嵐のような女
タナカ
第1話 嵐のような女
2年ほど前、私の経営する喫茶店にずぶ濡れで入ってきた女がいた。その長髪が水に濡れ、首や服にまとわりついていた。
周りの客はその異様さに目を見張り、いくらかの客は指をさして笑い、怖がる者もいた。当の女は微動打にしない。店の風評としては、そんな状態の女を追い出すわけにもいかない。だからといって、入口に立たせておく訳にも行かない。私はとりあえず、厨房へと女を招き入れた。タオルを渡して、何枚か服をあげた。女はただ、ありがとうと言った。これくらい、大きな騒ぎになる方がゴメンだから当たり前だ。女には確か、物は返さなくていいから、と適当に言った覚えがある。
客に呼び出されて注文を取って帰ると、女はもういなかった。いつの間に出て行ったのだろうと入口の方を見やったが、誰もおらず、ただ空には雲が張りつめ、雨を降らしていた。
次に女に会ったのはその1ヶ月後。あの、長い黒髪はバッサリでデコルテまでに切られていた。
服を返しに来たらしい。女は美希と名乗った。美希は華奢で肌が白く、何より背の高い女だった。それはそれは綺麗な女だった。今まで見てきた誰よりも、魅力ある女だった。美希は礼をさせて欲しいと言った。私は断ろうと思った。喫茶店経営が忙しいのもあるが、私は女というものがつくづく苦手であった。美しいとも思う、魅力的であるとも思う。だからといって関わりたい訳では無い。いつからか「女」というものが怖くなった。見ているだけ、それだけでいい。そんな私がどうしたことか、美希の誘いに二つ返事で乗ったのだ。まるでゲームの村人Aのように、用意されていたセリフのように言った。「はい、いいですよ」と。
私達は近くのバーに行って酒を飲んだ。普段から酒は飲みなれているようで美希は酔うことなく飲み進めていった。初めて会ったあの女とは全くの別人のように思えるほど、美希はよく笑っていた。私が手洗いへと席を外して戻ってきた時、グラスが2つカウンターに置かれているだけで美希はもう姿を消していた。私はそのグラスの中の酒を飲み干して、帰った。いや、違う。私はグラスの中の酒を飲み干してマスターに言ったんだ。「女はどこに行ったか」と。そこで私の記憶は無くなっている。
その5ヶ月後、突然また、女は喫茶店に現れた。美希は言った。「チーズケーキ1つとアイスコーヒーを1つ。」ただ、「承りました。」そう言って私は厨房に引き下がった。大した反応もなく普通の客として話す美希。美希は私のことを忘れたのか、と思った。
注文内容をバイトの子に伝えれば、一言言われた。「その席には人が座っていませんけど?」
振り返ると、そこはただ日が差すテーブルがあるだけ。女はどこにもいなかった。私が出したはずの水だけがテーブルの上に置いてあった。
それから3ヶ月経った。私は美希のことで頭が一杯であった。「美希」という得体の知れない「女」の不可解さ。私の思考を占領するには十分だった。美希というのは私が作り出した想像上の人物なのではないかと思ったりもした。しかし、美希は確かにいた。普段しっかりとした根拠がなければ是としない私が、何故こんなに美希に固執しているのか。分からない。
そんな時またふらりと、喫茶店に美希は現れた。「お久しぶりです。お元気ですか?」と。笑みを浮かべて。「…元気ですよ。本日のご注文は如何なさいますか?」動揺を隠し、注文をとる。そして女は言う。「チーズケーキ1つとアイスコーヒーを1つ」と。「承りました。」そのまま、女を横目で見ながら厨房へ下がる。また居なくなってしまうのではないかと恐れて。
チーズケーキを1つとアイスコーヒーを1つ、トレーに乗せて運ぶ。美希のいるテーブルへと。美希は居た。それは嬉しそうにケーキを食した。
勘定に来た美希は2倍の金額を出した。「多いですよ。」そう言えば、美希は「この前のポカしの分のお金です。」と言った。覚えていたのか。「何か用事があったのですか?」そう尋ねれば「タイムリミットですよ。私の。」と不敵に笑った。美希はそのまま店を出た。初めて美希が帰るその瞬間を見た。
あれからまた2ヶ月。街で偶然女と出会った。いや、偶然見つけた。美希はどの店に入ることも無く堂々と歩いていた。人混みを上手くわけ進む美希は直ぐに私の視界から消え去った。数時間して、用を片して喫茶店に帰る時、再び美希を見つけた。何を思ったか声をかけよう、と思った。女に自分から話しかけたことは片手で数える程しかないというのに。「こんにちは。」私の声に反応した美希はとても驚いていた。「あなたは優しい人ですね」そう言って美希は微笑んだ。挨拶に返す言葉ではないが、それが当たり前かのごとく話す美希を見て、私は一緒に微笑んだ。しかし、その私の微笑みはすぐに消えた。女の目には涙が溜まっていた。
あれから半年たった。女はもう喫茶店に現れていない。美希は今どうしているだろうか。そもそも影がなかった美希は何者なのか。毎日そのことばかり考えている。「女」が苦手な私がこんなににも美希に囚われている。呪いのようにずっと考え続けている。「てんちょっ!この記事見てくださいよ〜。これ、一年くらい前のお客さんっしょ!やっべぇ〜」バイトの子が私に新聞を渡してきた。地方新聞の小さな記事には
【会社員 立花美希 24歳 行方不明】
事務連絡のように書いてあった。その隣には美希の写真が。「3年前の記事なんすけど、さっき郵便で届いてて〜!怖っ!てんちょ、お祓い行きやしょ!」その言葉を聞いて日付を見る、確かに3年前だ。美希は行方不明。私が美希と会っていたあの時間の間も美希は行方不明だった。私は分からなくなった。あの美希は私が会った美希は誰だ?
翌日、私は美希のことを深く考え始めた。1番初めに会った時、女がずぶ濡れで入ってきたときにはもう世間では、美希は行方不明だった。だが、美希はそこにいたし、私と会話をして私と笑った。あれは全て幻想か?いや、ずぶ濡れで入ってきた時はバイトの子達も見ている。それは確かだ。美希に何があったのか、私はとても気になった。それよりも、美希に会いたいと思った。そして自覚した。私は美希が、好きであると。
それから4ヶ月、暇さえあれば美希を探した。調べたり、街で美希のいた場所を歩いたり、最後に会った公園の前にはもう何十回と行った。それでも美希は見つからなかった。それはそうだ。美希は行方不明なのだから。今までの方がおかしいのだ。
時が経って半年。美希のことはずっと頭の端にあった。こんなににも美希を好きな自分に驚いている。「女」は苦手な私が。美希を切望している。カランコロン、喫茶店のドアが開く。「いらっしゃいませ。」そう入口を見やって言えば、美しい女が立っていた。そして、いつかと同じ言葉を言った。「お久しぶりです。お元気ですか?」動揺は隠せない。「…お久しぶりです。」ただその言葉を返せば、「やっぱり、あなたは優しい人ですね。」と微笑んだ。「どういうことですか?」そう問えば美希は再び微笑む。「哀れみを持って、私と話してくれるのでしょう?」と。違う。「違いますよ、私は優しい人間じゃない。」否定すれば「いいえ、あなたは優しい人です。」美希は引き下がることなく主張した。「私はそんな優しい感情をもってあなたと話しているわけではありません。」そう言えば美希は不思議そうにした。「…ならどうして?」決まっている。「私はあなたに惚れているからですよ。それ以外に理由がいりますか?」美希は笑った。涙を浮かべ苦し紛れに。「ほら、やっぱりあなたはとても優しい人。知ってるわ、あなたがどれだけ優しい人か。立花さん、それは誰との指輪です?」
何を言われているのかがさっぱり分からない。
「あなたは優しいから、何もかも忘れているの。でも、私は酷い人。最後にしようって思っても、あなたに思い出してもらいたくて、覚えていてもらいたくて変な行動とって。馬鹿みたいね。」
そう言って女は帰った。私は何も言えず、動けもしなかった。頭に流れる走馬灯のような多量の記憶が流れ込んできて、私の時を止めたから。
小さな物語が再生され始めた。遠い昔、私には結婚を誓った恋人がいた。結婚して2人で喫茶店を開こうとしていた。幸せで溢れていた。その矢先、彼女は交通事故で、昏睡状態となった。事故から1年、奇跡的に目覚めた彼女には私の記憶がなかった。私はとてもショックを受けた。愛しい人に忘れられてしまったのだから。それでも、私は彼女を愛した。だが、それより苦しんだのは彼女だった。思い出したいと切に願っていた。あなたが優しい人だって、私は知っている。私はとてもあなたを愛していると知っている。そう彼女は私にいつも言っていた。もう一度やり直そうと言っても、彼女は首を縦には振らなかった。ただ、ごめんなさい、とひたすら謝り続けた。
彼女が目覚めて1ヶ月経った。彼女は病室から途端に姿を消した。愛しています、その言葉を書き残して。私の記憶は、そこで終わった。
似たもの同士の恋人だった私たち。完全に彼女を失ったショックで私も、彼女のことを全て、忘れてしまったらしい。今の今まで全て。
あれから、何かの節で思い出して、私の元に来た彼女。必死に、雨の中濡れながらも、夢として話していた喫茶店に。しかしもう、私の瞳に彼女は映っていなかった。
私は全てを思い出した。それと同時に走り出した。もう、失うわけにはいかないから。
「私はあなたに酷いことをしたのよ。忘れられて当然。私に対する罰。」
「美希は悪くないだろう。事故のせいで、仕方の無いことだ。もうそんな昔話はやめよう。もっと楽しい話をしよう。」
「ふふ、例えば?」
「君のお腹にいる赤ちゃんについてだ。得意だろう?嫌なことを忘れるのは。」
「そうね。私たち似たもの同士だものね。」
嵐のような女 タナカ @miyaizuki
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