第3話


 翌日、つまり今日。

 講義を終え、帰り支度を始めていた高梨の肩を叩いて声をかける。

「昨日言ってた怖い話、ひとつ思い出したよ」

「さすが先生!いいっすね、聞かせてください」

 高梨は肩に担ぎかけていたバッグを机の上に置き直した。他の生徒は帰ってしまい、教室には私と彼の二人だけになった。十数人が居なくなった部屋はいやに静かで、みるみる熱が失われてゆくように感じた。室内を明るく照らす蛍光灯の光も却って外の暗さを引き立てているようだ。雰囲気はあれど不穏過ぎず、怖い話をするにはちょうど良いと言えるだろう。

「これは友達から聞いた話なんだけど」

 体験談として語るよりもその方が怖いような気がして、伝聞だということにした。もしもウケが悪かったらその“友達”のせいにしてしまおうという打算もあった。

「その人が子供の頃にね――」

 語りながら聞いている高梨の反応を窺ってみると、意外にも真剣な面持ちでいてくれた。そのように期待されれば語る側にも力が入る。自分にしか見えない不気味な姿の老婆がいる。何かを探すような仕草をしながら十年以上もそこにいる。じわじわと恐怖を煽るように言葉を選ぶ。

「――で、そのお婆さんの見つめる先、そうだね、ちょうど県庁の5階。あそこの窓から人が落ちるって事故があった。ニュースでは事故って言ってたけど実際のところハッキリしなくて。噂によるとその人、窓の外を眺めていたと思ったら突然叫んでそのまま飛び降りたんだとか」

 この部分は作り話だ。そんな事故など無かったし、当然報道も無かった。少し調べれば作り話だとわかるだろうが、たかだか仲間内の遊びのためにそこまでするとも思えない。まあ、もしもバレてしまったらそのときは褒めてあげよう。

 そんなことを考えながら続きを語る。ここからが大事だ。

「ところで、もう気付いたと思うんだけど、その交差点というのは…」

 話しながら立ち上がり、教室の中を移動する。カツン、カツンと意識して靴音を響かせる。ゆっくり、焦らず、早口にならないように。目指す場所は窓際、あの交差点を見下ろす位置。高梨の視線が窓の外に向いたのを確かめる。

「…そう、そこの交差点。それで、そのお婆さんは」

 ゆっくりと右手を上げ、人差し指を伸ばし、交差点の真ん中に向ける。

「まだいるんだって、あそこに」


 シン、と静まり返る。

 高梨の眼は交差点に釘付けになっていた。ごくりと生唾を呑むように喉が動いたのが分る。上手くいくかどうか不安だったが、演出は成功したようだ。私の身体の緊張が解けて溜息が漏れ、ふと高梨の視線に誘導されるように、老婆の方に目が行った。

――あれ?

 小さな違和感だった。相変わらずそこにいる老婆が何かいつもと違うように感じた。老婆はいつものようにほとんど動かず佇んでいて、僅かに肩を上下させ、ゆっくりと辺りを見回して――あ。

 違和感の正体に気が付いた。老婆はいつも何かを探すように左右を見回していた。それが今は、上半身を捻ってこちらに向けたままなのだ。今も左右に顔を動かしているのだが、その範囲がいつもよりずっと狭い。それはまるで。

 まさかこっちを見ているのか、と思った瞬間にじわりと脂汗が吹き出た。

「うおお!今のめっちゃゾッとしました!」

 突然の大声に心臓が跳ね上がる。高梨の声に恐怖の色はなく、改めてあれは私以外には見えていないのだと理解する。早く何か返事をしなければまた彼が大声を出しそうで、できるだけ小さな声で口を挟む。

「ああ…うん、怖かったでしょ」

「イイ感じに怖かったですねー。俺しばらくあの交差点通れねぇっす」

 冗談めかして笑う彼にぎこちない笑みを返しながら、そっと老婆の方を窺う。

 すると老婆はいつの間にか、見慣れたいつもの姿勢に戻っていた。何事もなかったかのように、普段通りゆっくり、大きく左右を見回している。

――気のせいか?

 そう思ったし、そう信じかった。見れば老婆は完全に普段通りで、こちらに気付いたり何か反応したりといった様子もない。ああやって指さしたのは初めてのことで、もしそのとき相手もこちらを見ていたら怖いなというイメージは確かにあった。その小さな恐怖心が悪い夢を見せたのかもしれない。いや、きっとそうだ。

「先生、いいネタ貰いました。これ使わせてもらいますね!」

 高梨が帰り支度を再開しながら言う。どう返したものかと少し悩んだが短くこう言うしかなかった。

「うん。ええと…気を付けてね」

 そのやり取りの間も老婆はいつもの老婆であったし、先ほどのあれはやはり気のせいのはずだ。時計を見たときに秒針が長時間止まって見えるような、きっとそのような現象だ。そう自分に言い聞かせつつも、足元から細く這い上がる寒気を完全に消すことはできなかった。

 高梨は礼を言って帰っていった。「気を付けるって、何にですか」などと問われなくて、本当に良かった。



 翌日、老婆の姿は交差点に無かった。

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