第二話 うん……?

 

 

 

「如月さん? 風呂ありがとうございました――」


 シャワーを浴びて思っていた以上にサッパリして気分爽快になった大樹がリビングに戻ると、コーヒーの匂いが鼻をくすぐった。


「はーい。いいタイミング、ちょうどコーヒー入れたところ。飲む?」


 キッチンに立っている玲華が、振り返ってにこやかに言ってきた。

 玲華はジーンズとノースリーブのニットに着替えていて、長い髪はまとめて、後ろでなく前に垂らしていた。バスローブ姿は惜しかったが、今の格好もニットのせいか胸が非常に強調されたり、細い足が魅力的に映ったりと、とにかくこの姿も非常に眼福ものだった。


「――あ、ああ、ありがとうございます。いただきます」


 危うくまた見惚れそうになった大樹だが、なんとか返事が出来た。


(美人って、本当なんでも似合うんじゃねえか……?)


 そんなことを内心で考えている大樹に玲華は小首を傾げながら、マグカップに入れたコーヒーを二つもって、テーブルに置き、椅子に腰かけた。


「さあ、そっち座って?」

「はい」

「あ、顔色良くなったね。よかった」

「ああ、やっぱりそれもあって、さっきゼリーくれたんですね」

「げっそりしてたからね。あ、砂糖とミルクっている?」

「いえ、ブラックで普段飲んでますから大丈夫ですよ」

「そう。私もなんだ」


 そう言って親近感を感じさせる笑みを浮かべた玲華は、様になった仕草でマグカップに口をつけた。

 正面でそんな玲華を眺めていた大樹は内心で感嘆した。


(うーむ、やっぱり出来るお姉さんって感じがする……拾ってた時に違うかもなんて思ったのはやはり勘違いだったか)


 そんなことを考えながらうんうん頷いている大樹に、玲華は不思議そうに言ってきた。


「飲まないの? 熱いの苦手だったりする?」

「いえ、そんなことはないですよ。いただきます」


 マグカップを手にとって、大樹はまず匂いを吸い込んだ。

(……さっきも思ったがずいぶん、いい豆じゃねえかな、これ?)

 大樹の鋭い嗅覚がそう訴える。それは決して間違ってないだろうと確信しながら大樹は口をつけた。


「……美味い……」


 しみじみと大樹が本心から零すと、玲華が嬉しそうに微笑んだ。


「本当? よかった、コーヒー自信あるんだよね」

「? 本当に美味いですよ」


 何か引っかかりを覚えながら答えると、玲華はますます嬉しそうになり、またも大樹は見惚れそうになった。


(なんだ? 女神かなんかか? いや、女神だな。間違いない)


 自己完結して結論を出した大樹は、コーヒーをもう一口すすってゆっくり飲み下した。


「それで、昨日なんだけど――」


 マグカップを置いた玲華がそう切り出す。


「あ、そうですね。昨日は一体どうなったんですか?」


 同じくマグカップを置いて、大樹が問い返す。


「えーっとね、柳くんがあんな風にいきなり倒れたから、救急車呼ぼうとおもったんだけど、私の携帯の電池切れてたじゃない?」

「……ああ、そういや、そうですね」


(救急車って……マジか)


 今頃になって大事になりかけてたことに気づいて、冷や汗を流す大樹に玲華は続ける。


「そこでどうしよっかってなった時に思い出したんだよね。うちのマンションに色々手配してくれるコンシェルジュがいるの」

「こ、こん……しぇるじゅ??」

「そう、コンシェルジュ。このマンションに常駐しててね」

「は、はあ……」


(こん、コン……ああ、コンシェルジュか。なんか聞いたことあるな。ホテルとかにいるんだっけか? それがこのマンションにもいるのか、すげえな億ション)


 大樹の驚きをよそに、玲華は口を開く。


「マンションのフロントにいるからその人に、警備員さんも呼んでもらって、まずマンションのフロントの中にある休憩室みたいなとこ運んでもらって、それからコンシェルジュさんがお医者さん呼んでくれて、それで診てもらったのよ」

「あ、あんな時間に……?」

「そう。このマンションと契約してるお医者さんなんだって、それで診てもらったら過労で倒れて寝てるだけだからって言われて、念のために点滴打っておきますって言って、処置してもらったわ」

「え? 点滴?」

「そう。腕に」

「……本当だ」


 よく見たら左の二の腕に確かに赤い点があった。


(いや、シャワーしてる時に気づけよ)


「なんか特殊な針使ってるとか言ってたんだよね。すぐ塞がるからって消毒液ついた脱脂綿で拭いたら、もう何も上に貼らずにいいって言ってたよ」

「へ、へえ……? まあ、全然痛くもないし、多分そうなんだと思います」

「それならよかった」

「……? あ、それなら治療代は?」

「ああ、こっちで払っておいたけど」

「重ね重ね、すみません。後でお支払いします」

「あー……そうね、わかった。それでお医者さんが言うには、後は安静に寝ていればいいって言ってたから、またコンシェルジュさんに頼んで、警備員さん呼んでもらって、うちまで運んでもらったわ。それでベッドは一つしかなかったから、そこのソファーで寝てもらったという訳で……状況はわかったかしら?」


 そこまで聞いて大樹は椅子から立ち上がって、深々と頭を下げた。


「ご迷惑をおかけしました。それと危ないところを助けてくださってありがとうございます」


 玲華は苦笑すると、大樹と同じように立ち上がって頭を下げた。


「それはこちらこそ、よ。階段から落ちた時は、柳くんが受け止めてくれなければ、きっと大怪我していたわ。それにお医者さんから、柳くんが過労で倒れたのだと聞いた時は、私を受け止めたことも一因なんだと気づいたわ。だから、疲れてる時に避けずに受け止めて、助けてくれて本当にありがとう」


 そしてお互い顔を上げてから、微笑んでくる玲華に大樹は照れながら言った。


「いや、あの時は咄嗟にでしたし、それに俺の疲労は如月さんには関係ないことですし、その上、医者まで呼んでくれたりまでして……」

「んー、でも、柳くんの場合は私がいなくてもどうにかなってたと思うんだよね。別の人が通りがかって、救急車呼んでくれたら、過労で倒れて寝てるだけの柳くんならそれで問題ないと思うのよ。反対に私は、あの時柳くんが助けてくれなければ、大怪我は間違いないし、下手したら、いいえ、恐らく入院してたような怪我をしたと思うわ。他の誰かが通りがかれば助かる柳くんと、あの時あの場所に柳くんがいなければ助からない私。さあ、より感謝をしなければいけないのは誰でしょう?」


 ふんすと腕を組んで大きな胸を更に強調しながら、どうだと言わんばかりの玲華に、大樹は反論を試みた。


「いやいや、如月さんなんて男の俺を自宅にまで入れて手厚く面倒見てくれて、シャワーまで貸してくれたし――」

「何言ってるの、助けてくれた人を自宅に入れるぐらい、なんてことないわよ」


 ムッとして玲華が言い返してくると、大樹も負けじと「いやいや――」と言い返せば、また玲華が「いやいや――」と、互いに言い合っている内に、何がきっかけなのかわからないがふと沈黙が降りた。


「……」

「……」

(……あれ、何で言い合って……何を言い合ってたんだっけ?)


 大樹が内心でそう考えていると、玲華も悩むように眉をひそめて視線を宙に彷徨わせていた。

 そして、そんな二人の視線が同じタイミングで交差する。

 何かを言おうとしたが、言葉が出てこず口だけが中途半端に動いて閉じてしまった。見れば、玲華もまったく同じことを同じタイミングでしていた。

 視線が合っていた訳だから、互いが互いにその動きを見ていた。見てしまっていた。

 次いで同じタイミングで二人は視線を外し、それをしたことが互いにわかってしまった。

 そして、視線をそろそろと元に戻すと、また同じタイミングで交差する。


「は、はは……」

 何かに耐え切れないように、玲華が引き攣ったような苦笑を零すと――

「は、はは……」

 大樹も玲華とまったく同じような笑い方をしてしまった。


「……」

「……」


 そして再び落ちた沈黙の末、どちらからともなく、いや恐らく同じタイミングだったのだろう。噴き出す音が発されて――


「あーっはっはっは!!」


 二人して爆笑を始めた。


「もう、何でこんな言い合いになってるの?」


 少し落ち着いた玲華が目尻の涙を拭いながら、もっともな疑問を口にした。


「何ででしょう。如月さんがなんかムキになってたような」

「違うわよ。柳くんの方でしょ」

「いやいや――」

「いやいや――」


 そんな風にまた同じような応酬が始まりかけたが、それに二人してハッと気づき、すぐに耐え切れないように再び二人して爆笑することになった。


「はーはー、うん。もういいから。こうしよう。お互い様ってことで、ね?」


 息を荒げながらの玲華の提案に、大樹は腹を抑えながら頷いた。


「はーはー、異論はありません」

「はい、じゃあ、お礼の言葉はもう終わりってことで!」


 玲華はそう言ってパンと手を叩き、椅子に座り直した。

 大樹も腰掛けると、少し冷めたコーヒーに口をつけた。玲華も同じく、コーヒーを飲んでいた。

 そして二人は同じタイミングで、カップをテーブルに置くと――


「はー……」


 同時にそんな一息を吐き、そのことに両者は気づくと、互いにサッと顔を下に向けて肩を震わせた。噴き出しそうになったのを堪えたのだ。


「ご、ゴホンっ……はあ、笑ったせいかしらね。お腹空いてきたわ」


 言われて、大樹も空腹を覚えた。


「そうですね。俺は昨日の晩も食べ損ねましたし」

「あ、そうだったわね。じゃあ、お昼にしましょうか」


 そう誘うように言ってから立ち上がる玲華に、大樹は目を上げた。


「ええっと、俺にもいただけるんで?」

「え、食べてかないの? 言っても大したものは出せないんだけど」

「いえいえ、ありがたいです。是非」

「うん、じゃあちょっと待ってね」


 頷いてから動き出す玲華に、大樹は胸を高鳴らせた。


(おおおお、美女の手料理! 生きててよかった――!)


 思わぬ幸運による感動で打ち震えていると、玲華はリビング奥の納戸のようなものを開いた。そしてガソゴソと何かを色々と取り出したようで、それらを腕いっぱいに抱えてテーブルへ広げた。


「――どれにする? 食べたいのある? このカップ麺美味しいわよ。あ、でも、さっき起きたとこだし、重たいかな? うーん、お米炊いてから、カレーがいいかな」


 大樹はテーブルの上に広がったものを眺めた。多いのはカップ麺、次いでレトルトカレー、春雨スープや、カップスープの素、おかゆのレトルトまであった。

 それらを見てから大樹は天を仰いだ。


(マジすか……)


 期待してた分、落差が激しかった。


(いや、勝手に期待した訳だけど……ええ、いや、ちょっと待て。こんな出来る雰囲気漂わせてるお姉さんなのに、料理できないのか……? いやいや、偶々だろ。きっと材料が無いからなんだろう、うん、きっとそうだ)


 大樹は自分に言い聞かせるように、自己完結した。


「ねえ、聞いてる? このカレーでいいの?」


 言いながら玲華が突きつけてきたのは、スーパーでもよく見る少し高めのレトルトカレーである。


「えーと……そう、ですね……」


 曖昧に返しながら大樹は、目を彷徨わせた。

 元々大樹は、昨日倒れたりしなければ、家で何か美味しいものを作るつもりで、今頃はそうしてるはずだったのだ。それを考えれば折角の厚意でも、どうにもレトルトなどは食べたいとは思えず、逃げるように目を逸らしてしまったのだ。


「ん? カップ麺の方がいい?」


 ただカレーに気が進まないのかと勘違いしている様子の玲華の声を耳にしながら、大樹はふとキッチンカウンターの上にあるものに目を止めた。


「如月さん……あの食パンは何か使う予定でもあるんですか?」


 助けてもらって厚かましいのも失礼なのも承知で、大樹は尋ねた。


「え? 食パン……? あ! そうだ、昨日帰りにコンビニで買ったんだった!」


 キッチンカウンターへ向かう玲華を見て、大樹はホッと安堵の息を吐いた。

(そっかそっか、やっぱり食材が無いから、このレトルト群だったんだな)

 ならば食パンがあることを思い出したのなら、それを主食に何か作ってくれるだろうと大樹は再び期待に胸を膨らませた。


「それじゃあ、この食パンを……えーと……あ、トーストして……バターつけて、食べ、ようか?」


 玲華が食パンを手にして、気まずげに自信なさそうに、そう言葉を紡ぐのを見て、大樹は嫌な予感に捉われた。


(まさか……)

「そ、そうですね……トースト、と――?」


 躊躇ったが、ここでも失礼を承知で敢えて大樹はトーストの後にアンドの意味で『と』をつけた。


「あ、そ、そうね。トーストと……」


 玲華は焦ったように目をキョロキョロさせた。


(これは……いや、そんな……)

「あの……その食パンですが、どう食べるつもりで買われたんで……?」


 大樹が聞いてみると、玲華は目を逸らしながらボソボソと答えた。


「えっと、その、そのまま適当に……?」

「……つまり素パンをそのまま?」

「お、美味しいんだよ! そのまま食べても! モチモチして! 私は好きなの!」

「は、はあ……」


 顔を真っ赤にして言い訳するような玲華に、大樹はそれしか返せなかった。

 テーブルの上のレトルト群を大樹は改めて眺める。


(冷蔵庫の中身次第だが……なければこれら使ってもやりようはあるか。流石に何かはあるよな……?)

「あの、如月さん……」

「な、なに?」


 何故か身構えるような玲華に、大樹は意を決して言ったのである。


「よければなんですが、俺に料理させてもらえませんか?」

 

 

 

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