きみと西に沈む
藤沙 裕
きみと西に沈む
どうせなら、美しくありたいと思った。醜いこの街の中で、わたしは腐りたくない。それは、きみも同じだった。
「穢される前に、ここから出たいな」
だから、きみは微笑ったのだ。
「もっといい方法があるよ」
ゆるやかに昇る月の晩、暗い星がきみの髪を照らし、淡い風が揺らす。同じシャンプーを使っても、わたしはきみには成れない。それでも、きみに成りたい気持ちに終わりはなく、この泥沼で藻搔いている。
この手は、きみに触れられない。きみからでないと、わたしはきみに触れない。
そうしてわたしは、きみの美しさを守っていた。
* * *
きみは甘く美しいから、わたしの醜さなんて最初から知っていたのだろう。それでも隣にいてくれたのは、誰もがきみの美しさを恐れて、近寄らなかったからだろうか。
わたしはわたしの醜さと、この街の残酷さを知っている。
制服の襟とリボンがなびいて、ふわりと香るきみの隣。いくつもおそろいを作っているのに、本当にはきみに近付けない。
きみが怖い。
わたしの瞳を覗き込んで、すべてを見透かしたように笑う美しい顔が、神様みたいに見えた。わたしにとっては神様そのものだ。この街はきっと、きみがいなくなれば醜いだけの港街に成り下がって、日が昇ることもなくなって、ずっと、何者にもなれずに彷徨うだろう。
きみは、地獄を作り出すつもりだ。
「灯台のふもとに行こう」
「うん」
わかっていて、それでもついて行った。わたしの手を引いたのが、きみ以外の何でもなかったから。
夕焼けもそれを後押しして、きみとわたしの影を重ねた。色濃く暗く染まった部分でだけ、わたしは、息ができるような心地だった。
硬いコンクリートが嫌いだった。潮の匂いが嫌いだった。早朝に鳴く鳥の声も、つまらない話しかしない大人たちも、下品な同級生たちも、全部。
この醜い世界で、きみだけが美しい。
きみだけが、わたしを掬い上げてくれた。
だから、きみのためなら何だってしたい。これはわたしの、たったひとつの本心だ。
「ねえ、本当にいいのかな」
「大丈夫だよ」
看板はひどく劣化しているが、それでも立ち入り禁止の文字は読めた。わたしたちでも軽く乗り越えられる古めかしいフェンスだけが、ふたりを阻んでいる。
「一緒にいこう」
きみはそれを軽く乗り越えて、立ち入り禁止の奥から手を差し出した。わたしは、きみに触れられないのに。
「……駄目だよ。行けない」
「どうして?」
漆黒の瞳が、じっとわたしを見つめた。それは責め立てるように、穢れなく純粋で、時を止める魔法のような輝きを放つ。
だから、答えられなかった。
「理由がないなら、いいでしょ」
きみが私の手を取って、力強く引いた。バランスを崩し、そのままフェンスを乗り越えて、またきみの隣へと戻ってくる。
理由ならあった。きみの美しさを守るため。けれど、そう言えばきみは、きっと笑うだろうから。
「いこう」
そびえ立つ灯台の白い外壁はひび割れている。何十年もこの街にあれば、それも当然だろう。
きみはこの灯台の話をよくしてくれた。昔、まだこの灯台の中に入れた頃、きみは何度もここに来ていたらしい。同じ景色しか見えないのに、それが好きだったのだと言う。けれど、今は。
きみもわたしも、もうすこしで大人になる。変わり始めた景色は、わたしたちが大きくなりすぎたから。この街は生まれた頃から変わらないのに、わたしたちだけ変わってしまった。
変わりたくない。変わりたい。わたしはきみに成りたい。きみになって、美しいその瞳で、この世界のすべてを見てみたい。
きみは、何に成りたいのだろう。
「ねえ、聞きたいことがあるの」
今ならば、聞ける気がした。理由は、なかった。
「……何に成りたい?」
きみの返事を待たず、わたしは問い掛けた。きみはすこしだけ歩く速度を落として、何かを考えているようだった。
きみの答えがほしい。そうすれば、きみにすこしだけ近付ける気がしたから。
「……何にも、成りたくない」
きみが振り向いて、いっとう強い風が吹く。なびいた髪が同じ匂いを連れてきて、あぁきみだと安堵する。
「大人には成りたくない。けれど、子どもでいるのも嫌なの」
足を止め、きみの弱いところが潮風に晒される。きみのすべてを守ってはあげられない、けれどここに、きみの存在を証明できるのはわたしだけだ。
「……だから、ね」
再び歩き出したきみの言葉の続きを、想像するだけでわたしには精一杯だ。この手はきみの温度を知っているのに、きみはずっと遠くにいる。わたしたちは、ひとつにはなれない。
灯台の裏手まで来ると、きみは歩みを止めた。背後にそびえ立つ灯台。眼前に広がる海はうねっている。
「わたし、この街が嫌い」
海を見下ろしたきみの声が、風に攫われながらちいさく聞こえた。髪が乱れることを気にも留めないきみに、この街の何がそう思わせたのだろう。けれどきっと、理由はわたしと同じなんじゃないか──そう期待するわたしこそ、この街を具現しているというのに。
「生まれてからずっと、この街の空気を吸ってきた。身体の中から濁っていくみたいに、ずっと」
きみは繊細すぎた。その細い髪の一本ずつも、冷たい指も、何もかも。
「大人はみんな、汚い手でわたしに触るから、わたしだって、もう」
握られた手に込められる力で、その感情の強さを感じ取ってしまった。わたしにできることがないことだけ、ただ明白だった。
一番綺麗だと思っていたきみの美しさは、とうに濁っていたのか。
一番穢れを嫌うきみは、穢れた後だったのか。
「……だから、これでおしまい」
──本当は、どこを切り取っても綺麗なきみの隣でなら、わたしは汚く腐り果ててもかまわなかった。
きみは手を離して立ち上がった。見上げたその表情は、美しさそのものだった。
「あなたも、来る?」
きみが落ちた。美しい微笑みをたたえたままで。
差し出したその手を、わたしは掴めなかったから。
わたしを掬い上げてくれたきみの手を、わたしは。
「ごめんね」
涙は出なかった。夕焼けが、海を照らしている。
そこに、きみが沈んでいる。
「ごめんね」
今度はきっと、わたしが、きみを掬い上げるから。
──終
きみと西に沈む 藤沙 裕 @fu_jisa
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