交差点の老婆

御調

第1話

 あれを初めて見たのは十年以上も前の事だった。

 母に連れられ日本脳炎の予防接種を受けたときだったから小学五年生の夏だ。腫れて痛む左腕を押さえながら窮屈な姿勢で歩いていたことをよく覚えている。そう、県庁前のスクランブル交差点。強烈な日差しを受けたアスファルトから陽炎が立ち昇り、横断歩道の白線をぐにゃぐにゃと躍らせていた。ゆらゆらと揺らめくそれを眺めていると、しばらくして信号機が青に変わり、歩き出した母に手を引かれた。

 そうして顔を上げると、あれがいた。

 まだ誰も足を踏み入れていない交差点の真ん中に、ボロボロの服を纏った人が一人、こちらに背を向け佇んでいた。服の裾から覗く両足は異常に細く、枯れ木のようだと思った。靴も靴下も履いておらず、裸足で灼けたアスファルトの上に立っていた。腕は力なくぶら下げられ、その先の骨張った肩が僅かに上下しているのが見えた。顔は見えなかったが、後頭部で長い白髪がまとめられていて、あれはお婆さんなのだと思った。

 私は異様な雰囲気の老婆に近づくことを躊躇ったが、母はまるで老婆など見えていないかのように歩みを止めない。いや、母だけではなかった。見ればスクランブル交差点を行き交う誰の目にも老婆は映っていないようだった。肩がぶつかるほどの距離を、顔と顔が触れそうなほど近くを、誰もが素通りしていく。そこで初めて、この老婆は生きた人間ではないのだと思い至った。

 老婆は顔をゆっくりと左右に向けるものの、行き交う人々に反応しているわけではないようで、私が脇を通り過ぎる時もこちらに顔を向けたりはしなかった。通り過ぎる瞬間に、好奇心に負けた私が横顔を盗み見ると、口は力無く開かれ、鼻は手足と同じくしわしわに干からびていた。目元は落ち窪んで陰になっていて、何を見ているのかも、そもそも目があるのかもわからなかった。目を逸らしたその後も、老婆がそこから動く気配は無かった。


 そして十年以上たった今も、老婆はそこに立っている。

 県庁前の大通り、スクランブル交差点の真ん中。交差点を通る人も車も老婆にぶつかりそうな距離を通り過ぎていくのだが実際にぶつかることはなく、不思議と誰もが避けていく。老婆の姿を見て避けているわけではなく、ごく自然に誰もその一点を通らない。人間に備わった無意識の霊感のようなものがそうさせているのだろうと私は推測している。

 相変わらず老婆はゆっくりと辺りを見回している。何かを探しているようにも見え、同時に辺りの様子は何も目に入っていないように見える。初めて見たあの日から今日までの間に何度も見た光景。初めのうちこそ恐怖の対象であったそれも、これほど長い期間に渡って見続けていれば慣れてしまう。特に、アルバイトとして県庁前の学習塾に勤めるようになってからは毎日のように老婆を見ることになった。2階の窓から丁度あの交差点を見下ろせるのだが、もはや老婆が目に入ったところで驚くこともない。

 今となっては私は老婆を、妖怪や幽霊というよりも景色や置物として認識していた。地蔵や狛犬、あるいは道路工事の誘導人形でもいい。腕が動く分だけ誘導人形の方が人間に近いとさえ思う。あの老婆は何か意図をもってああしているわけではないのだろう。きっとあのような現象、空間に焼き付いたシミのようなものなのだ。

 以前テレビに出ていた外国の霊能力者は「霊なんて見えても良いことは無い」と語っていたが、もし彼に見えているのもこのような世界であるのならば、深く同意する。もっとも彼は死体を探し出すとか事件の真相を暴くとか言っていたので、きっともう少しは面白みのある世界を見ているのだろうけれど。

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