第4話
その翌日も、そのまた翌日も老婆はいなかった。
見えなくなってしまったわけでなく居なくなってしまったらしい。その証拠に、交差点を行き交う人々が老婆の居たあの場所を避けなくなった。これまで誰もが避けていた交差点の真ん中をいくつもの足が踏んでゆく。
とはいえ目に見えた変化はその程度だった。老婆の霊を見たという噂も無ければ、誰かが飛び降りたという報道もない。私や高梨の身にも特に何も起こってはいないようだ。不穏な予感に身構えていた私は、正直なところやや拍子抜けしていた。
本当にただ偶然、あのタイミングで老婆が消えてしまっただけなのかもしれない。成仏したということなのかもしれないし、空間に染み付いたシミが落ちたようなものなのかもしれない。元々たいして老婆に関心は払っていなかったこともあり、老婆の居ない日常に慣れるのは早かった。
程なくして塾生たちは夏休みに突入し、アルバイト講師陣も忙しくなった。問題集の採点や自分が教えてもいない教科の質問への対応に追われるうち、私の頭から老婆の事はほとんど消えていた。
夏休みに入って一週間ほど経った夜。私は模試の採点をするために居残りをしていた。塾長を含む他の講師はいつの間にか帰っていたようで、採点が終わってふと気づくと事務室に一人になっていた。
「声くらいかけてくれても良いのに」
一人悪態をついても勿論反応はない。採点も終わったし帰るか、と事務所の電源で充電していたスマートフォンに手を伸ばして気付く。ランプが点滅している。
緑色に点滅するときはメッセージが届いているとき。画面を起動してみると、1時間ほど前にメッセージが複数件入っていた。差出人は、高梨だった。
メッセージウィンドを開くと「怪談会はじめまーす♪」とのメッセージとともにいくつかの画像が送られていた。高梨とその同級生らしき男の子が数人、笑顔でピースサインを向けている。彼らは一様に日に焼けた赤い顔をしていて、ロッジのような部屋ににお菓子の袋が散らばっている。
「ああ、遊びに行くのって今日だったのか」
私は一人呟く。忙しすぎて気付いていなかったが、確かに今日は高梨の顔を見ていない。昨日の模試を終えた直後、採点も待たずに出かけるスケジュールを組んでいたということだろう。採点してる方にこんなの送り付けるとはいい度胸じゃないか、と苦笑いする。
それ以降のメッセージは怪談会の様子を写真に撮ったものらしかった。部屋を暗くして僅かな明かりを灯し、皆で輪になって座っている様子が写されていた。「心霊写真撮れちゃうかも!」などとコメントが添えられているが、残念ながらと言うべきか無事にというべきか、それらしきものは見当たらなかった。
画面をスクロールしていくと、最後によくわからないメッセージが届いていた。たった一文字だけ「嘘」と。タイムスタンプは5分前。どうやら写真を眺めている間に受信したようだった。通知なんてあっただろうか、と疑問が頭を過る。
それにしても「嘘」とは何だろう。メッセージを打っている途中で誤送信してしまったのか、それとも宛先を間違えたのか。それまでのメッセージとの脈絡も見えないので、特に意味は無いと考えるべきだろう。
そう考えたところで突然スマートフォンが手の中で震えた。
電話の着信。電話元には高梨の名前が表示されている。一瞬驚いたが、電話に出てみることにした。
「もしもし」
「あっ先生、高梨です!メッセージ見ました?」
高梨の声に交じり、ガヤガヤと騒ぐ声が聞こえる。よく聞き取れないが、友人らが同じ部屋でふざけている様子が伝わってきた。
「見たよ。こっちは模試採点で残業だってのに楽しそうで何より」
「あはは、皮肉は無しで!お土産買ってきますから!」
高梨が電話の向こうで声を弾ませる。そういえば、とこちらから話を切り出す。
「最後のメッセージ、あれは何?誤送信?」
思ったよりも長い沈黙が流れる。背後の雑音が暫く耳に届く。
「あー…あれはですね」
ようやく高梨の声が聞こえる。十中八九誤送信だと思っていたので何かしら理由を話そうとしていることを意外に思う。意味の無いメッセージではなかったのか。
再び沈黙。高梨の声を待ち、静寂に耳を傾ける。
「あー…先生。こないだ話してくれたじゃないですか。交差点のお婆さんの話」
「え?」
予想だにしない話題に面食らう。なぜ今この話が出てくるんだ。
しかし高梨は一呼吸おいて続ける。
「あの話、飛び降り事故とか起こってないですよね、本当は」
「………」
突然のことに頭がついていけなかった。
「しかもお婆さん見えてたのって、友達じゃないですよね、本当は」
なぜ今そんなことを言うのだ。それ以上に、なぜ知っているのだ。
沈黙が、静寂が耳に痛い。そう思ってようやく気付く。
さっきから電話の向こうで音がしない。あんなにうるさく聞こえていた、ロッジで騒ぐ音が、今は一切聞こえない。全身に寒気が走った。今すぐに電話を切るべきだと直感した。
しかし、一足遅かった。
「どうして…どぉしてうそついたんですかぁ!」
絞り出すような大声で高梨が叫んだ。湿っぽく震える声は、怒りのようにも恨みのようにも、嘆きのようにも聞こえた。スマートフォンを持つ手が固まって耳から離せない。電話の向こうでは咽び泣くような音、鼻を啜り上げるような音に混じって「なんでおれが」と一瞬聞こえ、通話が切れた。
そして二度とかかってはこなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます