初期の平野啓一郎のように、擬古文で執筆する現代文學という難題に挑戦している。
内容は、恐縮ながらカテゴライズさせてもらえれば、梶井基次郎風の幻想小説となっている。
大學生の殉一は、知人のY君の死のなぞを追蹤することで、狂気の世界に嚮導されてゆく。
殉一とY君は藝術でつながっていた。
それだけが殉一とY君の羈絆だったといってもいい。
クライマックスでは、幻覚らしい一組の警官からY君殺害の容疑をかけられる。
理由としては、おそらく、天皇陛下を揶揄しているらしい不敬な藝術家を愛好しているからだという。
殉一からすれば、『藝術は運命的に悪だ』というような理窟になる。
畢竟、『藝術を愛することそれ自体で我々は受難する』ということが主題にあると愚生は讀ませていただいた。
「Y君の死」そのものを愛好することだって、我々を非難するにあたいする行動とされるかもしれない。
此処はあきらかに藝術論を橋渡しとしたメタ的構造となっている。
同時に、前述のとおり、殉一とY君は藝術でつながっていた。
とどのつまり、『我々はときに藝術家としてときに愛好者として、藝術のみをたよりにつながりながら、藝術のみを理由に断絶されうる』という結論になるだろうか。
愚生の讀みかたがあまかったらもうしわけないが、それほど複雑なる哲学的内容がかんじられる作品だった。