白黒

鰹 あるすとろ

◇◆◇



 ―――突如として、人が街から忽然と姿を消した。



 そんな恐ろしく、かつ奇妙な事件が世間を騒がしたのは、つい最近からのことだった。


 最初の失踪者は一人の会社員。次は学生、その次は老人。

 条件は不明。共通点もなし。だが一人、また一人と失踪者は日に日に増加していった。

 この奇々怪々な事件に関する怪奇譚は、直ぐ様国中、ひいては世界中にまで広まり、恐れられていった。


 当然だ、なにせ明日は我が身が消えるかもしれない。

 理由も正体も解らないその不可思議な犯罪……もしくは怪奇現象であろうそれは、確かに人々の心に恐怖だけを植え付けていったのである。


 ……そしていつしか、「被害者は既に死んでいる」、という噂すらが出回った。

 きっと有識者の誰かが「失踪者は恐らく既に命を失っているのだろう」とTVから訳知り顔で語ったのが切っ掛けだろう。


 当然根拠もなく、証拠もない単なる推察による知見。だがそれが信憑性ある説として広まるに、この事象の奇妙さは十分すぎる程だったのである。


 ……だがそのような噂や恐怖が蔓延したからといって、人々の生活が変わることはなかった。

 漠然とした恐怖、それを抱きながらも人は生活を続けていく。今まで通り、これまで通りに、と。

 誰もが努めて、前を向いて日々を生きていたのだった。



 ―――だが、此処にいる一人の男は違う。


「こんなわけのわからない事件、いったい……誰が起こしてるんだ」


 世界が恐怖を覚える中、一人の男がカウンターテーブルで煙草を噴かしつつ呟く。


 ……そこは喫茶店だ。間接照明がやたらと置かれた、小洒落た店内が目につく。

 喫煙可であることを売りにしたその店に昼間から屯していたのは、彼くらいのものであった。


 男の顔は平凡そのものだったが……服装はそうではない。夏だというのに厚手の黒いコートを見にまとい、その頭には白い帽子。

 手元には注文した珈琲のカップが置かれており、なかにはミルクが混ぜられていた。


 珈琲のなかへ、ミルクは渦巻いて混ざっていく。そして白と黒はやがて完全に混ざりあって、一体化した。


「そろそろ、行くか」


 男はそれをぐい、と飲み干すと、手早く会計を済ませる。

 彼には重要な仕事があった。この休憩時間だって、数日ぶりにとったものなのだ。


 そしてコート姿の男は己の仕事―――「行方不明者の捜索・救出と、犯人逮捕」のため、足早に外へと繰り出したのであった。



 ◇◆◇



 刑事である彼は今まで、その職務に文字通り全てを投げうって貢献してきた。

 休暇は平気で返上したし、尋問や捜査のために何時間も、または夜が明けるまで署に詰めていたことだってあった。

 その過程で家族を蔑ろにし、白い目で見られたのも数度ではない。妻との関係は良好とは言えないし、娘からも快くは思われていなかっただろう。


 思えば祖父母や両親が亡くなった際も、彼は仕事に邁進し続けていた。

特に父とは不仲で、顔を突き合わせては口論をしていたことを覚えている。

 葬儀にも体裁上出席こそしたが、親類にはいい顔をされなかったことが記憶に新しい。

 それから特に親戚付き合いもなかったのだから、きっと疎まれているのだろうと彼は自覚していた。



 ―――しかしその反面、仕事場では人に頼られ、感謝される機会に多く恵まれていた。

 犯人を逮捕すれば被害者から感謝の言葉を送られ、その後の面倒をみたことで自分に懐いた前科もちの人物も少ない。

 その働きぶりから上司の覚えもよく、ゆくゆくは署長、もしくは本庁への出向すら選択肢に入るほど。同僚たちからも羨望の眼差しを集めていたのである。


 そしてなにより特異だったのは、彼は刑事たちの中でも珍しくあの奇妙な事件の被害者が生存していると、心からを信じていたことだ。

 それは証拠などもない、彼の勘。これは怪奇現象などというオカルトなどではなく、れっきとした犯罪であると断言し、捜査継続を訴え続けた。

例えいくら証拠が見つからずとも、「きっと生きている」、そうあれかしと願い続けた彼の心はまず間違いなく聖人のそれだっただろう。


だがその過程で、家族が不幸を感じ心が離れていったこともまた事実。



 男はとことんに白と黒、良い面と悪い面を併せ持った人物だったのだ。

 職務においては他の追随をおよそ許さぬほどの善性を発揮し、一方では家族を顧みず、冷えきった関係を改善しようともしない悪性を発露する。


 それはあるいは「人間らしい」とも言えたかもしれない。

 善と悪、良いも悪いも清濁を併せ持った、「大人」。

 それこそが、男の本質だったのかもしれない。


 だが、だからこそ。


「……?」



 喫茶店を後にし、直進して二本目の通りに出ようというところ。


 ……そこで彼は、背後からの視線に気付く。

 そして同時に走る、極度の寒気。怖じ気、とも言い換えてもいい。

 得体の知れない何かに覗かれているような……そんな本質的な恐怖が、今の彼を包んでいた。


「……!?」


 男は思わず、咄嗟に振り向き背後を見る。


 ―――だが、そこにあるのはただの路地だった。

 暗い、暗い路地。

 日の光が届かない日陰、暗がり、暗闇。

 呼び方は様々だろうが……それを形容できる言葉はひとつ。


 ―――「黒」。

 そこを構成していたのは、正にそれ一色だった。


「……え?」


 そして、何故か。

 男の足は、自然にその暗がりへと向かおうとしていた。なぜそこに向かうのか、本人すらも理解することはない。


 なにせ路地裏になど用はないのだ。彼には早く署へと戻り、事件の対策会議に合流するというれっきとした職務があるのだから。


「なん、で……!?」


 だが、怪訝に思いながら、行きたくないと思いながら。

 それでも彼の足は、ひたすらにその路地へと真っ直ぐ歩んでいく。


 路地へと近づく度、冷や汗が滝のように流れていく。一歩、また一歩と。


 そして、日向から日陰へと……ついに足を踏み入れたその瞬間。




『ツカマ◆タ』







 ―――彼の姿は、人々の視界から完全に消え失せた。


 忽然と、痕跡すら残さずに。


 何人かはそれに気付いただろう。路地裏へとふらつきながら歩いていった彼が、突然にその姿を消したことに。

 そして誰もが思うのだ。


 消えた人物は、誰なのだろう。

 顔は見えなかった、どんな服装かも記憶していない。


 次は自分かもしれない、怖い。


 ……それだけだ。

 そこから浮かぶのは、保身の為だけの不安の感情。

 結局のところ、街の人々が気にしているのは「人が忽然と消滅した」という事実のみ。


 ―――誰が消えたか、なんてものは考えるにも値しない、取るに足らないどうでもよいことでしかなかったのであった。



 ◆◇◆



 男は、その目を覚ます。

 瞼をゆっくりと開くと同時に、彼の意識は加速度的に活性化していった。


 辺りを見渡すが……そこには、奇妙な光景だけが広がっていた。



 視界に入ったのは、自分の今まで生きてきた世界と全く相違のない現実世界……の、ように見えた。

 周りにはビルが立ち並び、後方には先程自分が出てきた喫茶店。

 なんの変哲もない、いつもの街並み。


 だが、ひとつだけ。唯一にして、決定的な相違点があったのだ。


 ―――それは、光と、影と、色。


 そのなかでもとりわけ「色」は、生きていれば当たり前に知って、見てきた世界を構成する色どりであり、美しさの根元でさえあった。


 だが、今彼の視界にそれはない。


 白と、黒。光と影。


 ―――それだけで、すべての建物や、空。通りすぎる車でさえも、白と黒のツートンカラーで映し出されていた。


 そう、「色」が喪われていたのだ。

 その世界には彩度がなく、光と影しか存在しなかった。

 二極化された、暗明のどちらかしかない風景。


「なん、なんだ…これは……」


 モノクロな世界を前に、男は立ち尽くすことしかできなかった。

 目が、おかしくなったのだろうか。それとも世界のほうか。

 そんな疑問、思考ばかりが彼の脳裏を支配する。


 彼は集団失踪事件を追っていたのだ。

 間違ってもこんな、オカルトめいたものでは、決して―――、


『ツカマエ◆』


 瞬間。

 男の背後で、くぐもった低い声が木霊した。

 それはエコーがかった、声が幾重にも重なったような音。人の声のようにも聞こえるが、同時に虫の羽音のようでもある非常に奇妙な音だった。


「な―――」


 男はその声に、思わず振り向く。

 ……だが。


「なにも―――」


 一見そこには、何もいなかった。

 彼が入ってきた路地裏は、光が射さない。だから黒く塗り込められていて……何も、見えなかった。


『チョウダイ、◆◆◆』


 だが、声は今も響いている。

 ……「頂戴」と、その声はひたすらに唱え続ける。その後の言葉は聞き取れなかったが……きっと、その欲しいものを表していたのだろう。


 そしてやがて、彼は気付く。

 彼の目前に広がるその黒い影が、うぞうぞと蠢いていることに。

 まるで生きているかのように。痙攣するように。


 そのことに彼が腰を抜かし、後方に倒れ込んだ瞬間。


 ―――影から、手が伸びる。

 黒い影で構成された、薄気味の悪い腕。

 それは痩せぎすな骨ばった手だった。折れそうな程に極度に細い、枝のような。


 それを見て……彼は、晩年の祖父を彷彿とした。

 病床に横たわっていた時期の彼は、確かにこのように衰えきった手をしていた。


「何を、だ……?」


 だから、同情的になってしまったのかもしれない。

 男は思わず、影に語りかけていた。

 要求をするからには、この影には求めるものがあるのだろう。それを提供できたなら、もしかしたらこの奇妙な世界から逃がしてくれるかもしれない。


 そんな打算もあった彼の質問を、聞いたからか。

 それは解らなかったが、ともかく腕は彼へと伸びることをやめて、空中で静止する。


『―――』


 声にならない、呻きのような音。

 それを聞いた男は、この「影」が対話可能な存在であると、そう理解した。


 震えていた足も、抜かしてしまった腰も。どうにか体勢を立て直して、彼は立ち上がった。


「俺に、提供できるものならなんでもやる。だからどうか、元居た場所へと戻してくれないか」


 男は努めて、穏当に事を運ぼうと「影」を説得する。彼の普段の仕事からすれば、説得や取引などというものはお家芸だ。

 この手練手管で何人もの犯罪者を捕まえ、そして一部は更正させてきたのだから。


『―――ワカ、ッタ』


 彼の言葉に、譫言を呟くばかりだった「影」は初めて返答らしい返答をする。

 ―――その反応に、男は思わず自分を誇った。

 なんだ、随分と素直じゃないか。そこらの犯罪者よりも、余程従順で御しやすい。

 これならば、思ったよりもスムーズに事が運べそうだ、と。


「さ、望むものを話してくれ。この白黒の世界にあるのものかは解らないが、最大限努力して持ってこよう。なんなら、元の世界に戻ってからでも―――」


『欲シイモノハ』



 ―――彼の言葉を遮るように、「影」は声を上げる。

 それと同時に、腕がまた伸びて彼の直ぐ前にまで到達。そして……また、静止した。


 手を開いて、微動だにしないその手。

 それはまるで、握手を求めているかのような……そんな素振りでもあった。


「?、握手か?構わないが……」


 彼は、思わずその手に手を合わせようとした。

 油断、していたのだろう。

 目の前の超常的な存在。

 それを掌の上で転がしているような……そんな、優越感にも似た感情を抱いていたのかもしれない。


 だが。


「……ッ!お、おい……!?」


 男の顔が、突如として苦悶に歪む。

 差し伸べられた彼の手は、黒い影の手に万力のごとき力で締め上げられたのだ。


 指が徐々に折り曲げられ、骨が軋む。

 爪も割れ、そこからは出血すら。

 まるで作業用の重機に巻き込まれたかのようなその激痛に、男は思わず目に涙すら浮かべていた。


『欲シイノハ』


 だが「影」は、変わらぬ声のトーンで繰り返す。

 雑音混じりのその音は、極めて聞き取りづらい物であった。

 痛みに苦しむ男には、聞こえたかも解らないその声。


 だが……確かに、その最期の瞬間。


 彼には聞こえた。「影」の、その言葉が。




『欲シイノハ、





 そして、最期に男が見たのは。


 ―――無数の手が、暗闇から伸びて……彼の体を無惨に引き千切る、その光景だけであった。





 ◆◆◆






 暫くして、男の同僚が彼の不在に気付いたことでその失踪は露見した。

 国内で初めて、刑事が失踪した。その事実は、民衆に更なる恐怖を与えるに足る、大きな出来事だった。


 彼の顔写真は名前つきで公開され、男の顔と名前は全国の人々の知るところとなった。

 そして、それを見て誰もが思う。


 ―――「明日は、自分が被害に遭うかもしれない」、と



 だが、それだけだ。

 それ以上はない。


 彼の名前を数日後まで記憶している人間は一握りで、彼の為に涙を流したものも一握りだった。


 彼に世話になった元囚人たちは、最初こそその死を悼んだが……すぐに、努めて忘れて元の生活へと戻った。


 彼の同僚もまた、彼の死を悼んだ。しかし直ぐにその悲しみを「事件解決のための奮起」へと変え、その職務に日々邁進していった。


 そして彼の家族は、彼の死を喜んだ。元々冷えきった関係であった妻は、彼の他に最愛の人を既に見付けていたのだ。そして娘もまた、ちゃんと「親」をやってくれる別の男に、大層懐いていた。


 ―――誰もが、彼の生存を信じることはしなかった。

「死亡」、ではなく「失踪」であるにも関わらず。未練を抱くこともなく、彼の死を前提とした前向きな思考で、未来ばかりを見つめた。

 決して過去を振り向くことはしない、ポジティブな白。



 だからこそ、男は帰れなかったのだ。


 彼は「影」に「元居た場所」に帰りたいと願ったが、それは叶わない。


 なにせ彼に戻るべき居場所など、端から無かったのだ。どこまでも代用品に困らない、曖昧な存在。

 白にも黒にもなれない、どこまでも半端な生き方しかできない混ざり物。



 ―――だからこそ、「影」の怪物に狙われたのである。





 ◆◆◆





 だが、全く救いがなかったわけでもない。


 あの「影」は、約束を破ることはしなかった。

 彼が口にした「元居た場所へと戻してくれ」という嘆願を、なんと快く受け入れたのである。


 ……だから彼の衣服も、持ち物も。


 その全てを、へと返還していた。


 ―――細切れの衣服や着けていた安物の腕時計は、完璧に直されて購入された店の陳列棚へと戻った。

 解れのひとつも傷もない、完全な状態で、である。


 そして、店員たちはそれに気付くだろう。だが結局のところ、抱く感情は極めて平坦なものでしかない。


 「どうして、値札のない商品があるのだろうか」、と。



 ―――なにせ、血も肉も、髪の毛の一本でさえ。

 そこに居るべきではない彼の痕跡は、その衣服には……一切付着してはいないのだから。

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