第十九話 素晴らしいですね

 

 

 

「はあー……――」


 暖かい湯に浸かると、どうしても出てしまう声がある。大樹の口から先ほど出たのがそれだ。


「うあー……」


 ちょっと違うのが出たが、誤差の範囲と思われる。


 大樹は今約束してた通り、玲華のマンションの露天風呂に入っている。

 以前シャワーで借りた浴室の脇にある扉を開けると、明るい陽射しが降り注ぐ岩風呂があった。

 話には聞いていたのに、思っていた以上に立派な露天風呂が出てきて、案内された大樹は最初、目が点になってしまい、玲華に笑われてしまった。


 それから玲華は含み笑いをしながら「一時間でも二時間でもゆっくり浸かっていいからね」と、大樹を残して浴室から出ていった。


 ここまで来たのならば遠慮は無用と大樹は逸る心を抑えながら、すぐさま服を脱ぎ、陽射しと風を素っ裸の体に浴びながら、ササっと体を洗い終えて、遂に入浴に至ったのである。

 ガラス張りの柵はこの高層からの景色を邪魔せず、一面に広がる晴天と併せてこれでもかと解放感を大樹にもたらす。そして高層だけあって、風が吹くのだが、それも強過ぎない風が首から上に当たって非常に心地良い。つまり、この状況を一言で表すならば、ありきたりであるが――


「――極楽だ」


 この一言に尽きる。

 大柄である大樹が、体を大の字にしても余りある広さ。

 大樹は頭を手すりに乗せ、今にも浮かび上がってきそうなほど体を広げて弛緩させ、存分にこの浴槽を堪能する。


 日頃の睡眠不足を補うように今日はたっぷり寝てきたが、だからと言って日々の激務による疲労が抜けている訳ではない。そのため、疲労を溶かしにくるようなこの入浴の心地良さによって、大樹はうつらうつらとし始める。

 そんな中で大樹は、先ほどの玲華の言葉に思いを馳せる。


『愚痴りたくなったらいつでも聞くって言ったと思うけど――相談だっていつでもオッケーなのよ』


 玲華の度量の広さというか、器の大きさというか、それを大樹は全身で感じさせられた。


「いい女過ぎやしねえか……? おい――」


 半分寝惚けながらの言葉であるが、だからこそ本心の言葉と言える。


「本当、惚れちまいそうだぜ……」


 続けてそんな言葉を漏らして、大樹は寝入ってしまった。

 

 

 

 

 

 

「如月さん――? 長いこと入っていたようで、申し訳ない。風呂いただきました」


 タオルで頭を拭きながら大樹はリビングの扉を開ける。

 風呂の中で眠ってしまった大樹だが、それほど長い時間経たずに目を覚まし、火照った体を水のシャワーで冷やし、もう一度湯に浸かってスッキリしたとこで出てきたのである。


 頭を雑にタオルでガシガシと拭きながらリビングに顔を出せば、玲華はソファにもたれ、リラックスした格好でテレビを観ていた。


「あ、おかえり。どう? リフレッシュできた?」


 またニコニコと上機嫌な笑顔で迎えられ、大樹は更なる幸福感に見舞われたように感じて、よりリフレッシュしたように思えた。


「ええ、最高でした――あの風呂は素晴らしいですね」


 大樹が力強く言うと、玲華は軽く噴き出した。


「あははっ! うん、最高の感想が聞けて、こっちも準備した甲斐があったわ」

「いや、本当にありがとうございました」

「あはは、もう、そんな他人行儀みたいなのやめてよ。それに夜景観ながら入るのもするんでしょ? いちいちそんなお礼しなくていいから」

「いや、本当に良かったものですから。自然とこうお礼の言葉が出るんですがね……」

「そっかそっか。なら仕方ないけど……まあ、そう頭下げなくていいからね。気楽にしてよ」

「はあ……善処します」

「あっはは、柳くん、それワザとしてない?」


 コロコロ笑う玲華に、大樹は苦笑を浮かべて見せる。


「そうそう、ビール冷えてるわよ。飲むでしょ?」


 その言葉に、大樹の喉がゴクリと鳴る。


「――それを断るすべを、俺は持っていません……」


 深刻ぶって首を振りつつ言うと、玲華は噴き出した。


(あー、笑ってる顔がまた本当可愛いいよな……)


 目尻に涙を浮かべて笑い転げている玲華を見て、大樹は満足しながら頷いていた。

 

 

 

「ねえ、柳くんって、私のこと笑い死にさせようと企んでない?」

「いや、そんなとんでもない」


 ソファ上で玲華の隣に腰を落としていた大樹が殊更驚いた顔を作って否定すると、疑わしそうな目を向けていた玲華の表情が苦笑に変わる。


「まあ、流石にそうよね」

「ええ、まったくです。そんなこと――ちょっとしか思ってませんよ」

「ふふっ、そうよ――うん? ちょっと思ってるんじゃない!?」


 相槌を打とうとした玲華が憤慨する。良きツッコミであった。


「いや、冗談ですよ」

「そりゃ、冗談でしょうけど! もう! いちいちお姉さんをからかうんじゃないの!」


 メッと言わんばかりに指を振ってくる玲華に、大樹は目を瞬かせた。


「……なに、その顔は?」

「いえ――そう言えば、年上だったなと思って」

「な――!? どういうことよ、それは!?」

「どういうも何も……いえ、やめときましょう。とても、俺の口からは言えません……」


 無念に堪えない表情を作って首を振る大樹。


「ちょっ――!? 何なのよ、それは!? また私のことからかってるんでしょ!?」

「そんなとんでもない」

「あーもう、その顔! ビールあげないわよ!」

「――!?」

「ふっふっふ……さあ、このビールが欲しければ――」


 玲華が最後まで言う前に、大樹は躊躇いなく頭を下げた。


「申し訳ありませんでした!」

「謝――って、早いわね!?」


 目を丸くする玲華に、頭を上げた大樹は玲華が手に持つ瓶ビールとジョッキに視線を注ぐ。


「さあ、謝ったのですから、如月さん、早くそのビールを……」


 いけしゃあしゃあと催促する大樹に、玲華は呆れた顔になって次第に笑い始めた。


「もう。まったく、仕方ないわね――ほら、持って」


 差し出されたこれもキンキンに冷えたジョッキを受け取り、傾けて待ちの姿勢を作る。


「はいはい――どうぞ」

「ありがとうございます、いただきます」


 ジョッキにトクトクと注がれたビールを大樹はグッと傾けて、ゴクゴクと喉に流し込む。


「――ぷはっ! かー! 美味え!!」

「あっはは、柳くんって本当美味しそうにビール飲むわよね」

「実際、美味いですからね。それにさっき風呂でたっぷり汗流しましたし」


 口を拭って大樹はジョッキをソファ前のテーブルに置くと、満足感のせいかホッと一息出た。


「しかし、明るい内からビール、それもあんなすごい露天風呂の後に飲むと、贅沢感が半端ないですね」

「ああ、明るい間に飲むお酒って確かにそんなとこあるわよね」

「ええ。如月さんは飲まないんですか?」


 ジョッキを一つしか持ってこなかったことでお察しだが、一応聞いてみた。


「ええ、私は今はいいわ。遠慮しないで飲んで、柳くん」


 そう言ってニコっと瓶ビールを向けてきたので、大樹は「どうも」とジョッキを傾けて受ける。


「なんかおつまみ出そっか? 柳くんの好みわからないから適当に買ったんだけど、ポテチとかスルメとか。いる? それだけじゃ、寂しいでしょ?」


 そんな玲華の気遣いに、大樹は目を丸くした。


「わざわざ用意してくれたんですか?」

「家に呼んだんだから、それぐらいするわよー。で、食べる?」


 当然のように玲華が答えると、大樹は躊躇いがちに言った。


「えっと、じゃあ、いただきます」

「はーい。じゃあ、ちょっと待っててね」


 またご機嫌な顔になって玲華は、ソファから立ち上がって、前にインスタント群を取り出した納戸を開いた。


「あ、柳くんって、コンソメ派だったりする? 私の好みでうす塩買っちゃったのよね……」

「いや、どちらかというと、俺もうす塩派なんで、何の問題もないですよ」

「そ、よかったー」


 ホッとした様子の玲華は、そこからポテチの袋とスルメのものらしき袋を抱えて戻って来た。

 そしてポテチの袋を慣れた様子でパーティー開けして、そこに袋から出したスルメも並べる。


「ポテチは私も食べさしてねー、どうぞ?」


 言った通り、玲華はポテチをつまみながら、大樹に促した。

 会釈して「いただきます」と告げて、ポテチをバリバリ噛み砕く。汗を流したからだろう、塩気が美味い。すかさずビールも喉に流す。ビールの苦みによって塩が際立ち、甘味を感じてしまうほどで、もちろん文句なしに美味い。


「――はあっ」


 至福なため息が零れる。そんな大樹を見て、玲華が満足げに微笑んでいた。

 

 

 

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