しそうね……ねえ、美味しい?」

「美味くなけりゃ、ワザワザやりませんよ」


 飲み下すと、苦笑しながら大樹は答えて続ける。


「確かに卵かけご飯に煎餅って考えると、『え?』ってなるかもしれませんが、いいですか、煎餅の材料は何か思い出してくださいよ」

「え? 煎餅の材料って――あ! お米!?」

「ええ――って言っても、米がメインでない煎餅もいっぱいありますが、日本人からすると、煎餅には米を感じさせるところがあります。そしてこの煎餅は醤油煎餅で、つまりは――」

「醤油で食べる卵かけご飯に混ざっても、違和感ないってこと……?」

「ええ。だけでなく、相性としても良いと言ってもいいでしょう」

「な、なるほど……」


 納得しながら再び喉をゴクリと鳴らし、大樹の手元を凝視してくる玲華。


「……ええと、食べたいなら食べてもいいんじゃ……?」


 少々、食べ辛く感じてきた大樹がそう言ってみると、玲華が悔しそうに口を開く。


「こんな時間に食べたら太るじゃない――!!」

「そ、そうですか……いや、失礼しました」


 ならば今は諦めるしかないのではと思った大樹が、食事を再開しようとすると、対面に座っていた玲華が隣の席に移動してきて、モジモジしながら言った。


「だ、だから、一口だけ、ちょうだい――?」


 そして期待に目を輝かせながら口を開けて待機する。餌が来るのを待つ雛鳥のようだ。

 大樹は一瞬呆けてしまった。本日二度目である。


(くそっ――! 可愛いかよ)


 なんとか平静を装うことに成功した大樹は、一口分、ちゃんと煎餅のかけらが入っているのを確認したそれを、玲華の口に入れてやる。


(……卵かけご飯を人に食べさせるなんて、なかなか無いな……)


 もちろん、大樹にとって初めての経験で、恐らくは食べさせてもらってる玲華も初めてではないだろうか。

 その玲華は口に入れてもらったその一口を慎重に咀嚼する。大樹と同じくボリボリと音が響く。

 噛み進める毎に、玲華の目が驚きに見開かれていく。


「――お、美味しい! 煎餅入れただけなのに、美味しいのね、これ!!」

「でしょ?」


 大樹は得意気に笑うと、再び茶碗を口につけて、一気に残りをかきこんでいく。


「あ、ああ……」


 その様子を玲華が名残惜しそうに眺めている。どうやらまだ食べたかったようだが、一口だけと言ったのは玲華である。

 苦笑しつつ大樹は一杯目を食べ切った。


「――っはあ。うん、美味い。夜食にもいいですよね、卵かけご飯って」

「うん……そうね……」


 少し拗ねたような玲華が相槌を打つのを横目に、大樹は二杯目にとりかかる。

 新たに盛ったご飯に今度は塩昆布をかけ、そしてそれを混ぜる。ご飯の中で蒸らした方がいいためだ。


「今度は塩昆布を使うのね……? それもやっぱり美味しいのよね……?」

「ええ。まあ、見ててくださいよ。簡単ですから」


 興味深そうに手元を覗き込んでくる玲華の前で、大樹は次にごま油を軽くかけて、その上で卵を割って、かき混ぜる。これに醤油はかけない。


「ねえ、さっきも気になってたんだけど、黄身にくっついている白いのとらないのね?」

「ええ。実はこれは体に良いものでしてね。よほど気に入らないってことがなければ、食べた方がいいんですよ」

「え、そうなの!?」

「ええ。免疫力の向上に、美肌効果が代表的なものですね」

「こ、これに美肌効果があったなんて……!」


 ワナワナと震える玲華に、大樹は苦笑する。


「まあ、量的には知れてますからね。そう気にする必要もないですよ」

「で、でも今まで捨ててきた量を考えたら……」


 ガックリと項垂れる玲華を横目に、大樹は苦笑を深めつつ混ぜ終えた卵かけご飯を一口食べる。

 醤油をかけてないのにも関わらずしっかり味を感じるのは、塩昆布の塩気があるからだ。そこにごま油の風味が加わり、更に塩昆布そのものの旨味がこれでもかと存在を主張をする。


「うむ――やっぱり、これが一番かもな……」


 卵かけご飯の食べ方では、大樹はこれが一番好きである。

 続いて茶碗を口につけてカッカッカと食べ進める――のを、玲華がそれはもう目を爛々とさせながら見ている。


「――だ、大樹くん、大樹くん……!」


 我慢できないと言わんばかりに大樹の腕を掴んで揺さぶってくる玲華。


「――なんですか?」


 大樹は空惚けながら聞き返す。


「ひ、一口! 一口ちょうだい!!」


 言ってから口をパクパクと開け閉めする玲華に、大樹は一瞬悪戯心が湧いたが、玲華の必死さから後が怖くなってやめておいた。

 大樹は先ほどと同じように、一口分を掬って玲華に食べさせてやる。

 そして咀嚼して、先ほど以上に驚き目を見開く玲華。


「こ、これ――!! 滅茶苦茶美味しい!!」

「でしょう? 俺の一番お気に入りの食べ方ですよ」

「こ、こんなに美味しい食べ方があったなんて……! 今まですごく損した気分!」


 歯噛みして悔しそうにする玲華に苦笑し、大樹は茶碗を口につけて、残りを一気にかきこんでいく。


「ああ……」


 玲華は手を伸ばしかねないほど、名残惜しそうに空になっていく茶碗を眺めていた。


「――ふう。いや、いつでも食べれるでしょ、こんなの」


 二杯目を平らげた大樹が突っ込みがてら言うと、玲華は拗ねたように唇を尖らせた。


「そうは言ってもね。そんなに美味しそうに食べてるの見たら食べたくなっちゃうの! でも、こんな時間にお茶碗一杯なんて食べたら太っちゃうし――もう!」


 玲華が苛立ちをぶつけるように、大樹の腕をペシンと叩く。


「はは、それはすみませんね――じゃあ、三杯目っと」

「ま、まだ私に食べるところを見せつける気なの!?」


 玲華が恐れ慄いた顔で叫ぶのを聞いて、大樹は思わず噴き出したのであった。

 

 

 

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