第二十六話 先輩これはどういうことですか

 

 

 

「おい、柳!! どういうことだ、これは!?」


 昼下がり、大樹達が働く一室に、そこで働く全員に聞こえるような怒声が響く。

 実際、何人かビクッとした。が、一瞬振り向いたかと思えば、いつものことかとすぐ自分の仕事に戻る。

 そんな中で、呼ばれた大樹は動揺などまったく無く、目は正面の液晶に向けながら、手はキーボードを叩きながら至って平静な声で返した。


「なんですか、課長」


 大樹の班のデスクの島と、大樹が問い返した課長の席はそこそこに離れている。

 なので、課長はいつものようにこう言う。


「なんですかじゃねえ! こっちに来い!!」


 そして大樹もいつもと同じようにこう言い返す。


「今手が離せませんので、用があるなら課長がこっちに来てください」


 上司に対して言うことでは無い。大樹も勿論、承知の上であるが、半分ワザと、半分は本気で言っている。


「ああ!? お前が来いって言ってんだよ、さっさと来い!!」


 大樹は聞かなかったことにして、仕事を続ける。

 どうせ碌な用事でないのはわかりきっているからだ。

 この課長は二代目のクソ社長が採用を決めた男で、日常茶飯事のようにパワハラ、罵倒を繰り返す。部下の手柄は自分のもの、自分のミスは部下のものを当たり前のように地で行い、上には受けが良く、下からの評判は最低という、典型的に嫌な上司というのがこの男――五味ごみ課長である。


「おい、柳! 無視してんじゃねえ!!」


 反応しない大樹に五味が大樹に向かって何度も叫ぶ。いい加減鬱陶しくなった大樹が叫び返す。


「うるせえな!! 用があるならお前から来いって、いつも言ってんだろ!!」


 五味の声よりも大きく迫力もあるその声の方が、周囲に迷惑になりそうなものだが、大樹の見えてる範囲だけでも、拳を握ってガッツポーズをとっている同僚が何人かいる辺り、迷惑に思っているのは少数だと思われる。大樹の班員である後輩達は言うに及ばずだ。噴き出しそうなのをなんとか堪えている様子。


「てめえ! 誰に向かって、んな口きいてんだ!?」

「お前以外に誰がいる!? んなこともわかんねえのか!? いいから、用があるなら、さっさとこっちに来い!!」

「き、貴様……」


 五味は埒が明かないと思ったからか、顔を赤くして歯を食いしばるように唸りながら立ち上がり、大樹の席にドシドシと寄ってきたのである。苛立ちをぶつけるように大樹の机を軽く蹴って、荒々しく声をかける。


「おい! 先週にやれと言っておいた、RI社の仕事まったくやってねえじゃねえか、どうなってんだ!?」


 大樹は五味の方を見向きもせず、目は液晶に、手はキーボードを叩きながら考えた。


「RI社…………ああ、それはうちでは手一杯で引き受けれないと断ったやつですね。課長まだやってなかったんですか?」

「ふざけんな! 俺はお前にやれと言ったはずだ!!」

「だから、さっきも言ったでしょうが。こっちは手一杯だから、引き受けれないと。俺は最初から最後まで断わりましたし、引き受けるの一言だって言っちゃいませんよ」

「ふざけんじゃねえ! 俺がやれと言ったらやれ!!」


 そこで大樹は、これ見よがしに大きくため息を吐いて見せた。


「いいですか、課長。無理だから無理だと言ってるんです。やれと言われても出来ないことは出来ないんです。何度言ったらわかるんですか」

「この――! そういう話をしてんじゃねえ! 俺がやれと言ったらやるんだよ!!」


 そこで初めて大樹は五味の方を見る。その目はどこまでも蔑んだ目をしていた。


「課長が忘れているようだから言いますが、AR社、FK社、OJ社、SK社――俺含めて四人の班で、これだけの仕事抱えていて、どうやったらその上に他の仕事が出来るってんですか……その仕事なら課長がやればいいでしょう。どうせヒマなんでしょう?」

「ふっざけんな! 誰がヒマだあ!?」

「毎晩のように飲み歩いてるって話をよく聞くんですが……ただの噂だったんですかね?」

「だ、誰がだ! んなことある訳ねえだろうが!」

「そうですか、今日遅刻してきたのはてっきり二日酔いのせいだと思ってましたが……違ったんですね、これは申し訳ない」


 大樹が慇懃無礼に頭を下げると、五味は吐き出そうとした言葉を飲み込んで横柄に頷いた。


「ああ、ただの噂だ――という訳で、俺は忙しい。お前らで何とかやれ」


 何がという訳なのかサッパリわからないが、その物言いに大樹は言い返した。


「ふむ……課長は忙しいから、その仕事が出来ないと言うんですね?」

「ああ、そう言ってんだろ」

「その理屈で言うと、俺達も忙しいから出来ませんと言えますね。実際的にその通りな訳ですし。という訳で、その仕事は俺達では引き受けかねます。話は終わりですね」


 そう言って大樹が液晶に目を向けて、再びキーボードを叩き始めると、五味は呆気にとられたような顔からすぐ沸騰したように赤くなった。


「ふざけんな! だったら誰がこの仕事やるってんだ! 会社に損害出す気か、てめえ!?」

「知りませんよ。第一、その仕事だって課長が後先考えずに、引き受けてきたもんでしょうが。損害が出たとしたら、それは課長のせいでしょう。大体、今俺達が抱えている仕事も課長が軽々しく引き受けた癖に、出来ないからと言って無理してやってる訳ですが……課長、いい加減、自分のケツは自分で拭けるようなってくれませんかね? いい年なんですから」

「こ、この――」


 プルプルと震えて、今にも爆発しそうな五味に大樹は機先を制して言った。


「ほら、席に戻って仕事したらどうですか。時間が勿体ないですよ」

「てめえ、柳――」

「RI社の仕事の内容、目は通してます。俺達と同程度に頑張れば、期限までに課長でも終わらせられますよ。なので――頑張ってください」


 最後の一言を強く睨みつけながら告げると、五味は大樹を睨み返した末に、舌打ちをして再度、大樹の机を蹴ると踵を返して、自席に戻ったのである。


(やっと、うるせえのが居なくなった……)


 そう内心で独り言ちると、周りからホッとしたような音が聞こえてきた。


「ちょっと、先輩、いくらなんでも言い過ぎじゃないですか……?」

「先輩がワザと怒らせてるのわかってるつもりですが……」

「聞いてるこっちはかなりスカッとしますが、なかなかヒヤヒヤしますね、確かに」


 綾瀬、夏木、工藤が心配そうに次々に声をかけてくる。

 大樹は心配いらんと手を振る。


「半分はワザとでなく、本気も混じってるし、あのゴミがいくら怒ったところで、俺の状況はこれ以上悪くならんから心配するな。クビにしてくれるなら望むところだが、どうせ、あいつにそんな真似はできん」

「……ですね。先輩がいなくなって一番痛いのって、あの課長ですもんね」

「先輩がいるから仕事アホみたいにとってきて、先輩にやらせてますしね」

「そんで先輩が仕事終えたら、俺の采配っぷりだとか言って、手柄全部持っていきますもんね……」


 「つくづくゴミ課長ですね……」と後輩達が五味の苗字を揶揄しながら揃って長い息を吐いた。

 年上相手に大樹は滅多に乱暴な口調は使わないが、五味相手は別だ。強く反論しないと、冗談抜きで仕事に押し潰されて死んでしまうからだ。

 現に大樹はこのあいだ、帰りに倒れてしまったほどなのだ。

 他にも理由はある。辞めていくことを考えたら、それまでは五味のヘイトを徹底的に自分に向けて、同僚のストレスを少しでも軽減しておこうというものだ。後輩達に向かせないためでもある。


「とにかく、お前らはあのゴミのことなんか気にするな。仕事に戻れ」


 大樹がそう言うと、後輩達は肩を竦めて「はーい」と返事をする。そこで、隣に座る綾瀬が気づいたような声を出した。


「あれ、先輩。スマホ落ちてますよ」

「……ああ、さっきゴミが机蹴った時に落ちたのか」


 目を向けると、綾瀬の足元に大樹のスマホが落ちていた。


「……最低ですね、本当。割れてなければいいんですが――っと」


 言いながら綾瀬が手を伸ばして拾ってくれて、そっと画面を確認する。


「よかった、割れてません――え」


 大樹のスマホを手にホッと安堵の息を吐いていた綾瀬が、突然ピシッと固まった。


「うん? どうした、綾瀬――?」


 大樹がスマホを受け取ろうと手を伸ばしながら聞くと、綾瀬は動揺したかのように唇を震わせ目を盛大に泳がせて、大樹にスマホをかざして聞いたのである。


「せ、せ、せ、せ、先輩――? こ、ここ、こ、これは一体――?」

「これはって、どうし――あ」


 綾瀬の様子に訝しんだ大樹の目に飛び込んだのは、こないだ玲華にセットされた玲華と腕を組んでいるツーショットの待ち受け写真であった。


(しまった――!!)


 待ち受け画面とは言え、そうそう見られることもあるまいと高を括って放っておいた大樹の誤算である。


「あ、綾瀬、早くそいつを返せ」


 大樹が焦ってスマホを受け取ろうとすると、綾瀬は聞かずに立ち上がって夏木にまでスマホを突きつけた。


「ほ、穂香! 見て、これ――!?」

「んー? 何、めぐ――!?」


 どこか眠そうにしていた夏木の目が途端に見開かれる。そして般若の如き形相を帯び始める。


「先輩!? なんですか、この女は――!?」


 立ち上がってそう問い詰める夏木は、まるで浮気を見つけた妻のようで、大樹は悪いことなどしてないはずなのに、そのような気分になってきた。


「い、いや、別に――というか、お前らには関係ないだろう」


 言い訳をしようとしたが、よくよく考えたらそんな必要もないと思い直しながら、今は工藤も覗き込んでいるスマホを、奪うように手に取った。

 すると俄然と、剣呑な空気を纏い始める夏木と綾瀬の二人。


「あー! そんなこと言う!? そんな風に言いますか!?」

「そうね……今のはちょっと、流石に傷ついたわね……」


 座った目で大樹を強く睨め付けてくる二人に、大樹は少々怯みながら言い返す。


「い、いや、実際そうだろ……俺がプライベートで誰に会おうと、お前らには――」

「せ、先輩! それ以上は火に油――いや、ガソリンです!!」


 工藤が慌てて大樹の言葉を遮る。


「……どうする、恵? 先輩あんなこと言ってるけど……」

「そうね。とりあえずは尋も――話を聞く必要があるわね」

「賛成。じゃあ、まずは今日の仕事を――」

「さっさと片付けて――」


 そこで二人は揃って大樹を強く見つめて、宣言した。


「先輩、今日は飲みに行きますよ!!」

「お、おう――?」


 思わず大樹が頷くと、夏木と綾瀬の二人は猛然と鬼気迫る勢いで仕事を再開したのである。

 大樹が呆然としていると、あちゃあと額に手を当てていた工藤が大樹に同情するような目を向けてきた。


「――工藤くん? さっさと今日の分の仕事終わらせてね?」

「ええ。早く終わらせないと――怖いわよ?」


 夏木と綾瀬の二人に睨まれた工藤は、慌ててマウスを手にとり液晶に目を向けた。


「た――直ちに!!」


 そうやって三人が目を血走らせながら仕事するのを大樹は呆けたように見た末に、思い出したように仕事を再開するのであった。

 

 

 

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