第十八話 久しぶりですね

 

 

 

「入るところは確か……ここから周るんだったな」


 大樹はマンションを見上げてから、ロビーだかエレベーターホールだかよくわからないマンションのエントランスに通じる道へと足を進めた。広いせいか、一見ではすぐにわかる場所では無いため、記憶を探ることから始めたので、知らず一人で呟いていた。


「しかし、本当にまた来ることになるとは……」


 前に会った時の、玲華の誘いの言葉が本心だったのはわかる。

 だが、それでも仕事の帰り道に、この別世界を思わせるマンションを見上げる度に、玲華と一緒に過ごしたあの日は夢幻だったのではないかと疑わしく思ってしまったのだ。

 そのため、大樹の中で玲華の誘いが本心だとは思っても、頭の中のどこかであれはやはり社交辞令だったのでは、と考えが寄ってしまうことがあり、休みをとると決めた日が決まっても連絡をするのに躊躇ってしまっていたのだ。


 しかし、どうしたものかと悩んだのも束の間、大樹が休みを決めた次の日の朝には、玲華から気楽な感じに連絡が来たのだ。

 前に会って話した時と同じような調子でのメッセージを見て、大樹は悩んでいたのを馬鹿らしく思いながら気が抜けて、玲華と気軽にメッセージのやり取りをして、今日再訪問することが決まったのである。


 その際のやりとりで、玲華からのメッセージが妙に可愛く思えて、ついからかってしまったが、それも一興だろう。玲華も楽しんでいたように思えたから、仕事の合間ながらつい長々とメッセージのやり取りを楽しんでしまった。

 ただ、そのせいで後輩達から軽く不審がられたのは失敗だったと反省している。特に夏木からの追求が激しかった。誰とそんなに連絡を取り合っているのかと。綾瀬も同じぐらい気にしていたように見えたが、夏木のように問い質してくるようなことが無かったのにはホッとしてしまった。


「俺のプライベートなんか気にしたって仕方無いだろうに……」


 つい独り言ちて、大樹はエントランスに通じる自動扉の前に立つと、てっきりここから玲華の部屋番号などを押して呼びかけてから扉が開くのかと思いきや――


『いらっしゃいませ、柳様。どうぞ、中へ』


 そんな少し聞き覚えのある声が扉横のスピーカーから流れ、自動扉が開かれる。

 驚きながらも大樹は流れに身を任せるように、中へと入る。すると、正面に見えるカウンターに、前に玲華から紹介されたコンシェルジュが、一礼して立っていた。

 先ほどの声はこの人かと思いながら、大樹は近づいて声をかけた。


「こんにちは、えー……確か鐘巻さんでしたね。以前はお世話になりました」


 鐘巻は「いえ」とスッと会釈を返す。


「ようこそいらっしゃいました、柳様。如月様より承っております。こちらのカードキーをお持ちになり、あちらのエレベーターまでお進みください」

「はあ……」


 差し出されるままに大樹はビジネスホテルでも使うような紙質のカードキーを受け取る。


「そちらのカードキーを掲げるとエレベーターが使えます。行ける階は如月様が在宅する階限定になりますが、ご了承ください」

「……なるほど」


 カードキーがなければエレベーターを使うことが出来ないとは徹底している。


「……ん? あれ、帰りに降りる時はどうなるんです?」


 前に帰る時は確か玲華は特に何かをしていたように見えなかったことからの質問である。


「帰りの際や一時的に降りる時、一階に向かう時に関してはキーは必要ありません。そのキーもこちらに返却するか、好きな時に破棄されて構いません。本日のみ使用可能な使い捨てでありますので」

「な、なるほど……」


 これは大樹の知らないところでもっとセキュリティに力が入っているのだろうと思わされた。


「他に何かご不明な点ございましたら、お気軽にお声かけください。如月様へ柳様の訪問の連絡はこちらで致しますので、どうぞ、あちらへお進みくださいませ」


 促され、大樹は丁寧な対応をしてくれた鐘巻に対して会釈し、エレベーターへ足を進めた。

 そしてカードキーをかざし、スッと音少なく開くエレベーターに大樹が足を踏み入れると、目的階のボタンを押してもないのに、そこが点灯されており、扉が閉まるとそのまま登り始めたのを体で感じた。


「……なるほど」


 試しに玲華のとことは関係のない階を押してみたが、反応がない。鐘巻が言っていた通り、カードキーに乗り降りする階があらかじめインプットされていて、そこしか乗り降り出来ないようだ。

 ほとほと関心しながら大樹は呟いた。


「流石、億ションだな。いちいち人を驚かせてくれる」


 エレベーターを降りると玲華の部屋へと向かう。途中で住居者専用エレベーターの前を通りがかった時に、大樹は思わず足を止めた。


「……あのエレベーターに乗るとジムにプールにサウナ……やっぱり天国じゃねえか」


 首を振りながらしみじみと呟いて、大樹は歩みを再開し、ほどなくして玲華の部屋の前に到着する。


 ――ピーンポーン


 ここで初めてチャイムを押したせいか、なんとなく緊張を感じた直後に扉が開かれる。


「はーい、いらっしゃーい」


 扉を開いた玲華がご機嫌にニコニコと、大樹へ歓迎の言葉を告げてきた。

 今日の玲華の服装はグレイのノースリーブのニットに、膝丈の白のフレアスカートと、また非常に目に麗しく、大機は一瞬見惚れてしまった。


「……柳くん?」

「――え? あ、ああ、こんにちは。お久しぶりです」


 我に返って慌てて大樹が挨拶すると、小首を傾げていた玲華がニコっとなった。


「ええ、久しぶり――! さあ、入って」


 招き入れられた大樹は、玲華の後に続いてリビングへ向かう。


(はー……美人なのはわかってたけど、久しぶりに見たせいか? なんか前よりグッと綺麗に見えるような……? いや、それだけじゃないような……)


 久しぶりだったとは言え、玲華の美人具合を知っていたはずの大樹を呆然とさせてしまうような、何かしらの変化があるように感じた。


「ちょうど二週間ぶりだね。昨日もやっぱり出勤だったの?」


 玲華がニコニコと振り返って聞いてきて、大樹は思考を打ち切って返事をする。


「ええ、そうですね。休日出勤もいい加減やめようと思ってますけど」

「そっか。とにかく、無理はしないようにね」

「ええ」


 こちらへ振り返る度に見せてくれる笑顔が、また眩しくて堪らない。


(あー……なんかわかったかも。そうだ、前よりずっと――可愛く見えるんだ)


 それが久しぶりに会ったからなのか、玲華の美人さに多少の慣れが出来たからこそ感じ取れるようになったせいなのか、もしくは今週ちょくちょくメッセージのやり取りをしたせいなのかはわからない。わからないが、わかったところで、大樹の今の胸の高鳴りが収まるとは到底思えないので、考えても仕方ないと、頭を振って、色々と沸き上がった感情や考えを打ち払った。


「まずはコーヒーでも飲む? その後にお風呂入る?」


 リビングに入って、二週間前座っていた席に座るよう手振りで促されながら聞かれ、大樹は少し考えてから答えた。


「先に、久しぶりの如月さんが淹れたコーヒーを飲みたいですね」


 本心でもあるが、茶目っ気を込めてそう言うと、玲華がニンマリと微笑んだ。


「そっかそっか。じゃあ、コーヒー淹れるね。ちょっと待ってて」

「ああ、はい……」


 少しからかい返されるかと思っていたのだが、そんなことなく尚もご機嫌に玲華は鼻歌交じりにコーヒーを淹れ始めて、大樹は少し拍子抜けしてしまった。


(……なんかいいことあったのか?)


 内心首を傾げてそう結論付けた大樹は、ほどなくして玲華が手ずから運んでくれたコーヒーに口をつけた。


「――美味い……」


 ホッとする味だった。香りが鼻を通って体の凝り固まった部分をほぐすような感覚を覚える。


「ふふっ、美味しい? よかった」

「……なんかいいことでもあったんですか?」


 相変わらず上機嫌な玲華に聞いてみると、玲華はキョトンとして小首を傾げた。


「え? どうして?」

「いえ、今日会ってからえらくご機嫌に見えるもので」

「へ……? あ、あー……あはは――」


 何か思い当たることがあったようで、玲華は若干顔を赤くして、誤魔化すような笑みを浮かべながら頬を掻いた。


「えっと、まあ、うん。そうね、いいことあったわ」


 そう言ってニコリと微笑んだのだが、その笑顔にはそれ以上の追及を許さない雰囲気を感じさせられた。


「……そうですか」

「ええ……それよりも、この二週間はやっぱり忙しかった?」


 大樹は空気を読んで、玲華から振ってきた話題に乗ることにする。


「そうですね。受ける仕事の制限を始めたのですが、受けていた仕事がまた厄介だったもので」

「そっか……いつかは辞めるつもりだって言ってたわよね? それってけっこう遠いの?」

「ああ、それですか。ちょうど先週に決めましたよ。もう近い内に辞めることを」

「あら? そうなんだ、何かあったの?……あ、答えたくなければいいからね。さっきから遠慮なく聞いちゃってるけど」

「いや、構いませんよ。決めたのはネックになってたことが一つ目処がつきそうになったんですよ」

「ネック?……どんな?」

「ええ。後輩ですよ。去年の新卒で入ってきた連中で、俺が入社時から教育係として面倒見てきたんですが、そいつらにもう俺から教えられることは殆ど無くなったかなと思いまして。社会人歴は一年半と短いですが、ブラック勤務してただけあって、濃い時間過ごしたものだから、仕事も十分に出来るようなりましたし、ということで」


 それを聞いた玲華は少し考えてから、不快そうに眉をひそめた。


「ねえ、もしかして、それって――」


 大樹は玲華が勘違いしているのを察して、苦笑しながら先んじて言った。


「違いますよ。あいつらを生贄に仕事任せて、俺が辞めるって訳じゃないですよ」


 そうとられるのも無理は無い。大樹だって、後輩達に話す順番を間違えたらそう受け取られるのを覚悟して話したのだから。


「あ――! そ、そうよね。柳くん、そんな薄情なことしないわよね……ごめんなさい」


 玲華が心から申し訳なさそうに、頭を下げる。


「構いませんよ。さっきのとこだけ聞いたらそう思うのも無理ないですから」


 気にしてないと笑って手を振ると、玲華はホッとしたように胸に手を当てた。


「――それで、さっきの続きですが、後輩達ももう他の会社行っても十分にやっていけると判断したので、こんな会社辞めてさっさと転職するように話したんですよ。そしたら全員受け入れてくれて……そうでなかったら、さっき如月さんが勘違いしたように俺が辞めた後に、俺の抱えていた仕事全部後輩達に回ってしまいますからね」

「そっか……柳くんが辞めて後輩達にお鉢が回って欲しくないから、転職を勧めてそれを受け容れてもらえたからか、納得したわ」


 そう言って安心したようにふんわり微笑む玲華は心底嬉しそうで、その笑顔に大樹は見惚れそうになり、慌ててコーヒーカップに目を落とした。


「そ、そういうことです。なので、あいつらの転職先が決まり次第、俺も辞めようと思ってます」

「そっかそっか、うんうん。そんなブラック会社、さっさと辞めちゃえ辞めちゃえ」


 拳をかざして大樹の考えにノリノリで賛同してくれる玲華に、大樹はまたとない心強さを覚えて、体から力が抜けていくのを感じ、思わず長い息を吐いた。

 会社で頼りになる先輩や目上の者がいなくなって久しい大樹にとって、関係ない会社とは言え、社長を務めている玲華からの辞めていいという言葉には、思いもしないほど大樹に安心感をもたらしたのだ。


「――? どうしたの、柳くん?」


 いきなり気が抜けたようになった大樹に玲華は小首を傾げる。


「いえ……ああ、そうだ。図々しいのは承知のことなんですが、一つ如月さんに頼みたいことがありまして」

「ん? 私に? 何だろ、言ってみて?」

「はい。社長を務めている如月さんなら、俺よかよほど色んな会社を知ってると思っての頼みです。後輩達なんですが、仕事が十分出来るようなったとは言え、職歴はやはり一年半で応募出来るとこが限られてるようで……求人を色々見てはいるみたいなんですが、そこがブラックなのかそうでないか不安みたいで――」


 そこまで言ったところで、玲華は察したように頷いて言った。


「ああ、応募する会社について何か知ってたら教えて欲しいってことかしら?」

「はい。あくまで如月さんが知ってる範囲でいいです。調べて欲しいとかでなくて、俺が会社名を挙げて、そこについて何か知ってたらという範囲でけっこうです――お願い出来ないでしょうか?」


 大樹は身を正して、頭を下げた。そのため、玲華がどれだけ優しく微笑んで大樹を見つめているかについて、大樹は知ることが出来なかった。


「柳くん、頭を上げて」


 言われて大樹が頭を上げると、玲華は若干不機嫌そうに顔を歪めていた。


「あのね、柳くん。いちいちそんな風に頭下げてまでしなくても、それぐらい教えて上げるわよ。私のわかる範囲でいいのなら」

「じゃ、じゃあ――」


 大樹が顔を輝かせると、玲華はニコリと頼もしく微笑んだ。


「ええ。教えて欲しいとこがあったら、いつでも連絡してちょうだい」

「あ、ありがとうございます――!」


 意識してのことでなく、大樹はガバッと頭を下げた。


「もう、柳くん? そんな風に頭下げなくていいってば」


 仕方なさそうに笑う玲華の声に、大樹は頭を上げる。


「それにね、柳くん。前にお姉さん、愚痴りたくなったらいつでも聞くって言ったと思うけど――相談だっていつでもオッケーなのよ」


 片目を瞑って茶目っ気がたっぷり込められた玲華のその言葉に、何故だか泣きそうになったが、微塵も表に出さずに済んでホッとした大樹であった。

 

 

 

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