第十二話 また

 

 

 

「いい加減――そろそろ帰りますね。もう遅いですし」


 暫し二人で夜景を楽しんだ後に大樹はそう切り出した。


「あ、そうね。明日から仕事だしね」


 玲華が同意して、窓を開け、一緒に室内へ戻る。


「ねえ、次いつ来る? 来週の週末、私大丈夫なんだけど」


 玲華がハンガーから大樹のジャケットをおろしながら聞いてくる。


「来週末は……厳しいと思います」

「そっか……って、柳くんの会社大丈夫なの? 昨日も休日出勤だったんでしょ? 今、色々規制厳しくなってるのに……」


 経営者の観点としても見過ごせないと言わんばかりに、眉を寄せる玲華に、大樹は苦笑する。


「まあ、どう考えても泥船でしょうね。俺もいつかは辞めるつもりなんで、あんな会社の心配なんていりませんよ」

「……そう。あ、一応名刺渡しとくわね。何かあったら相談してくれていいから」


 言って玲華は、スマホケースの中から取り出した名刺を大樹に渡してきた。公式な場では、そこから出すなんてとんでもない、であるが、今は完全にプライベートだからだろう。大樹も便利だから同じとこに何枚か突っ込んでいるし、お互い様である。

 名刺に目を落とすと、会社名に見覚えがあり、大樹は今更ながらにすごい女性と知り合ったもんだと頬が引き攣りそうになった。


「代表取締役……本当に社長なんですね」

「何? 疑ってたの?」


 拗ねたように睨んでくる玲華に、大樹は慌てて言い訳する。


「いやいや、疑ってたんじゃなくて、俺の知り合いの中に社長なんてやってる人いないもんですから、実感が無かったんですよ――あ、こっち俺の名刺です」


 名刺を受け取ったから自分のも渡すという当たり前の行動として、大樹は渡した。すると玲華は、予想もしていなかった鋭い目で大樹の名刺を見下ろしたのである。


「そう、この会社……なのね。柳くんの会社は……」


 妙な迫力を醸し出す玲華に、大樹は躊躇いながら聞いてみた。


「えーっと、知ってるんですか、うちの会社……?」

「いいえ。知らないわ」


 首を振って否定した玲華は、一転して笑顔になって言った。


「まあ、ともかく、休める日がわかって、その日柳くんに特に用事が無いのなら、連絡もらっていいかしら?」

「ええ、構いませんよ」

「絶対よ? それに事前に教えてもらえないと、露天風呂の用意も出来ないしね」

「……さっきの夜景見ながらの露天風呂とか、すげえ贅沢ですね」

「ふふっ、そうよ? だから絶対に連絡してね?」


 再度、念を押して来る玲華に大樹は苦笑を浮かべる。


「わかりましたって。角煮もちゃんと作らせてもらいますよ」

「ちょ、ちょっと! そんな角煮だけが、目当てみたいに言わないでもらえる!?」


 恥ずかしそうに頬を染めて抗議してくる玲華に、大樹は目を丸くした。


「……違うんですか?」

「ひ、ひどい! そんな意外そうな顔して! 角煮も楽しみだけど、柳くんと一緒に過ごすのも楽しみなの! 私だけなの? 今日が楽しかったのって!?」


 ストレートにそんなことを言われて、大樹も顔を赤くしてまごついてしまった。


「え、い、いや、俺も楽しかったですが……」

「でしょ? 今日みたいに過ごせたらなって思って来て欲しいの! 角煮も楽しみだけど、それだけじゃないってことはわかって! いい!?」


 ピシャリと言われて、大樹は知らず背筋が伸びた。


「は、はい――!」

「――よろしい」


 満足そうに頷いた玲華は、玄関へと大樹を促し足を進める。


(うーむ、すげえ社長っぽかったな、今のは……)


 そんなことを考えながら大樹はおとなしく玲華の後に続く。だから気づかなかった、玲華の耳が少し赤くなっていることに。

 再び玄関について、大樹が靴を履いていると、玲華が気づいたように言った。


「あ、よく考えたら、エレベーターの場所とか知らないのよね」

「ん? ああ、そうですね。でも、廊下まで出たら流石にわかるでしょ?」

「んーまあ、わかるかもしれないけど……いいわ、下まで送ったげる。下手に迷って不審者扱いされるのも嫌でしょ」

「……ですね。じゃあ、お願いします」

「ふっふ、まっかせなさい」


 そして玄関から出ると広々とした廊下が広がっており、一見ではどこにエレベーターに繋がっているかわからず、下に降りるまでの案内は決して大げさなもので無いことがわかった。

 そして休憩室なのか、エレベーターホールなのかよくわからないが、エレベーターのあった場所が見えても玲華はスルーしてその先に歩いていく。


「? 如月さん、あのエレベーターは使わないんですか?」

「え? ああ、あのエレベーターは住居者用なのよ。一階には通じてないの」

「はあ…………?」


 ちょっと何を言ってるのか大樹にはわからなかった。

 エレベーターはそもそも住居者用では無いのか、一階に通じないエレベーターとはどういうことかと、大樹が顔中に疑問符を浮かべていると、玲華が噴き出した。


「あはは、このマンションね、住居者用のジムや大浴場なんかもあってね。そこに行くためのエレベーターなのよ。で、そこに住居者がラフな格好でいけるように、住居者だけが使えるようにって、外から来た人が使えないよう一階には行けないのよ。後、あのエレベーターの鍵ないと使えないから、マンションの中に入れても鍵がないとそこに行けないって訳」


 その説明を聞いた大樹はポカーンとした後、一部分に反応した。


「え、このマンション、ジムがあるんですか」

「そうよ――あ、そう言えば、柳くん、筋トレが趣味なんだっけ?」

「そうですけど――あ、昨日話したんでしたね」

「ええ、覚えてるわよ。あはは、だからジムが気になったの?」

「ええ、そうですね。ジムには通ってたんですけど、今の勤務形態になって月会費だけただ無くなっていくようになったから泣く泣く退会したんですよ」

「あー、そっか……なんなら今度、利用してみる? 私が一緒なら問題ないし」

「いいんですか!?」

「いいわよ、それぐらい。私もたまには体動かさないとだし。あ、プールもあるわよ。サウナと水風呂も」

「――なんですか、このマンションって天国だったんですか」


 大樹が真顔で問うと、玲華は爆笑しそうになり他の住人もいるために必死に堪えていた。




「もう、あんなとこで笑かさないでくれない? また死ぬかと思ったじゃない」


 エレベーターまで我慢して中に入って弾けるように散々笑った玲華が、一階で降りて愚痴ってきた。


「何言ってんですか、プールにサウナに水風呂もついてたら、もう完全にジムが丸々入ってるってことじゃないですか。それがエレベーターに乗るだけで行けるなんて……正に天国じゃないですか」


 首を振りしみじみと言う大樹に、玲華は「ぶぶっ」と噴いた。


「ぷっ、くっ……だ、だからやめてって……も、もう外なのに……」

「まだ一階のエレベーターホール……ここエレベーターホールですか? ホテルのロビーとかじゃないんですか?」

「はあー……よし、落ち着いた。ここはエレベーターホールで、エントランスよ」

「……なるほど」


 大樹は考えるのをやめて、その広々とした高級ホテルのロビーのような空間を眺めた。

 応接間にありそうな立派な椅子や、如何にも高そうな壺や調度品が並んでいたりと、大樹は一体自分はどこに降りたのだと思ってしまった。

 そんな中を玲華は違和感なく堂々と歩き進んでいき、大樹はおとなしく後に続いた。

 そしてすぐにホテルのフロントのようなカウンターが見え、その奥にやはりホテルの受付のような格好をした人が待機しており、近くまで寄って玲華がにこやかに声をかけた。


「鐘巻さん、昨日はありがと。世話になったわ」


 鐘巻と呼ばれた男が、スッと一礼する。


「いえ。仕事の内ですので、お気になさらず」

「そうかもだけど、一応、ね」

「はい、ありがとうございます――では、そちらの方が……?」

「ええ、そう。柳くん、この人が話してたコンシェルジュの鐘巻さん」


 そう紹介され、コンシェルジュの言葉に大樹は思い出し、慌てて頭を下げた。

 昼間に玲華から聞いた話だと、この人が大樹を運んだり、医者の手配をしてくれた人なのだ。


「これはどうも。昨夜は大変世話になったようで――ありがとうございました」

「いえいえ。これも仕事の内でありますので。見たところ、体調も復調されたようで、何よりです」

「ああ、はい――本当に、ありがとうございました」


 大樹が深く頭を下げて礼を告げると、鐘巻は柔和な笑みを浮かべて一礼した。


「はい、承りました――お帰りですか?」

「ええ、お世話になりました」

「いえ、お気をつけてお帰りください」

「はは……胸に刻みます」


 このマンションの前で倒れてしまった大樹からしたら、そう返すしか出来なかった。


「あ、鐘巻さん、この人これから、ちょくちょく来るから覚えておいてくれると助かるわ」


 玲華がついでのように言うと、鐘巻は驚いたように少し目を瞬かせたが、すぐにスッと一礼した。


「かしこまりました――お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「え? ああ、柳大樹です」

「柳大樹様……かしこまりました。またのお越しをお待ちしております」


 深々と綺麗な礼をされて、大樹は戸惑いながら返事をする。


「は、はあ……よろしくお願いします……?」

「さ、行きましょ、柳くん」


 踵を返して歩き始める玲華に、面食らっていた大樹は慌てて後を追った。


「如月さん、今のはどういう……?」


 大樹が曖昧に問うと、玲華が何でもないように答える。


「んー? 特に深い意味は無いわよ? ただ、これから私のお客として来ることがあるから、マンションに入ってるのを見かけても、怪しまないでいいわよってだけ」

「はあ……? そうですか……」

「そう。だから柳くんが特に気にすることなんてないわよ」

「そうですか……あ、そう言えば、すっかり忘れてましたけど、昨日医者呼んでもらって治療費立て替えてくれたって言ってましたよね。いくらでした? 今払います」


 コンシェルジュと会ったことで昼に聞いた話を思い出したのだ。

 大樹が鞄から財布を出しながら聞くと、玲華は焦ったような顔になった。


「え? ああ、そういえばそんなことあったわね……」

「ええ。いくらですか?」

「えーっと、そうね……そう、確か……」


 玲華は視線を彷徨わせた末に、思いついたように言った。


「――そう、千円だったわ!」

「了解。千円ですか、ちょっと待っ――千円?」


 額の低さに驚いて、大樹は思わず顔を上げた。

 医者を呼び出し、診察、点滴と、保険証を出すことなく千円はありえない。しかも深夜だ。保険証を出しても千円に収まるとは到底思えない。


「そう、千円」


 大樹の信じられないという目を受けながら、玲華は尚もそう言って頷く。


「……如月さん?」

「……なにかしら?」

「本当はいくらで……?」

「な、何よ。私が嘘吐いてるって言うの!? ふざけないでよね、本当は五百円のところを千円にして柳くんから巻き上げるような真似なんてする訳ないでしょ!」

「いや、どうやったら如月さん相手にそんなこと思えるんですか……」


 大樹が呆れて言うと、玲華「うっ――」と詰まる。


「どう考えても、もっと高いでしょ……いくらだったんですか?」

「……千円だったわ」


 玲華は目を逸らしながら言った。


「いや、そんな訳――」

「もう! 私が千円って言ったら千円なのよ! ゴチャゴチャ言わずに、さっさと千円だけ ・・ 払いなさい!」


 逆切れ気味に言う玲華に、大樹は大きく息を吐いた。


(……これはけっこうな額払ったってことだよな……)


「千円で――いいんですか?」

「千円よ! 言っておくけど、ビタ一文だって負けてあげませんからね!」


 腕を組んで、威嚇するように言ってくる玲華。これは恐らくどう聞いても本当の額は教えてくれまい。大樹は財布から千円を差し出した。

 すると玲華はあからさまにホッとした様子でそれを受け取り、すかさず大樹は深く頭を下げた。


「――ありがとうございました」

「ん――柳くんが気にしないように言っておくと、私が階段から落ちた時に柳くんが受け止めてくれなかった場合に想定できる入院費や治療費よりは安いのよ――『千円』って」


(そういうことか……)


 合点がいった大樹は、そこで思わずククッと笑ってしまった。

 すると玲華も一緒におかしそうに笑い出す。


「じゃあ――気をつけて帰ってね」


 一頻り二人で笑ってから玲華が言った。


「はい。今日は――いえ、昨日からありがとうございました」

「それは、こっちの台詞よ。楽しかったわ、休みの日がわかったら連絡してよね。またね」

「ええ。連絡します。それじゃあ」


 ニコリと手を振る玲華を背に、大樹はマンションの敷地から出て家路へ足を進める。

 ふと立ち止まってマンションを見上げる。


「また――か」


 苦笑してから大樹は、今まで見上げるだけで、自分とは無縁と思っていたマンションを後にしたのだった。

 

 

 

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