第十三話 ブラック勤務の大樹

 

 

 

 薄暗いフロアの中で、大樹はキーボードから離した手を肩にやって首をゴキゴキと鳴らす。

 ふと、時計を見ると22時になっていた。

 首を伸ばして、ディスプレイの上から周りのデスクに座る面々に声をかけた。


「お前ら、もう遅いし帰っていいぞ」


 その声に反応して、周囲の三人が大樹と同じようにディスプレイの上にひょこと顔を出す。


「いいんすか、先輩……?」

「まだ、けっこう残ってますけど、明日までって言われてるとこ」

「先輩はどうするんですかー?」


 この三人は去年新卒で入ってきた後輩である。

 うっすら茶髪でチャラい雰囲気がありつつも、この一年半の激務でかなり使えるようになった工藤天馬くどうぺがさす

 ロングの黒髪を背に垂らし、この会社一番の美人と評判で、同じく一年半の激務に耐えて、新卒三人の中で頭一つ仕事の出来る綾瀬恵あやせめぐみ

 保護欲そそる顔立ちながら、一番ちゃっかりしてるボブカットの夏木穂香なつきほのか


 三人共、入社時は教育係を命じられた大樹の年齢が自分達より一個だけ上で、更には課長から馬鹿にするように高卒だと教えられて舐めた態度をとっていたりしたが、今はもうすっかりその面影は無く、大樹にとっては良き後輩である。


「ああ、構わん。明日までの仕事って言っても今日中になんて終わらんだろ。明日ゴミ課長から何か言われたら俺から帰っていいって言われたって言っておけ。実際にその通りなんだから」


 大樹の言葉に工藤は苦笑し、綾瀬は困ったように眉を寄せ、綾瀬と同じような表情をしている夏木が手を上げる。


「でも私達が帰ったとしても、先輩はどうするんですかって」

「俺は適当にキリのいいとこまでやってから帰る。もうすぐ終わるから気にするな。いいから、お前らはさっさと帰れ。こんな会社でこんな時間まで真面目に働いてんじゃねえ」


 しっしと手を振って帰りを促すと、三人は揃って大きく息を吐く。


「わっかりましたー。じゃあ、お先に失礼しまっす、先輩」

「……では、お先に失礼します。先輩も早くお帰りください」

「むぅ……先輩も早く帰社してくださいよ! お疲れ様です!」


 工藤、綾瀬、夏木が順に席を立って挨拶していくのを、大樹は「お疲れさん」と軽く手を振って返した。

 それから三十分ほど大樹はキーボードを叩き続けたところで、腹が鳴って手を止める。

 そこで空腹と喉の渇きを強く自覚した大樹は背もたれを強く傾けてため息を吐いた。


(缶コーヒーでも買ってくるか……)


 席を立とうとしたところで、自分のデスクに影が降りてきて、顔を上げる。


「ほら、やっぱり帰ってなかった」

「すぐ終わるんじゃなかったんですか、先輩?」


 帰ったと思っていた綾瀬と夏木の二人がいて、何か紙袋を大樹の机の上に置いてきた。


「お前らまだ帰ってなかったのか……これは、何だ?」

「先輩こそ帰ってないじゃないですか!」

「ドーナツとコーヒーです。差し入れです」


 憤慨している夏木の横で、綾瀬が紙袋から口にした通りのものを出して並べる。


「まだ三十分しか経ってねえだろうが、もうすぐ終わんだよ。それはそうと、これ差し入れで持ってきてくれたのか? すまん。いや、ありがとうな、綾瀬。ちょうど缶コーヒー買おうとしてたところでな」


 夏木におざなりに返し、綾瀬に礼を述べる。


「いいえ。いつも私達は先輩にお世話になってますから」

「もう、先輩! 私も一緒に買ってきたんですよ!」


 嬉しそうに微笑む綾瀬と、抗議するように文句を言ってくる夏木。


「おう、夏木もありがとさん……工藤はそのまま帰ったんだな?」


 差し入れをしてくれたのは嬉しいのだが、せっかく帰らせたのにという残念な気がしないでもない。なので工藤だけでも帰ったのなら、帰らせた甲斐があると思った上での問いだ。


「工藤くんは、これのお金払ってくれてから用事あるって帰りましたよ」

「多分本屋だと思いますけどー……先輩、なんか私の扱いだけ軽くないですか?」

「そうか、工藤にも礼を言わんとな……ふっ、そうか趣味を楽しむために帰ったのならいいことだ」


 この職場にはまだけっこうな人数が働いているのだが、その内の殆どの目は病んでいる。激務によって心をすり減らされているのだ。彼らにはもはや、趣味に時間を使うという当たり前のことに思考を割く余裕が無くなってきている。大樹に出来うる限りのフォローはしてきたつもりだが、大樹一人で出来ることなどたかがしれていた。

 工藤に趣味を楽しむ余裕があるのは非常に喜ばしいことである。


「もう、先輩! 私への扱い雑じゃないですかって!」

「そうか? お前にだけ態度を変えてる気はないが……」


 大樹がドーナツを頬張りながら返すと、夏木は拗ねたように唇を尖らせた。


「むぅ……本気で言ってるっぽいところがまた腹立たしい……」

「いや、何に腹立ってんだ、お前は……」

「ほら、穂香。先輩困らせたらダメでしょ?」


 コーヒーを啜りながら呆れる大樹と、夏木を窘める綾瀬。


「はいはーい……じゃあ、先輩、私達帰りますからねー」

「おう、さっさと帰れ」

「先輩も早くご帰宅くださいね」

「おう、お疲れさん」


 そう大樹が綾瀬に返すと、夏木が振り返る。


「ああ! また!!」

「ほら、穂香、そんなことないから……」


 綾瀬が夏木を宥めながら帰りを促していく。部屋を出る直前に、綾瀬が微笑みながらペコと会釈して去っていく。

 部屋を出てもまだ二人の声がかすかに聞こえてきて、大樹は頬を綻ばせる。


(あいつらの目はまだ病んでない……その前にさっさと転職の目処立てさせねえとな……)


 大樹には貯金以外に辞めなかった理由が一つある。

 それは高卒の自分を拾ってもらったという前社長への恩と義理だ。

 実際のところ、お金は辞めていった先輩がひと月分の生活費ぐらいなら貸してくれると何人か言ってくれているのだ。だからなりふり構わなければ大樹はいつでも辞められる。親しい仲でもお金の貸し借りをしたくないというのと、恩返しをしたいということでこの会社に残っているのだ。

 その恩返しも、ボチボチ終わりが見えてきたと思っている。


 それは新卒の三人が十分に育ったことだ。この三人に関しては大樹は堂々と「ワシが育てた(ドヤ」と言えるほど面倒を見てきたつもりだ。三人が病まないよう、ゴミ課長からの無茶ぶりや、中身のない叱りから徹底して庇い、そして密度濃く仕事を教えてきたつもりだ。残業代だけは大樹にはどうにもならないことであったが、それは未来のための苦労と思ってもらうことにした。実際、今の三人なら、ブラック企業でさえなければどこの職場に行っても、そこが楽に思えるはずだ。それだけの激務をこの一年半経験しているのだから。


 かつて大樹は実家の店を愛用する、立派な経営者のお客さんに言われたことがある。


 ――いいかい、大ちゃん。恩ってのは受けたら下へ返すもんだ。受けた人への感謝を忘れないのは言うまでもないが、返すのは受けた人にじゃない。大ちゃんがその後に出会う下の立場の連中にくれてやんな。そうすれば、その下の連中もそのまた下の連中にって恩を返す。そうやって世の中は回ってくのさ。だから大ちゃんが親父さんに恩を感じてるなら、大ちゃんはその分しっかり自分の子供に返すんだぜ。仮に大ちゃんがどっかで就職をして先輩に世話になったなら、その時は後輩にだ。わかったかい?


 その人の言葉をもっともだと思った大樹は、忘れないよう心に刻んだのである。


 大樹がこの会社で受けた恩は前社長である。今のクソ社長では決してない。

 その受けた恩は、この会社の後輩にこそ返すべきものと考え、だから三人の面倒をしっかり見てきたのだ。三人を労うために奢ったりもしたから貯金が貯まらなかったという痛い面もあるが、会社がホワイトの時は散々大樹も先輩から奢ってもらったのだ。社会人になったばかりの新卒の三人だけ誰にも奢られないというのは可哀想過ぎる。


 後の義理としては、サービス残業をたっぷりとしたから、もういいだろうと思っている。先輩達が残していった仕事を引き継いだのもこれに当たる。

 恩を返しきったとは決して言えないかもしれないが、義理も果たしたし、もうそろそろいいだろうと思っている。

 後は三人が病む前にさっさと転職の目処を立てさせることが肝要である。

 そしたら大樹も心置きなく辞められる。年齢は一つしか違わないが、この一年半面倒見てきただけあって可愛い後輩なのだ。

 そしたら大樹は二週間後日付の退職届をクソ社長にぶつけて、何を言われようとその日に会社を去るつもりでいる。書類上ではあるはずの有給がたっぷり残っている。去ってから電話がかかってきても、その消化中だと返してやろう。

 無責任だと言われれば、ここで三人を育てたことも活きる。

 何故なら三人なら大樹の仕事を肩代わり出来るほどになっているからだ。それは大樹の実績なのだ。

 その肩代わり出来る三人が大樹より先でも後でも辞めても、それは引き留められない会社が悪い話と言える。

 だからと言って自分が辞めるせいで三人には苦しんで欲しくないから、三人の転職の目処は立てておかなければならない。


(けど、実際一年半の職歴なんだよな……三年分ぐらいの経験積んでるとは思うが……転職していった先輩の会社に仲介頼むか……? それが出来る役職ならいいんだが、そうでなくとも、その職場がちゃんとしてるかもわからねえしな……ちゃんとしたクリーンな職場で頼れる上司がいる――!)


 そこまで考えた大樹の脳裏に浮かんだのは、昨日一日一緒に過ごした玲華だ。

 玲華が社長している職場ならきっと間違いないだろう。と思ったところで大樹は頭を振った。


(いやいや、何考えてんだ。世話になっておいて、そんな厚かましいこと頼めるか!)


 内心そう呟きながら大樹はなんとなしに玲華の名刺をスマホケースから取り出した。


『SMARK'S SKRIMS』


 昨日名刺をもらってこの社名を見た時は驚いたものだ。

 社会人向けの無料雑誌を、頭を休めたい時にパラパラめくっていた時に、この会社の特集があったのを思い出したからだ。

 『アパレル系を中心としたショッピングサイトをたったの五年でメジャーにした、若き美人社長の敏腕』記事の題名はそんな感じだったか。

 記事内には綺麗で解放感あるオフィスでの社員の心からの笑顔と思える写真が目立っていたので『うちとは偉い違いだ』とボヤきながら見ていたから記憶に残っていたのだ。


「あんな会社になら安心してあの三人任せられるんだが……」


 思わずボヤいてしまい、大樹は苦笑を浮かべる。


「無いものねだりしても仕方ねえよな、今度三人とゆっくり話す時間とるか……」


 空しく独り言ちて大樹は仕事に戻ったのだった。

 

 

 

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