第2話
長いこと関心を失っていた老婆のことを今になって振り返っているのには訳がある。発端は昨晩、受け持っていたクラスの講義を終えたときだった。
「それじゃあ、今日の講義は終了。君たち受験生は来週からの夏休みが本番…と塾長なら言うだろうけど、まあ多少は息抜きしつつ頑張っていこうか」
私の受け持つクラスは中学三年生の受験組だ。入試倍率が1倍を切るような学校を目指す彼らには例えば隣の特進クラスのような必死さは無いが、それでも受験という単語には敏感になっているようだった。慌ててフォローの言葉を繋げると、多少は雰囲気が緩んだ。
「それと夏休み期間は毎日教室を開放するから、午後からは入れるよ。もし早めに来たい場合は事前に電話をするように。私の携帯番号を黒板に書いておくので」
その他、幾つかの連絡事項を伝えてから授業を閉じた。生徒達がガヤガヤと退席してゆき、クーラーの効いていない風が教室に流れ込んできた。その生暖かさを背中に感じながら黒板を消していると、背後から声をかけられた。
「先生、ちょっといいですか。講義と関係ないんですけど…」
「いいよ。どうした?」
振り返ると生徒の一人、高梨が立っていた。軽口や奇行で場を賑やかすお調子者、良く言えばムードメーカーの彼は、少し照れたように話を切り出した。
「実は今度友達と怪談会やろうとしてるんですけど」
「怪談会?」
「そう、怪談会。百物語ってヤツです。夏だし」
話を聞くと、彼は中学最後の夏休みを満喫しようと友達数人で遊びに行くらしい。泊まりがけでバーベキューやら海遊びやらを楽しんで、夜は怖い話で盛り上がろうということだそうだ。大学生と小学生の中間のような遊び方をするものだと思ってから、なるほど年齢相応と言えるかと一人納得した。
「息抜きしろとは言ったけどさあ…まあ、いいか。肝試しで墓荒らすとか病院に忍び込むとか、そういう問題になりそうなのはやめてよ」
「そんなんしませんよ、集まって怖い話するだけです。ただ折角やるなら本格的にと思って。どうせ百話も続かないとは思うんですけど、できるだけ集めようかなって」
どうやらここが本題のようだ。本格的に百物語と言うのなら、誰でも知っているような話ではなく、誰も知らないような怖い話が知りたいということだろう。しかし誰も知らないような話がそこらへんに転がっているということもない。となれば。
「つまりネタが欲しいと」
言い当てると高梨の顔がぱっと輝いた。
「さすが先生。ネットで調べても微妙なのしかなくて、あと他の人と被りそうだし」
「なるほどね。まあ、何か思い出したら話してあげるよ」
昨晩はそう返してしまった。しかし帰宅する高梨を見送りながら、あの交差点の老婆は彼の求める怖い話と言えるじゃないかと気付いた。今でこそ怖いとは思えないが、自分にしか見えない老婆の幽霊だなんて立派に怪談だ。思い返せば初めて見た瞬間は不気味さに足が竦んだではないか。ただそこにいるだけの存在なのでそのまま話してはインパクトに欠けるが「あの交差点では事故が多い」だとか「ふと見るとこちらを指さしていた」だとか、多少脚色すればそれなりに怖く仕上がるだろう。
もはや自分の中では怪異でなくなったものを怪異に仕立て上げようと、私は記憶を振り返り始めた。ふと窓から交差点を見下ろすと、変わらず老婆はそこにいた。
意識して老婆を見るのはとても久しぶりに思えた。
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