第十五話 大樹と後輩達
「お前ら、今日はもう上がるぞ」
大樹がディスプレイ越しに、班員へ呼びかけると、隣の席から綾瀬が丸くした目を向けてきた。
「もうですか? まだ21時ですよ?」
「……もう21時なんだ、お前らその認識を改めるようにしとけ」
ため息混じりに告げると、向かいの工藤が首を伸ばして怪訝に聞いてきた。
「でも、普段に比べるとやっぱり早いですよ……んで、先輩はどーするんすか」
「そうそう、また先輩だけ遅くまで残るんですか? こないだだって、結局終電間際に帰ったの知ってるんですよー?」
夏木もまた首を伸ばし、不機嫌顔で言ってきて、大樹は眉を寄せる。
「俺の言ったこと聞いてなかったのか? 俺は『上がるぞ』って言ったんだ。俺も上がる」
途端に目を丸くする三人の後輩。
「え、マジすか。先輩も上がるんすか」
「それなら……はい、上がりましょう」
「うんうん、上がろ上がろ」
ホッとしたように工藤、綾瀬、夏木が口々に言うと、忙しなく動き始める。
「ただ、突然で悪いが、一時間ほど付き合ってくれないか」
大樹がそう言うと、工藤が首を傾げる。
「――と、言うと――?」
「飲みに行くぞ」
「え、マジすか!?」
「本当ですか!?」
綾瀬と夏木の声がハモって聞こえて、大樹は三人に頷く。
「ああ。突然ですまんな、金曜の夜だというのに。話が済めば帰って構わんから」
普段が22時まで残業しているのだから、一時間早く上がれば、その一時間が浮くはずだ。そう考えてのこの時間での退勤で、飲みの誘いだ。
恐らく予定を入れてないとは思うが、浮いた一時間をどう使うかは三人が決めることなので、だから大樹は突然誘ったことを申し訳ないと思っていた。が――
「おっし、久しぶりっすね。先輩と飲みに行くの! 一時間と言わず、終電ギリギリまで問題ないっすよ!」
「私もどうせなら一時間なんて短い時間でなく、ゆっくり飲みたいです」
「はいはい、私も! なんなら朝まで付き合いますよ!」
工藤、綾瀬、夏木の三人は、俄然張り切って机を片付け始め、間もなく席を立ったのである。
自分の誘いにまったく拒否の反応を見せなかったことに、こそばゆさを感じながら大樹は苦笑し、三人の前を歩き始めた。
「じゃあ、行くぞ」
近くのチェーン居酒屋に入ると、ちょうど座敷が空いたということで、四人はそこに案内される。
「先輩、奥どうぞ」
「おう」
綾瀬に上座を勧められ、最初に大樹が靴を脱いで上がる。
入社時は目上の者に上座を譲るということも知らない三人だったが、大樹の教育により、ちゃんと弁えるようになった。一応述べておくと、大樹が三人へ上座に座らせろと言った訳ではない。気にする人もいるから、意識するようにと教育の一環として伝えただけである。いつからか三人はそれを忘れず、大樹を先に上座へ上がらせるようになった。
大樹が座るのを見て、工藤が大樹の正面に腰を落とした。そして、流れるように夏木が大樹の後を続くように隣へ移動しようとした時だ。
「
綾瀬が夏木の肩にガシッと手を置き、止められる形になって振り返る夏木。
「……なに、
二人は表面上、ニコニコしているが、何やら妙な迫力を背負っているように見える。
そのまま二人は笑顔で何か牽制するように目だけで会話している様子を見せる。
「……何やってんだ、さっさと座れ、二人共」
大樹がウンザリしながらぶっきらぼうに告げる。
この二人は飲みに行くと、いつも座る前に、このように無言で争っている姿を見せるのだ。
「先輩、放って置いた方がいいですよ……すみません、瓶ビール二本とグラス人数分お願いします」
工藤が大樹を止め、通りががった店員に注文を頼んだ。
「恵、久しぶりなんだし、今日は私が、ね?」
「久しぶりなのは私もよ?」
「恵は普段から、あの席じゃない?」
「あら、飲み会の場は職場とは違うのよ? わかるでしょ……?」
「……」
「……」
また無言になって器用に笑顔で睨み合う二人。堪えかねて大樹がため息と共に割って入る。
「夏木、すまないが、綾瀬は普段から俺の隣だしな、お前がこっちに来てくれるか」
恐らくは上司でもある自分の隣を嫌がって牽制し合っているのだろう。ならば、職場では隣の綾瀬でない夏木に我慢してもらおうと大樹はそう言って隣の席をポンポンと叩いた。
「はーい、先輩」
「――!? はあ……」
夏木が笑顔で靴を脱ぎ、ガックリしている綾瀬は少し考えてから、工藤にニコリと目を向けた。
「……工藤くん?」
「え……あ、はいはい……」
工藤が察したような顔で、大樹の正面の席から隣へ尻をズラすようにして移動する。
そうして、空いた大樹の正面に綾瀬は腰を落とした。
「……ようやく落ち着いたか。まったくお前らはいつもいつも……」
大樹が大きく息を吐きながら言うと、瓶ビールが席に届いた。
「先輩、グラス持ってください。お注ぎします」
「すまんな」
綾瀬が両手で瓶ビールを持ってニコやかに言ってきて、大樹はグラスを受け取ってそれを傾ける。
「ああっ……ちぇっ、ほら工藤くん、注いだげるからグラスもって」
「……いや、まあ、ありがたいけどさ」
「なに、文句あんの?」
「ないです」
隣でも夏木が工藤に瓶ビールを向けている。
そして注ぎ終わると、両者瓶を持つのを交代して注ぎ返す。
「入れ終わったな? じゃあ、乾杯だ――お疲れさん」
「お疲れ様です!」
四つのグラスがぶつかり合って、甲高い音が鳴る。
大樹はすかさずグラスに入ったビールを一気に飲み干す。見れば、三人も飲み干していた。
「お前らもすっかりビールに慣れたみたいだな」
大樹が頬を綻ばせながら瓶ビールを手にして、工藤に向けて注いでやる。
「あ、ありがとうございます――はは、先輩に最初の一杯だけは飲めるようにした方がいいって言われてずっとそうしてたら、もう慣れましたよ。先輩、貸してください。注ぎます」
「おう、ありがとな」
工藤が注いでくれたビールも大樹は一気に飲み干した。
「最初はキツかったですけどねー。ちょっと慣れ始めると、仕事上がりの一杯目がすごく美味しく感じ始めるんだよねー。はい、先輩、次は私から」
夏木が屈託の無い笑顔で、瓶ビールを向けてくる。
「おう。ぷはっ――うん、美味いな」
夏木からの一杯もすぐさま飲み干して、大樹は口を拭った。後輩達が嫌な顔せずに入れてくれるビールは本当に美味かった。
「えっへへー。私からのが一番美味しかったですか?」
夏木のだらしなくなった笑顔に、大樹は適当に答える。
「うん? ああ、美味い美味い」
「ふっふーん」
夏木が綾瀬に向かって勝ち誇った顔を向けると、綾瀬は美しい笑みはそのままに額に青筋を作り、空になった大樹のグラスにビールを注ぎながら言った。
「穂香? 先輩が狭そうよ? もうちょっと離れなさい?」
「えー? そんなことないですよね、先輩?」
「いや、狭い。もうちょっとあっち行け」
「先輩のアホー! バカー!」
「いや、こっちは壁なんだぞ? お前がこっちに寄ったら狭くなるのは当たり前だろ。工藤、適当に何か頼んでくれ、腹減ったからガッツリ頼む」
「了解っす。すみません――」
そして寄ってきた店員に、各々気になったつまみを適当に頼んでいくのであった。
「――それで、先輩、何か私達に話があるんですか?」
取り分けたシーザーサラダを大樹に差し出してきた綾瀬が、場が少し落ち着いたのを見計らったからか聞いてきた。
「ああ――お前ら、うちの会社がもうダメなのはわかってるな?」
三人は顔をキョトンとしてから見合わせると、揃って首を縦に振った。
「そりゃ、わからんはずもないっすよ」
「いや、ダメってかダメダメですよね」
「それがわかってない人なんて、ここにはいませんよ」
工藤、夏木、綾瀬が口々に答えると、大樹は頷いた。
「そうだな。わからんはずもないな。なら、話は早い――お前ら、転職についてはちゃんと考えてるか?」
その問いに工藤は苦笑しながら頬を掻く。
「いやー、考えたことはありますけど、気づいたら一日終わってるっていうか、考える時間がなかったって言うか……」
「やはは、私も同じ……」
夏木も同じような表情で答える。つまりは日々過ごすのが精一杯で、考える余裕がないといったところのようだ。
そんな二人とは違って、綾瀬は少し悩むように眉を寄せて言った。
「……私はWebサイト限定ですが、色々求人情報などには目を通したりはしてます。が……それだけですね。ほとんど動いてないです」
「……そうか」
ある意味では予想通りだった。考えはするのだ、誰だってあの会社にいれば。ただ、実行に移す余裕がないのだ。
(一番の問題はやはり時間だな……となると)
大樹が思考を巡らせる前で、綾瀬が「それに――」と口を開く。まだ何か言いたいようだ。
「それに、私達の二年に満たない職歴で、中途採用をこんな中途半端な時期に募集してるとこはやはり少なくて、あったとしても――」
暗くなってくる口調から大樹は察して先を言った。
「うちのようなブラック企業の可能性が高いかもしれない――か」
綾瀬は無言でコクリと頷き、また口を開く。
「あと……」
躊躇いがちに上目遣いでこちらを見てくる綾瀬に、大樹はなんだと眉を寄せる。
「あと――?」
「……いえ、何でもありません」
柔和に微笑んで首を横に振る綾瀬。
「? どうした? 遠慮はいらんぞ?」
「いえ、何でもありませんよ」
先ほどより明るい笑みになって否定する綾瀬に、大樹は追求するのをやめる。
気づけば、夏木と工藤の二人が綾瀬を見て苦笑していた。
「ふむ、まあ、お前がそう言うなら……しかし、そうだったな。この時期の中途採用はより条件が厳しくなるか。盲点だったな……どうしたものか……」
思い悩む大樹を見て夏木と工藤が顔を見合わせ、聞いてきた。
「先輩? 私達に改まって転職の話するなんて、もしかして――」
「ついに会社辞めるんっすか――?」
工藤のそんな聞き方に大樹は目を丸くしてしまった。
「ついにとはどういう意味だ」
「いや、何言ってんっすか。先輩仕事出来ちゃうもんだから、ありえないほど仕事振られて、いいように使われてるじゃないですか」
「そうそう、それなのに、まったく辞める素振り見せなかったじゃないですか」
「そうね。私達が辞めないのか聞いても、先輩はいつも頷かなかったものね」
「……まあ、お前らには迷惑をかけたと思っている」
振られた仕事は班でやるのが基本であるから、必然的に同じ班である後輩達も同じだけ大変な目に合っている。なので、そう言ったのだが、後輩三人は呆れた顔をして首を横に振っている。
「この先輩は何言ってんだろうな……」
「散々迷惑かけてるのはこっちなのに……」
「本当にね……」
揃ってため息を吐き、顔を見合わせて苦笑を浮かべる。
「ま、それよりも、先輩、ようやく会社を辞める気になったんすか?」
気を取り直すように工藤が聞いてきて、大樹は首肯する。
「ああ、そのつもりだ」
すると三人はそれぞれに視線を走らせ、興奮したように笑みを張り付けた。
「その気になったのは、どうしてですか?」
しかし、それを押し隠すように胸に手を当てた綾瀬の問いに、大樹は暫し考えてから答えた。
「……もう、お前らがどこに行ってもやっていけると判断したからだ」
途端、三人がわっと歓声を上げた。
「よおっし!!」
「工藤くん! 恵!」
「ええ!」
工藤がガッツポーズをとり、感極まったような夏木が両手をかざすと、工藤と綾瀬は同じように両手を上げて、三人でトライアングルの形のハイタッチを行い、心地の良い高い音が鳴った。
突然の三人の行動に大樹は目を白黒させる。
「な、なんだ、お前ら……」
「あ、ちょっ、待ってください。今ちょっと泣きそうなんす……」
「わ、私も……」
「私も……」
後輩三人が鼻を啜りながら、大樹から顔を背けてしまった。
今は声をかけない方がいいということぐらいは流石にわかったので、大樹はサラダを口に入れ、ビールを飲みながら待った。
「オッケ、もういいっす」
工藤が赤くした目で振り返ると、夏木と綾瀬も目を赤くした笑顔を見せてきた。三人はまた顔を見合わせて頷き合うと、綾瀬が代表するように言ってきた。
「わかりました。つまり先輩は私達三人の転職先が見つかったら、自分も辞めると言いたいのですよね?」
「……なんだ? 泣いてたと思えば急に察しのいいこと言いやがって。ああ、その通りだよ」
「……はい、わかりました。では、私達はこれから本腰入れて転職活動を始めようと思います」
「……話が早くて助かる、が……」
「……ええ、時間――ですね」
「そうだな、それとさっき綾瀬が言ってたように、焦ってまたブラック企業なんか引いたら目も当てられん」
そこで全員が一斉にため息を吐く。
「とりあえずだ、お前らもう平日は21時までには帰るようにして、時間を作って仕事を探せ。土日でも面接なら受け付けてくれるところは多いから休出も、もうしなくていい」
「……でも、それだと先輩への負担が……」
「心配するな。もう今までのように仕事振られても受けん。拒否して、ゴミ課長に押し付ける」
「えっ、仮にそれが出来たとしても、あのゴミ課長絶対にやらないっすよ……?」
「それがどうした? もう辞めるんだ、あのゴミ課長に気を使う必要なんてあるか?」
「お、おおー」
三人が眩しいものを見るような目を向けてくる。
「とにかくだ。今まで大人しく言う事聞いてやってきてやったが、もう知らん。何か言ってきたら遠慮なく言い返すし、休出も今週末を最後に控えるつもりだ。ちょうど、仕事がいくつか片付くしな。来週からは最低限しか受けるつもりはねえ」
「……驚きました」
綾瀬が目を丸くして呟くと、工藤と夏木が頷いた。
「先輩、あれで大人しくしてたつもりだったんっすね……」
「たまに『うるせえ!』とか面と向かって課長に怒鳴ってたのに、先輩の中では大人しくしてたつもりだったんですね……」
「……お前らな」
静かに睨みつけると、三人はサッと視線を逸らした。
「まあ、とにかく来週からの仕事量はセーブするから、お前らは転職活動に集中しろ」
三人が頷くの見て、大樹は続ける。
「だが、焦ってブラックでない企業ならどこでもなんて考えるな。ちゃんと行ってみたいと思うところを選べ。いいな。やり甲斐のありそうな会社に応募するんだぞ」
躊躇いながら三人は頷いたが、夏木が小さく手を挙げた。
「……でも、先輩。さっき恵が言ったように、私達の職歴で選り好みしてたら、なかなか見つからないんじゃ……」
「ああ、そうだな。時間はかかるだろう。三人揃って辞めるのも不可能だと思う。だが、そればっかりは仕方ないと思うしかねえな。なに、今まで、あのブラック勤務でやってこれたんだ。仕事量が少なくなるこれからなら、ゴールがあると思えるなら、お前らなら――やれるだろ?」
三人は息を呑んで、そして確かな決意を顔に浮かべて強く頷いた。
「よし――いいか、あんな会社に義理立てなんてお前らは考えるなよ」
「そんなの当然っすよ。サービス残業で散々こき使われてんすから。休出なんてボランティアじゃないっすか」
「本当にそれー。てか、先輩以外の人に世話になった覚え、本当に無いし」
「寧ろ私達の方が貸しのある立場じゃ……?」
最後の綾瀬の言葉に、大樹は頷いた。
「綾瀬、お前の考えで正しい。工藤も夏木もそう思え」
「はい」
「……それで、先輩は転職の目処は立ってるんでしょうか? もう行くところは決めてられてたり……?」
綾瀬の窺うような問いに、大樹は首を横に振った。
「いいや。俺はお前らの転職の目処が立ってからだ」
後輩に言った手前、大樹はブラックでなければどこでもいいとは言えなかった。もちろん、やり甲斐のあるところに行けるならそれに越したことはないが。
そこで突然、夏木が思いついたような顔で手をピンっと挙げた。
「はい! 先輩、なんなら私が行くとこに来てください!」
「――!?」
その手があったか、みたいな顔で驚愕する綾瀬に気づかず、大樹は眉を寄せた。
「……夏木、そう誘ってくれるのは嬉しいが、それこそ難しいだろ」
「いえいえ! 超仕事の出来る先輩なら、余裕ですよ!!」
「そうですよ。先輩なら余裕です。だから私の行くところに来て、またご指導ください」
「ちょっ、恵!?」
「なにかしら、穂香?」
「ははっ、それいいっすね。先輩、二人のところが無理だったりしたら、俺んとこ応募してくださいよ」
夏木だけでなく、綾瀬、工藤と続いてきて、大樹は面食らった。
「なんだ、お前ら。また俺に叱られたいのか……? いや、待てよ。お前らのとこに行くってことになると、少なからずお前らが俺の先輩になるのか――ほほう」
「――!?」
立場が逆転するのを想像して、大樹がおかしく感じて笑いを浮かべる前で、綾瀬と夏木の二人は大樹の言葉を聞いて雷を浴びたように目を見開いた。
「せ、先輩が私の後輩に――!?」
俄然、二人は身を乗り出して大樹に迫った。
「せ、先輩! 絶対に私のとこに来てください!」
「いいえ、先輩。是非とも私のとこに来て一緒に仕事しましょう。私のサポートは先輩も助かると常々仰ってくれてたじゃないですか」
「……なんなんだ、二人共。まさか俺の先輩になって今までの仕返しでもって考えてるのか」
怪訝に眉を寄せる大樹に、夏木と綾瀬が揃って否定した。
「違いますよ!!」
尚も大樹に迫る二人に、工藤が笑って言った。
「こうなったら全員で同じとこ行くのも面白いんじゃないんっすか」
「……それはそれで、ありかも」
「……確かに。今まで苦労共にしてきたし……」
夏木と綾瀬がピタと止まって悩みだすのを見て、大樹は苦笑した。
「そうだな。でも、会社辞めてバラバラになっても、またこうやって飲み会はやろうな」
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